《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第六話 故郷への帰還その1
ヴラド2世の死後、ハンガリーの宰相フニャディ・ヤーノシュはワラキア公家の一員であるダネスティ家からヴラディスラフを迎え、これをワラキア公として推戴することを宣言した。
出來うることならばオスマンを相手に善戦を続けるヴラド2世を処分するのは惜しかったのだが、中途半端に有能なばかりにハンガリーにまで敵対行をとるヴラド2世を排除するようにという
國の聲に逆らうことが出來なかったのだ。
それにヴァルナの戦いでハンガリー國王を戦死させてしまったヤーノシュはヴラド2世にその責任を糾弾され、あわや処刑の危機にさらされている。
多役に立つという程度ではその恨みを水に流すことは不可能であった。
 
「ままならぬものだ、な…………」
 
傀儡として擔ぎあげたヴラディスラフだが、必ずしもハンガリーに益をもたらしてくれるとはかぎらない。
史実においてもヴラディスラフはワラキアの政治的獨立を死守し、オスマンとハンガリーの雙方にワラキアを高く売りつけることに功していた。
決して戦上手な人ではないが、その外手腕はあなどれるものではなかった。
しかしたとえそうだとしてもオスマンの後押しで登場したヴラドの息子などにワラキアを渡すよりは何層倍もましである。
ハンガリー王國の実質的指導者としていずれは名実ともにハンガリー王家を乗っ取ることをんでいるヤーノシュにとって、ワラキアはオスマンとの緩衝地帯として機能してもらわなくては困るのだった。
 
「あの男の息子とはいえ所詮は14の若僧だが………まあ念には念をれておくか…………」
 
たかが小僧ひとりと侮ったりはしない。
なんといっても奴はあのヴラド・ドラクルの息子なのだ。
わずか數百の兵力で數年に渡り大國オスマンに逆らい続けた稀代の武將の――――。
 
とはいえ彼にヴラド・ドラクル2世ほどの求心力がないのもまた確かなことであった。
何の実績もないオスマンの傀儡に味方するほどワラキア貴族は甘くない。
彼らの勝手な日和見と保ぶりはワラキアを統治するものにとって長く頭痛の種であったのである。
おそらくはオスマンがどの程度の兵を出すか、ハンガリーがどの程度本気でヴラディスラフに肩れするかで彼らの向は容易に変わるだろう。
だからこそここで手を抜くわけにはいかないのだ。
 
「パスラフを呼んでおけ」
 
初老を迎えた年來の宿將の名を呼び、ヤーノシュはすでにワラキアでの決戦後へと思いを馳せていた。
侮っているつもりはなかったが、それでも歴戦の英雄であるヤーノシュにとって負けるはずのない相手という認識は変わらなかったのである。
 
 
 
 
 
オスマン朝から與えられた二千ほどの援兵を加え、総勢五千に膨れ上がったヴラド軍は怒濤の勢いでワラキア公國南部を侵食した。
これはベルドやネイ、タンブルたちの親族を中心に、南部地方の小領主がこれ以上のオスマン朝との戦いを避けヴラドを君主として推戴することに同意したというのが大きい。
もっともその大半は好意的中立という日和見的なものではあったが。
予想以上に厭戦気分の高まっていた南部貴族が好意的中立とはいえほとんどヴラド側についたことにハンガリーの支援をけた一方の雄、ヴラディスラフは驚きの念をじ得なかった。
このままヴラドに鞍替えする貴族が出てくる前に一刻も早くヴラドを撃破しなくてはならない。
ハンガリーから派遣されてきたパスラフ將軍を副將に據え、およそ八千にのぼる軍勢を組織してヴラディスラフはヴラドの迎撃に進発したのである。
 
 
 
 
「………思ったよりも気張りやがったな…………」
 
正直兵力的にはなんとか互角になるのではないかと考えていた。
さすがはヤーノシュ、俺を倒すために兵力の出し惜しみはするべきではないと悟ったか。
父ヴラド・ドラクルが最大に員しても五千弱、自ら自由にかせる兵力は數百であったことを考えればヴラディスラフの員した兵力は破格のものだ。
もっともその大半は向背定かならぬワラキア貴族と、利害の必ずしも一致しないハンガリーの援軍であろう。
ならば恐れるべきなにほどのこともない。
 
「殿下、ご命令を」
「砕しろ!ワラキアの支配者が誰であるのか、の見えぬ愚か者に教育してやれ」
「意」
 
不敵にゲクランが嗤う。
見事な統制力を発揮したテルシオが槍先を並べてゆっくりと前進を開始した。
 
「……可哀そうだがお前らみんな禿鷹の餌だ」
 
敵のなかでもっとも高い戦力であることは疑いないハンガリー騎兵部隊だが、殘念なことにこの騎兵はテルシオに致命的なほどに相が悪い。
集隊形の極致たるテルシオを撃ち破るためには、テルシオを上回る火力の集中が必須であった。
しかし雑多な貴族軍を主力とするヴラディスラフ軍にそんな集中などむべくもなかった。 
傭兵を中心とするヴラドのテルシオはまだ十分と言えるほどの練度ではないが、ゲクランが頼りにする腕ききの傭兵が中隊ごとに士として配分されその運用を補完している。
仮にヴラディスラフが一萬の兵を率いていたとしても、ゲクランは微塵も負けるなどとは思っていなかった。
 
「奴らがしでも殿下の恐ろしさがわかっていればあんな調子にのってはいられないはずなんですがねえ……」
「馬鹿は俺達の褒の種さ。今も昔も変わっちゃいねえ」
「へっ!そりゃ違えねえ!」
 
殺到するヴラディスラフ軍にむかってテルシオの外縁部から一斉に弩と火縄銃が放たれる。
この時代まだまだ普及の追いついていない火縄銃の轟音に、士気の低い貴族軍が浮足立つのが俺の場所からも見て取れた。
この程度でビビるくらいなら最初から出てこなければいいものを……。
こんな連中を數としてあてにしてたとすれば今頃ヴラディスラフも真っ青であろう。
火力支援を潛り抜けた連中がようやくテルシオの前面にたどりつくが、岸壁にぶつかって砕け散る波のように、強固な槍兵の防力の前にあっさりと蹴散らされていたずらに傷口を広げるだけであった。
 
「これはいかん………!」
 
ヤーノシュに派遣されたパスラフ將軍はさすがに味方の劣勢を正確に察していた。
數こそ多いものの戦意のあるのは一部の傭兵とヴラディスラフの一族のみで、大半の貴族はただ勝ち馬に乗ろうとしただけにすぎない。
負けを意識した瞬間に八千の軍勢が砂上の樓閣のように崩れ去ってしまうのは明らかだった。
「このままでは士気が持たん………出るぞ!」
 
乗馬騎兵による躙が戦場の華であった時代である。
いまだスイス槍兵がブルゴーニュ公をその槍先にかける前の時代にテルシオの真価を理解できるものがどれほどいることか。
パスラフ自も、テルシオは傭兵の逃亡を防止し、士気を保つための手段であることを疑っていなかった。
傭兵の平民づれなど我が馬蹄にかけて踏みつぶしてくれる!
勇敢なハンガリー騎兵を率いて、けたたましい地響きとともに突撃を開始したパスラフは勝利を確信していた。
なんといってもハンガリー騎兵は東歐に兵の名も高く、ヴァルナの戦いではあと一歩でスルタンの首をとる寸前まで追い詰めたのである。
衆寡敵せずイェニチェリに敗れ去ったものの、スルタンの心膽を寒からしめたその突撃衝力は國王の死とともに伝説の域にまで高められていた。
 
「てめえらもっと腰を落とせ!抱くつもりでに力れろ!」
「へへへ……はもっと優しくしてやるもんだぜ?レーブ」
「そうそう!だからお前はにもてねえんだ」
「なんだとこの野郎!」
 
しかしワラキア軍の中核たる傭兵たちは一向に恐れるつもりはないらしかった。
確かに迫りくる馬の巨と甲冑の騎士たちの迫力は大したものだが、それが見かけほどに強いものではなく、むしろ脆弱でさえあることを男達は経験的に知っていた。
ゲクランをはじめとする一部の傭兵はフランスでの百年戦爭に參加した経験があったのである。
 
「いまだ!突けええ!」
 
前衛隊長であるレーブの掛け聲とともに一糸れぬ整然さで槍先が突きだされる。
ここまで完璧な迎撃をけるとは予想していなかったハンガリー騎兵は次々と馬を傷つけられ落馬して大地に叩きつけられた。
猛スピードで迫りくる騎兵はその迫力だけで士気の低い軍勢を壊に追い込むだけの魔力がある。
しかしヴラド軍は彼らの予想に反して意気軒高であり、ゲクランやレーブはハンガリー騎兵がテルシオの敵ではないことを訓練を通じて験的に知していた。
たちまちハンガリー騎兵の三割が落馬しその戦力としての機能を失った。
敵の弱點を躙する際には無類に力を発揮する騎兵も、強固に守備を固められた歩兵を相手にはそのもろさを呈する。
そもそも馬という生きは気が弱く、さらに怪我にも弱い脆弱ななのである。
悪夢としか思えぬ破滅的な景にパサラフは絶句した。
彼の戦場でも経験から言えば、歩兵というものは城塞のような防施設から投武で戦う場合を除いては騎兵を正面から撃破できる兵科ではなかったからであった。
 
「これは………これはいったい何の魔だ?」
「將軍!お退きください!このままでは………公よりお預かりした騎兵が全滅します!!」
「うぐっ」
 
ここでハンガリー軍にとっては所詮他國の助け戦であるという現実が災いした。
確かにヴラドを撃ち破りヴラディスラフにワラキアを統治してもらうのがハンガリーにとっては最良の結果だが、それが葉わないというのならば最悪再戦のための戦力を溫存しなくてはならない。
もちろんここで勝ち目があるならば全力で抗戦するという手もあるが、想定外の被害をけてパサラフにはここでヴラドに勝つ自信がどうしても持てなかった。
 
「くそっ!この借りは必ず返すぞ!」
 
兵書に歩兵に退卻なく騎兵に退路あり、と言う。
テルシオのように鈍重な集方陣はなおのこと追撃を行うことが難しい。
パサラフが戦場からの退卻を決斷したこの瞬間にヴラディスラフの命運も盡きた。
 
 
「そんな……!話が違うではないか!!」
 
頼りにしていたパサラフ將軍の離によって、かろうじて戦線に踏みとどまっていたワラキア貴族たちが一斉に逃亡を開始した。
殘されたヴラディスラフの一族はわずか數百程度にすぎない。
君主といってもワラキア公が掌握する兵力はずっと以前からその程度の數にすぎなかった。
この狀態は史実のヴラド三世が、貴族に頼らぬ直轄軍を拡充するまで続いた。
 
ヴラドの息子など鎧袖一だと言っていたではないか、とヴラディスラフはハンガリー軍の不甲斐なさに憤慨したが自らこの敗勢を覆そうなどとは考えても見なかった。
もともと自分が戦場での猛將ではないことを彼は十分よく承知していた。
全く甘く見過ぎなのだ。
我々が暗殺する以外に結局ヴラド・ドラクルを滅ぼすことは出來なかった。
こうした戦であの男の息子を討ち果たそうとするのならば、ヤーノシュ自らが出陣してしかるべきであった。
新たなワラキア公として薔薇の未來を予想していた時は考えもしなかったことだが、真実ヴラディスラフはそう信じかつ憤慨していた。
もうしハンガリー軍が踏ん張っていてくれれば戦の展開も変わったものになるはずだった。
 
 
「―――――ネイ、タンブル、引導を渡してやれ」
 
両翼からヴラド軍の騎兵が矢のように飛び出していく。
ハンガリー騎兵が壊滅していたために、これに対応するだけの騎兵がヴラディスラフは掌握出來ずにいた。
ただでさえ戦線を離しつつあった貴族軍はこの追撃をけ被害を増し、さらにテルシオが前進を開始するにいたってヴラディスラフ軍の士気は完全に崩壊した。
 
「ヴラディスラフを逃がすな!」
「ヴラド殿下に栄あれ!」
 
二人とも馬を維持していくのもやっとな下級騎士の出であるが、騎兵指揮としての才能には天のものがある。
ゲクランの話ではあるが歩兵指揮と騎兵指揮は要求されるセンスが異なるものであるらしい。
水を得た魚のように鮮やかな機で歩兵の戦列を切り裂いていく二人の手腕には俺も口を開けて嘆するしかなかった。
 
――――――わずか五百のこの騎兵突撃がとどめであった。
貴族軍に続いてヴラディスラフの指揮するダネスティ家の本隊が退卻を決斷するに及んでヴラディスラフ軍は四分五裂の有様で潰走に移った。
無秩序に我先に逃げていく貴族たちを見ているとヴラディスラフが気の毒になってくるほどだ。
そう思えること自が勝利を確信したことによる余裕なのだろうか。
 
「―――――どうやら勝ったな」
「お見事です!ヴラド殿下!」
 
素直に崇敬の眼差しを向けてくるベルドには悪いが実のところ背中も手のひらも汗でびっしょりである。
こんなところで躓いてしまっては、理想を果たすどころかただ生き延びることすらおぼつかない。
ほぼ勝てるという計算はあったが、こうして実際に勝利を手にするまではほとんど薄氷の上に立つ思いだった。
深い安堵とともに息を吐き出しつつ、俺は意気揚々とベルドに言った。
 
「それでは凱旋するとしようか、我が故郷に!」
 
 
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