《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第十話 その名はツェペシュ
自分はここに來て変わってしまっただろうか?
戦友とともに勝利を祝い、千を超える敵のを前になんらの罪悪も覚えない自分に自問する。
こんなことは現代日本ではありえない。
人を殺すために策をめぐらし、祖國を奪還するために戦う。
そのためには自分が恐怖の代名詞になることさえ何ほどのこともない―――――などということは。
 
発端になる原因は明らかだ。
今もなお俺の腹の奧でくすぶり続けるヴラドの記憶、絶、怨念………そういったものの殘滓が真砂仁であった俺を侵食している。
だが決してそれだけでないこともまた確かなことであった。
 
ともに戦う仲間がいる。
史実のヴラドには遂に與えられなかった仲間が。
その仲間とともにこのワラキアに自由と平和を築き上げたい。
彼らがむワラキア公國の真の獨立こそは俺自が目指す理想でもある。
しかしそれそらもヴラドの影響がないと果たして言えるかどうか。
 
 
―――――――否、俺は俺、だ………。
 
たとえヴラド・ドラクリヤの影響があろうとなかろうと、かつての真砂仁と変わってしまおうとしまわないと、それとは何の関係もなく俺は俺自でしかない。
…………要は悩むだけ無駄だ、ということだ。
生き延びるために、勝ち殘るためにやるべきことをやる。
後悔など生き殘ったら好きなだけすればいい。後悔は生きている人間だけの特権なのだから。
 
 
「デュラムはいるか?」
「前に」
 
如才ない商人出らしい隙のない笑みでデュラムが進み出る。
出會った時には鳥ガラのように痩せていたが、もともと太りやすい質であったのか食事が改善した途端に太り始め今ではゲクランも顔負けの巨漢になってしまっている。
俺のもとで財務卿に就任し、貴族に列せられた彼を羨むものは多いため何かと気苦労もあるだろうに、一切そんなそぶりをじさせないのはさすがというしかない。
財政の切り盛りのみならず軍における補給資の値段渉や補完と移送にまで手腕を発揮しており、今では俺にとってもなくてはならない人材になっている。
そればかりかオスマンとハンガリーの中継貿易にまで手を出していて、それなりの利益を國庫に納めてくれているのだからむしろ頭があがらないと言ってもいいほどだった。
 
「―――――余の名で布告を出せ。今後國貴族達に中立は認めん。布告後10日以にトゥルゴヴィシュテに參陣できないものは余に敵対するものとみなす、とな」
 
「意」
 
わずかにデュラムの顔からの気が引くのがわかった。
彼はその布告が何を意味するのか知っている。
そして彼はワラキアにの雨が降ることに心を痛めるごく善良な魂の持主だ。
ただ、商人らしい計算ができるゆえに、國を立て直すためにはを流すことが効率のいい場合があるということを理屈として認めざるをえないのだろう。
 
 
 
――――――主君はされるより恐れられる道を歩もうとしている………。
 
路頭に迷うところであった自分を救ってくれた恩人である。
デュラムはヴラドの本質がむしろおひとよしの部類であることを知っていた。
しかしただのおひとよしがワラキアの公位を継ぐのは不可能であることもまた間違いのない事実であった。
そんな人間が公位を継いだ日にはたちまちワラキアは大國の貪る狩猟場と化すであろう。
もし10年ほども時間があれば、ヴラドならば別の手段を見つけることが出來たのかもしれない。
しかし現実に大國ハンガリーと臨戦態勢にあり、かつ國貴族の不服従に悩まされる狀況ではそれを打開するために強権を発せざるをえないのだ。
わかっている、わかっている。
だが―――――決してそれが主君の本意でないこともわかっているのだ。それが――――つらい。
 
「それから奴らにバラゴの丘を通るのを忘れるな、と申し伝えよ」
「意」
 
ならばせめて、この煉獄がワラキアの將來に幸をもたらさんことを祈ろう。
そして我が主君がこれ以上己の良心に苛まれることのないように、と。
暗澹たる思いを隠すようにして、デュラムはヴラドにむかって深々と頭を下げた―――――。
 
 
 
 
ヴラドの布告は予想を遙かに上回る早さでワラキアの全土を駆け巡った。
もはや誰もヴラドを14歳の小僧扱いなどできなかった。
オスマン軍の支援をけていた2ケ月前ならばともかく、今回の戦でヴラドは単獨で東歐の巨星フニャディ・ヤーノシュを撃退したのである。
馬鹿にするどころか、いまや真剣に一門の危険が迫っていることを貴族たちはようやく自覚したのであった。
 
「な、なんとか殿下へとりなしを頼みたい」
 
もはや何人目になるかわからない貴族の男がわずか12歳のベルドに頭をさげる様子は稽ですらあり、ベルド自も辟易していたがそれでも會わないわけにはいかなかった。
これは將來の幹部としてのベルドへの教育の一環であったし、どの程度ヴラドに対する恐怖と畏敬が浸しているかを計る機會でもあったからだ。
 
「殿下はこの機會に役に立つ貴族を取り立て、役に立たぬ貴族を取り潰すつもりでおられます。マフディ伯は何をもって殿下の役に立つおつもりか?」
「今後戦があるときはわが一門の総力をあげて參陣する!だから………!」
「今日來なかったものが明日來るからといってもそれを信じるのは難しいものですよ?」
 
ベルドにそう返されて相手の貴族はぐっとがつまったような聲をあげた。
どうして素直に言うことを聞いてくれないのだ、という不満がありありと表に出てしまうあたり、落第點をつけざるをえない。
おそらく表面的に忠誠を誓って嵐をやりすごしてしまえばなんとでもなるとでも考えていたのだろう。
 
「―――――手土産が必要になるでしょうね。殿下は公都に學び舎を建設する予定であられるのでご長男を學させるのもよろしいのではないでしょうか?」
「我が家から人質をとるというのか!?」
「お人聞きの悪い………あくまでもご學ですよ。それに………お聞きしますが貴方は何をもって忠誠の擔保にしようというのです?マフディ伯」
 
自分でも人が悪くなったものだ、と思わないでもない。
貴族たちの子弟をトゥルゴヴィシュテの學校に學させることはヴラドの政策である。
將來の幹部候補生を得るとともに、若い彼らの意識改革を図る、さらには人質としての効果もあるという一石三鳥の政策だった。
こんなことを考えつくところが常人と発想の質が違う、とベルドはヴラドに対する崇敬を新たにする。
 
「しかし………だな。あれは私の一人息子だ。それを公都に送り出すのは………なんとか免れぬものかな?」
「それで殿下が納得すると思うのならば如何様にも。私はただ殿下への取次を任されているにすぎませんので………」
「だ、だが貴殿の言葉ならば殿下も耳を貸してくれるのではないか?」
 
このところ貴族たちの間で噂されている風聞をベルドは知っていた。
ベルドはヴラドの寵である、と。
ヴラドはスルタンの悪癖に化されてワラキアに戻ってきたのだと。
すぐにも毆り倒したい怒りを必死に抑え込みつつベルドは淡々とした聲で伯爵に対して言い放った。
 
「私がすがれば殿下が言うことをきくとでも?あまり殿下を侮辱するとその言葉も殿下に報告しなくてはならなくなりますよ?」
 
それがどういう結果をもたらすかわかりますね?と目で伝えると伯爵は自分が迂闊にも余計なことを言いすぎたことに気づいた。
そして今自分の生殺與奪を握っているのは、まさに目の前の年なのだと、遅まきながらに気づいたのである。
 
「わ、わかった!息子は送る!稅も納める!だから粛清だけはっ!粛清だけは許してくれ!」
「殿下は厳しい方だが優しい方でもあります。貴方自の忠誠心が何よりも強固な盾となるでしょう」
 
そう言いながらもこの男は駄目だな、と心で烙印を押す。
息子のほうに期待はするが、元をすぎたらまたぞろ悪だくみを始めそうなタイプだ。
これがワラキア貴族の実態なのだから恐れる。
 
よほど死の恐怖がこたえたのだろう。
男は訪れたときのような慇懃無禮な態度ではなく、本心から平低頭して退出していった。
同時に、ベルドの右側のドアが開いてスラリとした形の青年が現れた。
蜂の金髪にらしい小振りのと大きな青い瞳が印象的なこの男が、その実ワラキアの暗部を統率する稀代の謀略家であるとはいまだに何かの冗談のように思えてしまう。
 
「ベルド殿もなかなか殿下の側近が板についてこられましたな」
「なんだか底意地が悪くなっただけのような気もいたしますが」
 
まだ15.6にしか見えない顔の青年だが、シエナの年齢は本當は23歳である。
それでもシエナはヴラドの側近であるベルドに対する敬語を欠かさない。
彼なりのヴラドに対する忠誠の表明なのだろうが、冷徹でけ容赦のない謀略家ぶりと、このあたりのアンバランスさがシエナの不用さを浮き彫りにしていてベルドにはおかしかった。
 
「………おそらくあれは懲りることを知らないでしょうから………こちらで手の者を送りこんでおきましょう」
「そのほうがよろしいかと」
 
ベルドは苦笑したが、シエナは相変わらずその秀麗な顔にいかなる表をも浮かべようとはしなかった。
 
 
 
 
 
 
ワラキア中から集まった貴族たちは不安を口にしながらトゥルゴヴィシュテへの道を急いでいた。
敵対していた貴族をいきなり國外に放逐した人である。
オスマンに人質として拘束され、ほとんど徒手空拳であったはずなのに、今やヴラドは獨自の兵力を手にれ國に敵対することが出來る勢力は皆無となっていた。
こんな事態をいったい誰が予想したことだろう。
ワラキア大公は貴族達の支持がなければ國を保つことが出來ず、そのためいつしか大公位は貴族達の利益代弁者のをなしつつあったはずなのに。
貴族の支持を失った大公がどうなるのかは、先代のヴラド・ドラクル2世の末路が何より雄弁に語っていた。
大公の意向など恐れるに足りず。
ほんのつい先ごろまで誰もがそう認識していたはずであったのに、今はこうして一家の滅亡すら覚悟しなくてはならないとは。
 
「大丈夫………だと思うか?」
「いや、まさかさすがに………今回は見逃すと殿下も言われたそうではないか」
「しかしこのままでは我らの権利も名譽もないがしろにされかねんぞ?」
「だが……今逆らえば皆殺しにされかねん………」
「どうしてこんなことに………」
 
結局のところ彼らは出來ればヴラドに従いたくなどないのだ。
できればむしろヴラドを自分達に従わせたい。
だがそれをするにはヴラドはあまりに強大な君主になりすぎて手に余る。
いったいどうしたら自分達の既得権益を維持しつつヴラドに罰せられずに済ませられるか。
道中で彼らは額を寄せ合ってそれを討議してきたのだが、これと言った名案が出ないのが現狀であった。
 
「もうじきバルゴの丘にさしかかるな…………」
 
布告にはひとつ奇妙な條文が付加されていた。
參集する貴族は必ずバルゴの丘に立ち寄るようにというその命令は彼らの疑念を煽らずにはおかなかった。
もともとバルゴの丘はトゥルゴヴィシュテの西部に位置する小高い丘で、ことさら注目しなければならない理由は何もないはずであった。
 
「いったい何の意味が……………?」
 
不審がる彼らの前にバルゴの丘が見え始めた。
しかし記憶にあるバルゴの姿と異なる様子に彼らは一様に首を傾げた。
丘のほとんどを覆っていた青々とした草が姿を消し、それに変わって針葉樹のような木々が林立している。
はたして大公は植樹でもしたものか?それを見學するようにとは何か貴重な木々でも植えたとでもいうのだろうか?
 
それにしては空を舞う鳥たちの多さが何とも言えず不気味であった。
止まり木に鳥が集まると言っても限度がある。黒雲のように數千という鳥たちが舞する様子は完全に常軌を逸していた。
まるで黙示録の日が訪れたような不吉な予に彼らはが泡立つのを自覚した。
 
「な、なんだ?この匂いは………?」
 
風に乗って吐き気を催すような汚臭が鼻をつく。
彼らの中の幾人かは戦場でそれに類する臭気をかつて嗅いだ経験があった。
心のどこかで否定する聲が響く。
そんなはずはない。そんなことがあるはずが―――――。
記憶に間違いがなければそれは死臭、かつて人であったものが塊と臓腑に変わり果てる匂いであったはずであった。
 
「まさか―――――ああ、まさかこんなことが―――――」
「おお!神よ!救い給え!」
 
これが見せたかったのか。
この地獄絵図を、林に見紛うばかりに突き立った死の丘を。
ヴラド・ドラクリヤよ。お前はいったい何者なのだ?
 
「うええええええっ!」
 
たまらず貴族たちの幾人かが胃の容を大地に戻しあげてこみあげる酸っぱいものを撒き散らした。
鳥や獣についばまれて腸が垂れ下がり、眼窩も出した見るも無慘な死が巨大な一本の杭に串刺しにされている。
幾百、幾千という死が串刺しにされて林立していた。
遠目にバルゴの丘が林のように見えたのはそれが原因だった。
 
男もも、老人も子供も関係なく、から口へと杭に刺し貫かれて、うらめしそうに見開かれていたであろう目はすでに腐り落ちて溶けかかっていた。
裏切り者は家族の末端にいたるまで一人たりとも許さないというヴラドの苛烈な意思を彼らは死の山に幻視した。
 
殺される
殺される
殺される
殺して殺されてコロシテコロサレテ
あの悪魔ドラクルがあの悪魔の申し子ドラクリヤが復讐にやってくる
地獄の底から幾千幾萬の悪鬼を連れて、この世に地獄を現出せんとやってくる!
 
 
正気でいることに耐えられなそうになって一人が逃げ出すと、全員が一刻も早くこの狂った地獄絵図から抜け出そうと猛然と馬を駆った。
その中の一人がまるで呪いの言葉でも吐くように呟く。
 
「串刺し公ツェペシュ………」
 
ほんのかすかだったその言葉はほとんどパンデミックのような勢いで貴族たちの間に染した。
魔よけのように
斷罪の許しを乞うように
そしてこの悪しき世界を呪うように
彼らは一心不に呟き続けた。
 
「ツェペシュ」
「ツェペシュ」
「ツェペシュ!!!!!!」
 
 
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