《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第一話 転生編
俺、真砂仁は自他共に認める歴史オタクである。
かといってそれを職業にするほど傾倒しているというわけではなく、あくまでも趣味としてロマンを追う程度のものではあったが。
過酷な就職戦線を勝ち抜き、某広告代理店に営業として採用されたのが半月ほど前。
長い苦しいサラリーマン生活が始まる前に、せめてもの思い出にと俺が旅行先に選んだのは東ヨーロッパであった。
 
 
東ヨーロッパはかつて共産圏であったためか日本にはなじみが薄いが、むしろ歴史的文化財の質という意味では西ヨーロッパのそれを遙かに上回る。
今もなお歴史の香りを濃く殘す町並みや、頑なに守り続けられてきた古き良き習俗など、俺のように腐りかけた歴史ファンには非常に新鮮な魅力に満ちあふれた場所だ。
口當たりよく言うならば通好みと言ったところだろうか。
コソボの世界産にも指定されたデチャニ修道院やベーチ総主教修道院は派手さこそないが、まるでそこが中世で時を止めてしまったような深い趣がある。
日本人の常識からすれば不便極まりない生活だがそこには時の流れに思いを馳せる何かがあった。
こんなあたりが俺が腐った歴史ファンである所以なのだろう。
実際大學時代の友人はフランスのヴェルサイユ宮殿やルーブル館を旅行先に選んでいる。
酔狂にも東ヨーロッパを一人旅するなどという冒険を志したのは俺だけだ。
そして今日―――――俺はこの旅最大の目的地であるルーマニアへと到著した。
 
 
ルーマニア………ローマ人の國を意味する古代ローマの屬州であったその國名はいかにも日本では知名度が低いと言わざるを得ない。
おそらく日本人百人にルーマニアの所在地を聞いてもその位置を正確に答えられるものは一人もいないかもしれない。
新聞好きなお父さんたちの幾人かが、悪名高き獨裁者チャクシェスク大統領がいたことを覚えているくらいだろう。
だがトランシルヴァニアと言えば下手をすれば小さなオカルト好きの小學生でも知っているはずだ。
そこはドラキュラ生誕の地と言われているのだから――――――。
 
 
 
ブラム・ストーカーが1897年に「ドラキュラ」を出版する以前―――彼の名は完全に歴史に埋もれていた。
わずかに「ワラキア公國とモルダヴィア公國の語」などの書のなかで串刺し公という二つ名が悪名とともに語られる存在でしかなかったという。
ところが吸鬼ドラキュラの大ヒットとともに、そのモデルがワラキア公ヴラド・ツェペシュであるという話が広がると彼の名はにわかに腳を浴びることとなった。
冷酷無比な暴君として、あるいは民族獨立の功績者として。
 
俺が彼を知ったのは大學二年の夏ごろの話になる。
ハンガリー中興の祖であるマーチャーシュについて調べていたはずの俺は偶然オスマン朝との戦いに散った彼を知り、たちまち彼の劇的な人生に魅せられた。
不遇な人質生活に始まり、父に捨てられ、部下に裏切られ、暴君として恐れられながらも、祖國ワラキアに秩序ある平和を一時はもたらした。
しかしあまりに圧倒的なオスマンとの國力差、そして頼るべき隣國から逆に仕掛けられる謀略の數々――――それはもともと猜疑心の旺盛だった彼の神の均衡を崩していく。
そして再び裏切りに見舞われた転落………名君として稱賛されることも可能であったはずの彼は敗北によってその名を串刺し公という悪名とともに葬られた。
勝ち目のない戦に挑む悲壯な姿が日本人の判びいきな好みを刺激したのかもしれないが………その時から彼は俺の中での英雄となった。
 
 
ヴラド・ツェペシュ―――――彼は1431年トランシルヴァニアのシギショアラでヴラド2世の次男として誕生した。
トランシルヴァニアがドラキュラ生誕の地とされているのはそのためである。
しかしヴラドが活躍したワラキア公國の首都はトゥルゴヴィシュテにあり、そこには今なお公都のシンボルとして彼が建築したキンディア塔がその雄姿を留めている。
さらにその北部にはヴラドが築いたと言われるポエナリ城があり、思ったよりも小さな城の印象だが、いかにも吸鬼の名に相応しい鬱な空気を醸しだした古城の風景に俺は嘆の念を隠せなかった。
 
「しかしお客さん、こんなところまで日本人が來るのは久しぶりだよ」
 
いささか訛りの強い英語で観タクシーの運転手が人懐っこく話しかけてくる。
彼に言わせるとポエナリ城はドラキュラの銅像が立つトゥルゴヴィシュテに比べると全く人気のない場所なのだそうだ。
アルジェシュ川の袂にそそり立つ城塞で通の便もそれほど良くないうえに、付近に宿泊施設や観場所がないのもその原因であるらしい。
しかし俺に言わせればフランシス・コッポラ監督の名作「ドラキュラ」を観てこの城にこないのはおかしい。むしろ冒涜であろうと小一時間問いただしたいところである。
映畫の冒頭、ドラキュラ最の妻エリザベータは、夫の戦死の誤報をけて絶のあまりこのポエナリ城のテラスから投げして自殺してしまう。
ところがキリスト教は自殺をじており、たとえどんな理由があろうともエリザベータの死は神に許されざる行為であった。
そして司祭に自殺したものの魂は永遠に救われないと諭されたドラキュラはあまりに理不盡な神の仕打ちとその教義を憎み、神を穢すことを誓い、ついにその魂を悪魔に売り渡す。
吸鬼ドラキュラ誕生の地はまさにこのポエナリ城であるはずなのである。
 
「まあね、―――――それに人はないほうが詩に浸れるというもんさ」
 
これは決して負け惜しみではない。
観客でごったがえした手あかのついた名所などに未練はなかった。
異國の地で自分だけのドラキュラと向かい合う。
それほどに俺は彼に惹かれていたし、まともなファンと同じレベルで旅を楽しむのは俺の腐った歴史ファンとしての矜持が許さなかった。
 
「確かにここは地元の人間でもなかなか近づかない場所だからね………ゆっくり昔を懐かしむにはいい場所さ」
 
そう言って運転手は笑った。
押しの強そうな角ばった顔が満面の笑みを浮かべていたが、なぜか背筋が寒くなるような戦慄に俺は震える。
無邪気で人好きのしそうな笑顔なのに、その笑顔が自分ではないどこか遠い世界に向けられているような……そんな寒々しい笑いだった。
 
「お客さんは本當に運がいい。何せ今日は満月です………きっとドラキュラ様もお客さんの來訪をお喜びになりますよ………」
 
いや、別に夜までいる気は………そう言いかけて俺は意識が遠くなるのをじた。
眩暈か?咄嗟に助けを求めようとした俺のばした手を、運転手が仮面をいだかのように豹変した酷薄な顔で振り払うのを、愕然として見たのが俺の最後の記憶になった………。
 
 
 
 
 
「…………ここはどこだ?」
 
気がつくとそこは古蒼然とした置のような場所だった。
薄暗い室は天窓から差し込むわずかなが差し込むだけで、今は消えたままの古めかしいランプが天井から吊り下げられたままになっている。
確か俺は観タクシーに乗ってポエナリ城に向かっていたはずなのだが…………。
ツンとする刺激臭がして再び俺はクラリと眩暈を覚えた。
 
―――――そうだ、これだ。この匂いだ――――
 
運転手の薄笑いを見ながらこの匂いがしたと思ったら気が遠くなっていった………。
冷靜に考えればおそらくはこれは睡眠導剤か幻覚剤の類なのだろう。
ということは俺はあの運転手によって拐されたということになる。
 
「東歐はもうし治安がいいと思ってたんだがな…………」
 
さすがにイスラム原理主義の跋扈する中東を旅する勇気はなかったが、東歐ならばスラムにでも近づかなければ大丈夫だと踏んでいたのだが………現実は予想を裏切ったということか。
旅をしている途中でどうも日本人はみんな金持ちだと思われているような気がしてはいたから、というか何度も家の娘と結婚しないか勧められたからな…………。
代金目的拐だするとあまり裕福とは言えない親が泣きそうだ――――。
そんなことを考えていた俺は暗闇になれてきた目に映ったものを見て愕然とした。
 
魔法陣らしい幾何學的な文様。
で塗りたくられて生贄らしい鳩や貓の首が無造作に置かれた祭壇。
拷問用にしか見えない拘束や中世の処刑用として悪名も高き鋼鉄の処を模した棺桶。
はっきりと中二病カルトくさいテンプレな景が広がっていることに気づいたのである。
それは俺の生存確率が代金目的拐であった場合より劇的に低下してしまったことを意味していた………。
 
まずいっ!この狀況はまずすぎるっ!
 
両手を手錠で固定されまだ薬の影響なのか頭がズキズキと疼痛を訴えているこの狀況で俺が拐犯を出し抜いて逃走に功する確率は奇跡に等しかった。
大使館が行方不明として俺を捜索を開始してくれるのはビザが切れた後になるだろうし、可能があるとすれば犯人が地元警察にマークされているような危険人であるということだが………。
 
「おや、気がついたようだね。お客人」
 
聞き覚えのある聲に振り向けば、全く邪気のない人懐こそうな笑みを浮かべているあの運転手がひとつしかない扉の前で佇んでいた。
 
 
 
「君は本當に運がいい。今宵は満月、そして我が先祖ブラド公の命日でもある。その良き日に君という貴重な贄がやってきてくれたことに謝するよ………」
 
はっきりと頭のイカレタ発言に俺は心で頭を抱えた。
それはまともな渉の余地がないことと同義でもあったからだ。
 
「ああっ!ついに!あの気高き方が!不死にしてこの世界を統べるべきヴラド公が復活される!お客人よ、貴方はその貴重な使命を與えられたのだよ!」
 
死んだ――――これは死んだな。いわゆる詰みって奴だ。
まさか本気でヴラドの復活を目論む大バカがこの世にいるとは思わなかったよ。
話さえ通じるなら小一時間どれだけヴラドが無力で悲劇的な人生の敗北者であったか教えてやるところなのだが。
 
男が懐の中からやたらと凝った意匠の短剣を引き抜く。
からみつく蛇に髑髏を象った柄。典型的な悪魔主義者が好む意匠だった。
まさにテンプレ乙。
―――――などと生命の危機を前に隨分余裕そうに見えるかもしれないが、これはあくまでも心の聲であって、ようは単に現実逃避しているだけだ。
さっきからガチガチと歯のは合わないし手足も震えて失していないだけでも褒めてあげたいほど全は恐怖に悲鳴をあげている。
 
そんな俺を哀れっぽく見つめた男は大仰に肩をすくめてみせた。
 
「何をおびえる必要がある?貴方はこれからヴラド公とともに永遠を手にするのだぞ?あのいと貴き方とひとつになれる栄譽が貴方には與えられたのだ!もっと喜びたまえ」
「俺がヴラドと一になったところで何も出來はしないさ………」
 
ハンガリーとオスマンという大國に挾まれ、非協力的な貴族や宗教対立まで背負わされたヴラドはまさに四面楚歌の狀態にあった。
それにもしもヴラドが復活したとしても、彼が命を賭して守ろうとした妻も民も國もすでにこの世には殘されていない。
 
「まことに殘念だな。―――――無知というものは」
「狂信に比べれば無知なんて可いもんさ」
 
サッと怒りに顔を青ざめさせた男が短剣を振りかぶるのが見える。
ごめん、父さん母さん………せっかく育ててくれたのにこんなところで殺される息子を許してください。
 
サラリーマンとして中間管理職の悲哀を味わっている父はきっと表を変えずにただ夜の酒量を増やすのだろう。
母は泣いて泣いて泣きつくしてまたカラ元気でも明るい主婦に戻るに違いない。
幸いにして家族には出來のいい僚の兄に可い子校生の妹がいるから、俺が死んだことは―――時間が解決してくれるはずだ。
 
「ヴラド様!今生贄を貴方に捧げます!」
 
 
――――――阿呆が。ヴラドが串刺しの山を築いてまでんだのはせめてもの秩序と恐怖だけなのに―――――
 
まともな手段では戦うことさえおぼつかなかった。
オスマンと言う巨人と戦い続けるために効果的に恐怖を演出した。
その結果當然のように國は疲弊し、味方は櫛の歯が抜けるように零れおちていったけれど―――――。
それでもなお殺される瞬間までヴラドは戦うことを諦めようとはしなかった。
 
 
ゆえにこそ、俺は彼に―――――――――
 
 
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