《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第九話 故郷への帰還その4
完全な勝利がのぞむべくもなくなった今、ヤーノシュに求められているのは相対的勝利。
すなわち外に政治的に勝利を宣言できるだけのワラキア軍に対する戦的勝利となった。
なくとも、ワラキア軍を敗走させたという事実が必要となったのである。
 
「騎兵の収容を急がせよ。一人でも多く生かして故郷へ連れて帰るのだ!」
 
しかし仮に勝利したとしてもこれほどの騎兵の損害は痛恨事であった。
馬というは飼育と調教に時間がかかり、これを保持し、運用することのできるものの多くは裕福な騎士であり、とてもではないが一朝一夕に補充できるものではなかったからだ。
 
「両翼をばせ!全方位から圧力をかけるのだ!」
 
さすが歴戦の勇士であるだけに、ヤーノシュはワラキア軍の弱點を正確に看破していた。
そもそも軍という組織は高度な規律と訓練を必要とする組織である。
軍としての主力を傭兵に頼らざるをえないワラキア軍はこの組織力において非常なもろさを包していた。
ならばそのもろさを呈するほどにただ圧力をかけ続けるだけで、遠からず致命的な失敗を犯してワラキア軍は崩壊する。
練度の低いワラキア軍が長時間のハンガリー鋭に対する戦闘を継続できないことは、もちろんヴラドもゲクランもよく承知していた。
 
 
 
「確かにこっちはまだまだ弱いが弱いなりにちゃんと準備はしてるんだぜ?ヤーノシュ」
 
確かに兵力と質において圧倒するハンガリー軍が小細工する必要はない。
ただ真っ當に正攻法を取るだけで結から間も淺いワラキア軍の敗北は確実なのだから。
事実俺も正面から毆りあったらおそらく一時間ともたないであろうことは予想していた。
だから當然まともにやりあうことなど思いもよらない。
弱者には弱者なりの戦いがあるということをもう一度ヤーノシュに思い出させてやる。
 
 
ガラガラガラガラ
 
車の回る音が響き渡り、撃を終えた兵士が後方に下がるのに合わせて車の大きな馬車がれ替わるように前進してきた。
馬車同士は巨大な鎖で連結されており、馬車を守るようにして長槍兵部隊が槍襖をつくって展開していくのを悪夢でも見るような思いでヤーノシュは唖然と凝視した。
彼はそのものを何度も見た経験があったからだ。
 
「ヴラド…………貴様!勝利のために悪魔に魂を売ったか!?」
 
巨大な馬車を連結し、ぶ厚いオーク材で裝甲された馬車のなかから、ただ火力だけで戦うために編み出された新戦。
軍人ではない信徒の農民や市民を戦力化するために、天才ヤン・ジシュカが発明したもっとも近代に近い戦にヤーノシュは幾度となく苦杯を嘗めさせられてきた。
ヴラドが戦場に持ちだしたそれは不敗の異端、フス派の使用する戦車に酷似していた。
 
「恥知らずめ!やはり貴様はあの男の息子だ!悪魔ドラクルめ!悪魔の申し子ドラクリヤめ!」
 
脳の管が灼ききれるのではないか、というほどに怒り狂ってはいたが、ヤーノシュの戦略家としての頭脳は勝機がもはや過ぎ去ったことを諦念とともに理解していた。
あの馬車で造られた城塞はまともな野戦で攻略することは難しい。
何度も敗北を繰り返してわかったことだが、フス派の馬車は移する一個の城であった。
すなわち、必要とされるのは野戦における機力と士気ではなく、攻城戦における火力と兵數なのである。
今日の戦いを短期決戦のつもりで臨んだハンガリー軍に攻城戦を行うだけの準備はない。
 
それにあの戦はフス派の悪魔が練度の低い農民でも、騎士を相手に戦うことができるよう編み出されたものだ。
強固な防施設である馬車の中で、軍事訓練を碌にけていない信徒を撃だけに専念させる。
傭兵あがりの軍人に馬車を守らせ、素人の平民を戦力化するというこの手法は當時の封建社會の中ではコロンブスの卵的な発想だった。
攻めれば貴重な練兵がワラキアの新兵に倍する速度で失われていく。
ヤーノシュにとって筋と莫大な育費用をかけた騎士と平民は決して同価値なものではなかった。
フス派が勝ち続けた理由は、確かに畫期的な戦に負うところも大きいが、平民ごときのために名のある騎士を殺したくないというのも大きな理由のひとつであったのである。
実験としてそれが理解できるだけにヤーノシュには歯がゆい。
それではなぜヤーノシュがこれほど有用な戦を模倣しなかったのか?ということになればそれは當然ヤーノシュ自が野心家であると同時に敬虔なキリスト教徒であったからだ。
悪魔の手先である異端の考案した戦など彼が採用できるはずがなかった。
 
「この屈辱は忘れん…………悪魔には悪魔に相応しい天罰があることを思い知らせてくれる!」
 
無念に顔を蒼白にしてブルブルと頬を震わせたヤーノシュは復讐を誓った。
今は凱歌をあげるがいい。
だが主は決して貴様の罪を見逃すことはない。
悪魔と手を結んで一時勝利を得たとして、それが長続きなどすることはないのだ。
 
 
「殿はワラキアの貴族どもに任せろ。あんな連中でも弾よけくらいにはなろう。逃げようとするならば遠慮なく斬り殺せ!」
 
撤退を開始したハンガリー軍に見捨てられた格好になったワラキア貴族は哀れであった。
もともと強い方の馬に乗ることしかできなかった彼らが最前線に投されたのだ。
追撃のために出撃したワラキア騎兵と、隊伍を組んで前進を開始したテルシオが彼らを否応なく殺戮の巷へと巻き込んでいく。
逃げようとした幾人かの貴族が背後からハンガリー兵に斬り殺され、彼らは自らが生き殘るために絶的な抵抗を選択せざるをえなかった。
 
「畜生!ハンガリーの奴らめ!都合のいいこちばかり言いやがって………」
「わ、私はこんなところで死ぬわけにはいかん!いやだ!死ぬのはいやだ!」
 
勢いに乗るヴラド軍に士気の崩壊したワラキア貴族が相手になるはずもない。
次々と彼らの手兵は討たれ、あるいは逃亡して、見る間に彼らを守るべき兵たちは姿を消していった。
刻一刻と迫りくる死という現実を必死にけれまいと彼らは力の限りにんだ。
 
「防げ!なんとしても防ぐのだ!」
「わ、わしを置いていくな!つ、連れていってくれ!!」
 
生贄に捧げられた彼らの運命は過酷であった。
勝利の名分が得られたとはいえこのままハンガリー軍に戦力を溫存されるのはワラキアにとっても好ましいものではない。
しでもハンガリー軍に痛撃を與えようとヴラド軍の容赦のない攻撃が続く。
ネイとタンブルに率いられた騎兵の一隊が遂に止めの牙となって彼らの隊列を真っ二つに切り裂いた。
 
「た、頼む!助けてくれ!」
 
死神の槍をしごいた騎士が接近してくるのを目撃した貴族は無意識のうちに失し、汚で下半を汚しながらを投げ出して命乞いをした。
そこには居丈高な貴族の名譽も誇りもなく、ただ生にしがみつきたいだけの児の姿だけがあった。
 
「神に頼め」
 
短く呟いてネイは槍を振り下ろした。
グサリと鈍い音がして、槍の穂先が男の背中から突き抜けると、口元からをあふれさせながら涙を流して男は「死にたくない、死にたくない」と獨り言をつぶやき続けた。
神の許で天國に召されるだけの自信が、男には全く不足していたのだった。
 
「誰だって死にたくはなかったろうさ。我が父もな」
 
そう言ってネイは無に次の獲を探す。
名もなき人々の犠牲の上に我が世の春を謳歌してきた貴族たちがようやくその罪を購う時が來ただけのことだ。
神の前で自分がどれだけ恥知らずであったか告白すればいい。
きっと素敵な褒がいただけることだろう。
 
オスマンの捕虜になる前、ネイは舊ブルガリアとの國境に近いシリストラの下級貴族であった。
痩せた土地とわずかばかりの俸給でその日を暮らすのがやっとの貧乏暮らしであったが、父はヴァルナの戦いにも參戦したという腕自慢の猛者であり、地元の領民たちの信頼も厚かった。
しかし強大なオスマンを敵に回すことを恐れた領主が裏でオスマンと手を握ったことで、勇猛かつ人の厚かったネイの父親は邪魔な存在になった。
そしてあの運命の日、父は信頼していた味方の手によって不意に縄をうたれ敵に引き渡されたのである。
ネイもまたそのときに捕えられた一人であった。
その後ほとんど時をおかずに父はオスマンの兵士によって首をはねられた。
ヴラド殿下に救われて九死に一生を得たのちは別れた母と妹の安否を確かめるために報を集めたが、母は父と自分が捕えられたあとすぐに自ら命を絶ったという。
妹の所在は今も杳としてわからない。
 
一時は復讐の炎にを焼きつくそうかと思ったこともあった。
自慢の父だった。
優しく包容力のある母だった。
神に対してなんら恥ずべきことのない堂々たる人生を送っている家族だった。
にもかかわらず非にも一貴族の利益のためにささやかな家族の幸福はいとも簡単に生贄の祭壇にささげられた。
 
 
――――――ともにそんな世界を正そう。
 
ヴラド殿下にそう聞かされたときは盲を開かれた思いだった。
貴族の利益のために領民があるのではない。
名もなき領民たちの平和を守るために國と貴族があるのだ。
そうでないというのなら俺達がワラキアをそんな國に生まれ変わらせよう。
 
今は何の逡巡もなく斷言することが出來る。
ネイ・クリエストラという騎士はヴラド殿下に仕えるためにこそこの世に生をけたのだと。
 
「殿下の障害となるものはこの槍にかけて刺し穿つ!」
 
 
 
 
結局捨て石のワラキア貴族と一部の殿軍を犠牲にして、ヤーノシュは整然と損害らしい損害も出さずに退卻を完了した。
その鮮やかな手腕はさすがはハンガリーの英雄らしい見事さであった。
 
「やはりそう楽には勝たせてくれない…………か」
 
うまくすれば全軍の崩壊ということもありうるか、という俺の願いもむなしくヤーノシュはその勢力を溫存することに功した。
もちろんワラキアの若僧に連敗したと言う事実はヤーノシュの政治的影響力に無視できぬ蹉跌となるであろう。
ワラキア國で潛在的敵対勢力になるはずだった貴族が相當數粛清された効果も大きい。
これらの貴族所有地を沒収するだけで、ワラキア公家は國貴族に対して圧倒的な優位に立つことが可能であった。
 
それにしても危うかった。
勝利の安堵とともにがっくりと全から力が抜けていくのを俺は他人事のように見つめていた。
手のひらは震え足は踏ん張りが聞かず、かろうじて馬の上にバランスをとって乗っているのがいっぱいである。
 
「殿下、どうぞ、水でございます………」
「すまん」
 
ベルドに差し出された水を貪るように飲む。
自分でも気がつかなかったが、いつの間にかがひりつくほどに水分をしていたらしかった。
冷たいがをり落ちていく覚が、しずつ昂揚していた神経を癒していくのが自分でもわかった。
そもそも昂揚していたことに今まで気がつかなかったほど、俺は張していたのである。
 
 
おそらくヤーノシュが信頼する副將に軍を與え、側方を迂回させていたら敗北していたのは自分であった。
百年戦爭でのアジャンクールの戦い以來、しずつ普及しつつある騎兵による側方迂回は古くはマケドニアの槌と金床戦法の応用にすぎない。
だがしかし東歐においてはまだまだ知られていない戦ではあった。
だからこそ俺はヤーノシュが短期決戦をんでいることを奇貨として防戦による出の強要を採用した。
攻め込んでくるのがヤーノシュである以上、これを撃退することが出來れば戦略的にワラキアの勝利となるからであった。
それでももしも先鋒の將軍がパスラフではなく、もっと戦意の乏しい將軍であったなら。
もしもヤーノシュが危険を承知で長期戦を戦う覚悟を決めたなら。
俺の命はこの瞬間にも失われていたかもしれない……。
 
「お見事でした!大公殿下!!」
 
うっすらと涙さえ浮かべながらベルドは激もわに祝いの言葉を捧げた。
この主君に仕えることが出來たことが誇らしく、この戦いを勝利できたことがたまらなくうれしかった。
 
「まあ、運も実力のうちでさあね、大將」
 
俺の疲労を軍人として理解してくれているゲクランが人懐こい笑みを浮かべて頷いて見せた。
いくら勝てる算段をめぐらしても負けるときは負けるし、破れかぶれの負け戦に思えてもなぜか勝てるときは勝てる。
勝つために努力を惜しむべきではないが、今日勝てた幸運を今は喜ぶべきである。
ゲクランはそう言っているのであった。
 
 
「皆もよく戦ってくれた」
 
禍のは殘ったかもしれないがとにかく俺は今日の賭けに勝った。
史実の2ケ月天下を覆し、押しも押されぬワラキア公としての地盤を築きあげることに功したのだ。
 
「勝鬨をあげよ!」
 
萬の思いをこめて俺は剣を天にむかって突きあげる。
 
 
「ワラキア萬歳」
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