《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第十二話 政編その2
ワラキアに殘された時間はあまりにもない。
やるべきことが山積しすぎていて目まぐるしく忙しい日々が続いていた。
今は故郷に帰ったばかりということで大目に見てもらっているが、落ちつけてくれば再びオスマンは貢納金を要求してくるだろう。
対ハンガリー戦に備えて軍備を拡充し、インフラを整備しようとするなかで多額の予算をオスマンに獻上しなくてはならないのはあまりに痛い。
幸いなことにキリスト教世界の英雄、フニャディ・ヤーノシュを敗走させたことにスルタンムラト2世はいたくご満悅で3年間の貢納金免除のほかに莫大な褒賞金まで下賜してくれていた。
ゆえに、3年の猶予の間に揺るぎない國家経済を構築することが何より急務なのだ。
 
「殿下、ボッシュ伯が參りました」
「通してくれ」
 
ボッシュ伯はワラキア南部ジムニチャに領地を有する中堅貴族である。
ベルドにとっては母の従兄弟にあたるらしく、先頃の戦いではいち早く俺につき従ってくれた數ない味方貴族の一人でもあった。
 
「殿下におかれてはご機嫌うるわしく…………」
「遠路よくきてくれたな、ボッシュ」
「とんでもございません。殿下の命とあらばいつなりと」
 
そう言ってボッシュ伯は深々と腰を折った。
赤に大きな鷲鼻という押しの強そうな顔をしているが、格は謹厳実直を絵に描いたような人である。
まじめ一辺倒で會話にも面白みはなく融通がきくとはお世辭にも言えないが、いざというときに頼りになる男はこんな男なのかもしれない、と思う。
同時に正義の厚い男でもあり、今回任せようとしている任務にはうってつけの男だった。
 
「話はほかでもない。卿に國の治安と國民の戸籍の編纂を任せたいのだ。今後は務卿を名乗るがよい」
 
國を裏から統制するのは報卿のシエナに任せておけばよい。
しかし表の世界で警察権を行使する立場の人間としては、ボッシュのように嫌と言うほど正論を吐くような人間がトップに立つべきだった。
彼ならば地味な作業にも何一つ不平を言わずただ淡々と國民のためにつくすだろう。
それに先代ヴラド・ドラクル以來野放しになっている農民の逃散や流の調査は喫の課題であった。
人口は何よりもわかりやすい國力の目安のひとつである。
戦で無主となった土地を分け與えるとともに、納稅するべき農民の実數を國家が把握することは今後の國改革の基盤として絶対に必要なのだった。
 
「に余る栄でございます」
「今なら無主の土地を無償で國家が與えることを布告せよ。農民の次男三男ならば一家を興すのにまたとない機會だろう。農についても公國が負擔するとな」
「よろしいので?」
「いずれ十分お釣りがくるから問題ない」
 
殘念なことだが布告の効力は貴族の所領までには及ばない。
しかし結果的に公室直轄地が人口の増加と耕作地の増大によって繁栄すれば彼らも追隨せざるをえなくなるだろう。
いずれにしろこのまま耕作地が荒れるに任せていては公國に未來はないのだ。
 
「それと栽の農地を出來る限り春までに広げてしい。この普及がワラキアの未來のカギを握っているといっても過言じゃない」
「――――――栽………でございますか?」
 
耳慣れぬ言葉にボッシュは軽く首を傾げた。
いまだワラキアを含めた世界各國は原始的な二圃制(畑を二分割して片方を地味回復のために休耕する農法)に甘んじている。
これに対し地力を回復させる牧草を栽培することによって休耕させることなく畑を耕作し、かつ牛や馬などの家畜を飼育可能にしたのが18世紀イギリスを中心に歐州で発的に広まった栽式農法であった。
小麥~カブ・テンサイ~大麥~クローバーの四作が一般的であり、飼料の生産の目処がたったことで冬季の家畜飼育が可能となり、農業生産力が飛躍的に高まったことで農業革命などとも言われる。
せっかくの耕地を無駄にしておく手はない。
というよりそんな余裕はワラキアにはない。
それでなくとも栽による葉類の増産はワラキアにとって短期的な外貨獲得の切り札でもあるのだ。
 
「本當にそのようなことが可能なのですか………?」
 
さすがのボッシュ伯もそう問い返さずにはいられなかった。
本來ボッシュ伯の信條としては臣下が大公の言葉を疑うことなどあってはならないことだ。
しかしヴラドの言った言葉はあまりにボッシュの常識から逸していた。
もしヴラドの言うことが事実であるとすれば長年の戦火で荒れ果てたワラキアが転じて穣の國となるのもそう遠い日の話ではないだろう。
 
「まずは公室の直轄地だけでいいぞ?余の言葉を信じられなければ、だが」
 
不敵に微笑むヴラドの表を見て、慌ててボッシュは自分が想像以上に取りしていたことを知った。
主君に対してその発言の真偽を疑うなど、臣下としてあるまじき発言であった。
 
「さ、さようなことは決してございません!殿下にお仕えできたこと、生涯の喜びといたします!」
 
貧しい領民たちがたくさんの食料を笑顔で収穫している姿が思い浮かんでボッシュは思わず顔をほころばせた。
本當にくそまじめな男だな。彼に頼む要件はこれで終わりではないのだが…………。
それでも面従腹背のくされ貴族を相手にしてきたせいか、ボッシュの態度は好を抱きこそすれ何ら気分を悪くするものではない清々しいものだった。
 
「それと………戸籍が完した村から種痘を開始する」
 
再度なぜ、と問いかけたくなるのをボッシュはかろうじて自制した。
ボッシュの知る種痘は西アジアを中心に広まったもので、天然痘の患者の膿を健常者に摂取させることによって人工的に天然痘に染させその抵抗力を得るというものだ。
歐州では天然痘に対する忌避からかあまり広まらなかったが、一部ではこの予防法を取りれる王家なども存在した。
ブルボン王朝最後の王妃となったマリーアントワネットの実家であるハプスブルグ家では一家そろってこの種痘をけていたために、ルイ15世が天然痘に罹ったときもマリーは全く平然としていたという。
ただ問題はこの種痘が必ずしも安全なものとはいえなかったことである。
人痘の摂取は往々にして抵抗力をつけるまえに摂取者を死にいたらしめるケースがあったのだ。
 
「…………そう心配そうな顔をするな」
 
ボッシュの悩みの容が手に取るようにわかるだけに俺はますます彼の人間に対する信頼を深めた。
特にこの人痘の摂取は軽度とはいえ天然痘に染するため力のない子供や老人、または栄養狀態の悪い庶民が犠牲になることが多かった。
ハプスブルグ家のような王室がこの種痘を実施できたのは栄養や衛生の環境が整っていたからである。
無理に種痘を実施したならば下手をすると罪もない子供たちが空恐ろしい規模で天に召されることになりかねなかった。
 
「人ではなく牛の膿で種痘をすればまず死ぬことはない。それでこのワラキアから天然痘は絶できるだろう」
 
今度こそボッシュは己の耳を疑った。
元現代人である俺にとってこそなんということはない知識だが、牛痘法がエドワード・ジェンナーによって確立されたのは18世紀も末期になってからの話である。
世界ではじめてワクチンという言葉が使われたのもこの牛痘法が端緒となっている。
それまで人類は細々とした人痘のほか天然痘に対しまったく無防備なをさらしてきたのであった。
もしヴラドの言っていることが事実だとすれば、いや、もちろん事実なのであろうが……それは人類史上における金字塔にも等しい話なのである。
かつて古代ローマで三百五十萬人という空前の死者を出し、いまなお大量の人命を奪い続けているこの病が予防可能だとすれば、いったいどれほどの命が救われるか見當もつかない。
天然痘で死んだ祖母のことがボッシュの脳裏をよぎった。
優しく凜々しく厳しくもあった祖母は、ある日天然痘を発癥するや離れに隔離されその後一切會うことを許されなかった。
しかも死んでしまった後も離れごと焼卻されて、祖母の思い出はこそぎ灰燼のなかに消し去られた。
天然痘の染力は凄まじく、ほんの一欠けらの瘡蓋ですら一年以上は染力が持続するのだ、と寂しそうな父に教えられたのはそれからしばらくしてのことだった。
 
…………自分は今歴史的瞬間に立ち會っているのかもしれない。
この年若い主君はワラキアばかりか戦渦巻くこの悪しき世界に平和をもたらす使命をおびて生まれてきたのかもしれない。
そんな埒もないことを考えてしまうほどにヴラドの発言はボッシュの常識を完全に打ち砕くものであった。
その主君に仕えることができたばかりか、閣僚にまで引き上げてもらえたことにボッシュは誇らしさとでがいっぱいであった。
 
 
「殿下がこのワラキアにお生まれになったことこそが神の天祐でございます。我が命に代えても殿下の意のままに!」
「うむ、期待している」
 
 
ボッシュの誠実な人柄は戸籍編纂や種痘には心強い味方となる。
最初は誰でも新しい政策には恐怖を覚えるものだ。
特に為政者によって痛めつけられ続けてきた民衆にとってはなおのことである。
しかしワラキアにとってこれは長期的な発展のためも避けては通ることのできない道筋である。
さらにそれだけではなく、ワラキア國における種痘の功は歐州全土に対する有力な政治的カードになるだろう。
天然痘によって死亡した君主は何もルイ15世に限ったことではない。
いずこの國の君主でも出來うることなら天然痘の恐怖から解放されたいと思っているに違いないのだから。
 
 
 
 
 
「殿下…………」
「うおわっっ!!」
 
おのれシエナめ、相変わらず気配をじさせぬ奴!
ボッシュが出て行ったあとですっかり油斷していたらいつのまにか執務室の中にシエナがりこんでいた。
いったい警護のものは何をしてやがった?
 
「――――お忘れかもしれませんが殿下の警護や書の元調査を行ったのは私です。當然彼らの癖も弱みも知り盡くしております」
「なにそれ怖い!」
 
こんな近に俺の生殺與奪を握っている奴がいたよ。
これで本當に大丈夫か俺??
 
「ご命令にありましたとおりジプシーの長老とわたりをつけることができました。保護と引き換えに協力は惜しまぬと」
「そうか!なら早々に保護の布告を出さんとな!」
 
14世紀になってバルカン半島でも多くみられるようになったジプシーは謎の多い移民族であり、エジプシャンがなまってそう呼ばれるようになったと言われている。
特殊な技蕓を持つが特定の主君を持たない彼らは各國の君主にとってはなかなかに煙たい存在であった。
君主の意向を汲んでか、彼らは略奪や暴行の対象となり様々な差別と迫害をけ続けていた。
にもかかわらず彼らは漂泊をやめようとはしない。
定住しその土地の君主を推戴すれば安全が約束されるというのにである。
彼らの移の理由は21世紀になってもなお多くの謎をしたままであるとされている。
 
俺がしたのは彼らのボーダーレスなその報網である。
どこにいっても迫害をけながらを守る保障もない彼らはともに報を取り合うことで、しでもそのリスクを軽減しようとしていた。
そのネットワークの大きさは今後のワラキアの世界戦略にとっても非常に重要なウェイトを占めていた。
殘念ながらシエナの組織するワラキア報部も非常に有能な組織なのだが、こうした多國間規模にまで報の手をのばすほどに大きい組織ではないのだ。
それに音楽や蕓能に長けた彼らのもたらす報は時として専門の諜報機関を上回る場合がある。
だからこそ日本においても聖徳太子の時代から存在した忍者ではなく、平清盛は京の都に禿を放ったし、室町幕府の6代將軍足利義教は踴り念仏の時宗を保護してその組織を利用した。
 
「長老の話ではハンガリーでヤーノシュに敵対する貴族の粛清が行われたとか」
 
さっそくワラキア戦の政治的反が出始めているな。
そうなると予想より早い段階で軍事的勝利を得るための出兵があるかもしれん…………。
その行先が上部ハンガリーかワラキアかは五分と五分……かな。
 
 
「――――――そういえばワラキア大公は男家であると各國でもっぱらの噂だそうで」
「いったいなんだその噂は!?」
 
彼もいないうちから男の噂をたてられるとかっ!
泣くぞ!マジで!
 
「殿下がいつまでたっても側室の一人もおかないからです。なんなら娼でも男娼でもジプシーのえりすぐりを差し出すと言っておられましたが?」
「大きなお世話だ!っていうか男娼とかお前も否定しろ!こんちくしょー!」
「あと2年もすれば噂は真実だと言われるでしょうね」
「のおおおおおおおおおおお!」
 
 
側室の問題は彼いない歴22年+αの俺には敷居が高すぎる!
決して俺がヘタレだからじゃない………はずだ!
 
 
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