《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第二十五話 ドラキュラの花嫁その4
コンスタンティノポリスで渉にあたっていたイワンからローマの使者とともに帰國する旨の先れがあったのはつい先日のことである。
それにしてもあの気な伊達男としたことが、どうにも奧歯にものの挾まったような不可思議な反応をしていたのが気にかかる。
幸い総大主教庁を仲介とした和平渉は大功を収めたのだから、種痘や羅針盤の報開示くらいは見返りに請求されたのかもしれない。
あるいはローマ使者というのもイワンが恐する程度には大であるという可能もある。
陸國家であるワラキアは海との接點をモルダヴィア領のキリアに頼らなくてはならず、使者の出迎えと、今後のワラキア・モルダヴィア両國の連攜の構築のために
俺はモルダヴィア公國首都であるヤシを訪れていた。
 
「いらっしゃいませ!ヴラド兄様!」
 
ブンブンと振られる尾を思わず幻視してしまう勢いでシュテファンが飛んでくる。
史実においてヴラドが唯一心を許したと言われるこのなじみの懐きようは、どこか在りし日のラドゥを彷彿させて俺のを痛ませた。
それにしても―――――。
 
モルダヴィアの英雄シュテファン大公といえば今でもモルドヴァで語り継がれる救國の英雄である。
北をポーランド王國、南をオスマン帝國に挾まれた立地的條件はワラキアと同様に過酷でありながら、ヴラドとは違い獨立と生を勝ち取った手腕はどれだけ賞賛しても足りない。
1475年のヴァルスイの戦いでオスマンに勝利した大公はローマ教皇から「キリストの戦士」と讃えられ、スカンデルベグ亡き後のキリスト教世界の希の象徴でもあった。
しかし今の彼はふくよかな丸顔の可らしい貴種の年以外のものではない。
正直イメージと現実のギャップをじざるをえないほどだ。
 
「久しぶりだな、シュテファン」
 
それでもこんなふうに無條件に慕ってもらえることがうれしくないわけがない。
赤みがかったシュテファンの金髪をくしゃりとでつけ、俺はこの腕白そうななじみに二本の金屬細工を手渡した。
 
「いつか言っていたおもちゃだ。壊さないように二本を別々にわけてみなさい」
「ふえ?簡単だよ、そんなの?」
「まあ簡単にできたら新しいお菓子でもごちそうするさ」
「やった!約束だよ!?」
「ちゃんと壊さないでできたら、な」
 
大公のもとに向かう俺の背後で甲高い変聲期前の年のうなり聲が響いてきた。
 
「ふんぬううううっ!」
 
聞かなかったことにできないだろうか?
 
 
 
 
ボグダン二世は兄のヴラド二世に似ず溫和な政家である。
正直彼が叔父であるというのが信じられないほど好々爺然とした親しみのもてる風貌は、その実堅実な政治力によって裏打ちされていた。
ヴァルナの戦い以降も、衰退するキリスト教圏のなかでモルダヴィアがかで比較的安定した平和を維持しているのは間違いなく彼の功績であった。
しかし戦の巷である現在、いささか政に偏ったきらいのあるボクダン2世をモルダヴィアの主権者として不安視する向きが貴族に存在するのもまた事実であった。
南北に強敵を抱え富國政策を急ぐボクダン2世は、利害の対立した貴族によって1451年に暗殺されてしまう。
その後のモルダヴィアはシュテファン大公の晩年オスマンに対する屈服を余儀なくされたものの、小國にすぎぬモルダヴィアがワラキアより遙かに長い期間に渡ってオスマンに対する抵抗を
続けられたのも、ボクダン2世による國力増進のおかげといっても過言ではあるまい。
 
「叔父上、ご壯健そうで何よりです」
「うむ、しばらく會わぬうちに化けたものだな、ヴラドよ。お前の噂を聞かぬ日はなかったぞ」
「お恥ずかしい。目の前のことに必死だっただけです」
 
実際本當に目の前の問題をかたずけることでいっぱいだった。
ワラキアに帰還してからというもの、何も考えずにただ楽しむために費やした日は一日もなかったような気がする。
もし落ちついて戦爭のことなど考えなくていい日が來たら、歴史オタクのれの果てとして意地でも名所舊跡を見學に行くのだが。
 
「コンスタンティノポリスから使者が來るそうだな?」
「はい」
「やはり―――――オスマンと戦うか?」
「力をつけねばいいように使い潰されて自滅します。しかし力をつければオスマンと戦うかオスマンと組んでキリスト教國家と戦うか、いずれにしろ戦いは避けられないでしょう」
 
史実のヴラドやシュテファンもそうだが、小國がオスマンのような大國と正面切って戦うことは不可能である。
したがってその戦略は多くの場合國土を犠牲にしたゲリラ戦に頼らざるを得ない。
敵を國に引きれて戦う焦土戦略はいわば己の腕を斬り落として食する共食いのようなものである。
寡兵をもって大軍に対抗するには便利だが、犠牲に矢面に立たされる國民や土著貴族からすれば、忠誠を誓った君主に生贄として敵に差し出されるに等しい行為であるため
多くの場合離反して己の権益を守るために敵國に通じる。
そんな絶的な戦をするつもりは俺にはない。
だからといってワラキアが大國化すれば現在のこう著した東歐のバランスを大きく左右するのは必然である。
ワラキアとオスマンが連合すればあるいは史実よりも早くウィーンを包囲し、さらには落城させることも不可能ではないだろう。
しかし國民の大半、というよりほぼ全てがキリスト教徒であるワラキアがオスマンの傘下でキリスト教世界と戦うという選択肢はありえない。
そんなことをすればたちまち離反者が続出して、結局史実のように誰かに暗殺されるだけの結果に終わってしまう。
形式的にはオスマンに従屬しているワラキアが積極的に協力しないことが明らかになればオスマンとしても國力を増したワラキアを潛在的な敵國として認識するであろう。
いや、むしろセルビアやブルガリアのような従屬國に対する見せしめ的な意味で真っ先に討伐の対象とする可能が高かった。
すなわち、どのような選択肢をとろうとも將來的に戦いになることだけは避けられないのだ。
 
「それでわしに何をむ…………?」
 
さすがは老練な政治家だ。俺の意図を完全に見抜いている。
わざわざ俺自らモルダヴィアに出向いた理由は何もローマの使者を出迎えるためだけではない。
 
「キリア港の租借と駐留権を」
「………租借はともかく兵を駐留させようとは………」
 
ボクダン2世は予想以上にヴラドの要求が厳しいことに揺を表に出さないために神力を振り絞らなければならなかった。
キリアはワラキアの世界戦略上必須の地である。
この地にある程度の経済的基盤を所有することをヴラドがむであろうことは予想していた。
しかしまさかいかに友好國であるとはいえ一足飛びに兵の駐留権まで要求してくるとは――――――。
 
 
ワラキアには海がない。
これがワラキアの最大にして致命的な地政學上の欠點である。
し南に下ればブルガリアの巨大港灣都市コンスタンツァがあるがこちらはすでにオスマンの統治下にあって手出しはできない。
貿易取引量も増え、ローマ帝國とも外関係を結ぼうとする今、流通の拠點となる港灣はワラキアにとってなくてはならない存在だった。
しかし現実的に運用可能な港灣都市といえばそれはモルダヴィアのドナウデルタ以外の立地はありえない。
ワラキアとモルダヴィアをドナウの大河で結ぶこのモルダヴィア最大の貿易港は史実においても両國の間で深刻な領土問題を引き起こしていた。
とはいえモルダヴィアに武力行使するという選択肢は俺のなかにはなかった。
ワラキアの主要産をキリアから積み出すことで両國にはすでに接な経済流が出來始めている。
せっかくの友好をだいなしにしてまでモルダヴィアを占領して、わざわざポーランドと國境を接するのは間尺にあわないというのが俺の考えである。
 
「…………キリアはモルダヴィアにとっても生命線に等しい港だ。ワラキアには渡せんぞ」
「ワラキアのものにするつもりはありません。しかしもはや叔父上がむとまざるとにかかわらずキリアは紛爭の要となります」
 
ワラキアの輸出する數々の先進加工品がキリアに集中し、それにつられるようにしてヴェネツィアやフィレンツェの易船がキリアに港しつつある。
取引高は年々上昇して留まるところを知らないほどだ。
當然長年キリアを狙ってきたポーランドなどもまたぞろ食指をかしても不思議ではなかった。
軍事的には弱小國であるモルダヴィアが果たしてこの先キリアを守り抜くことができるか?ヴラドがそう言っていることをボクダンは正しく理解した。
 
「見返りは?」
「モルダヴィアに安全と平和を」
 
今後キリア港がワラキアの資本投下によってさらに拡張され、ワラキアの海軍とその兵力が常駐すれば港灣の資の消費量と安全保障は格段に進化するだろう。
人と流通が増えれば金が回るのはいつの世も変わらぬ真理なのである。
それにワラキアからの流通量がドナウの河川通を利用して倍増すればキリア全としての取引數量も加速度的に増加するのは必然であった。
その結果モルダヴィアの國庫に収まる稅収も莫大なものになるに違いないだろう。
 
租借金の納・稅収の増加・貿易量の増加・治安の向上・軍事的抑止力の駐留………
俺の提案でモルダヴィアの損になる要素は実のところひとつしかない。
すなわちそれはワラキアの駐留権を認める以上、軍事的にワラキアと命運をともにすることになる、という要素である。
そう、この提案の行き著く先は、軍事経済両面に渡るワラキア=モルダヴィアの連合なのだ。
今ボグダン二世が迫られているのは、近い將來にそれをけれる決斷なのであった。
 
「まったく………出來の良い甥を持つと苦労するのぅ」
 
ボクダンはヴラドの予想の正しさを認めないわけにはいかなかった。
もはやキリアはどの周辺國にとっても垂涎の的だ。
遠くない將來の軍事的衝突は避けられない。
最悪の場合ポーランド・オスマン・ワラキアの全てを敵に回しかねないのだが軍事的にモルダヴィアがそんな無謀な戦いを維持することは不可能である。
もっとも危険のない同盟相手を探すとすればそれはモルダヴィアと衝突すればせっかく順調に増加している易量を損ないかねないワラキアということになるだろう。
いまさらワラキアとの貿易量を制限したり止すると言う選択肢はない。
そんなことをしてもキリアは魅力的な貿易港であるし、ワラキアとの易で莫大な利益を得ている商人や地元貴族が反対するのは明らかであるからだ。
それにワラキアとの易はモルダヴィアの公室財政にもなからぬ影響があるのである。
 
―――――つまりはワラキアの易戦略に巻き込まれた時點で詰んでいたということか。
 
してやられたというはあるがボクダンはそれを不快には思わなかった。
むしろよくぞここまで、とヴラドを賞賛してやりたい気持ちすらじる。
 
「…………では租借地の區畫と租借料について検討するとしようか」
「お手らかに………」
 
ワラキアとの同盟関係が避けられないとしてもそのなかで最大の利益を追求する義務が國主のボグダンにはある。
一筋縄ではいかない叔父の老獪な笑みに俺は頬をひきつらせて笑うしかなかった。
 
 
 
 
 
「………それで我が國の力が借りたいと」
 
海の男らしい焼けした赤ら顔の男はいかにも難そうな風を裝っているが答えは最初から決まっているようなものだった。
男はワラキアとの間に何としてもパイプを作らなければならなかったが、ワラキアは何も男との渉を優先しなければならない理由はない。
今やワラキアとの販路を切している國はよりどりみどりといった様相を呈しているのだ。
 
「この話にはフィレンツェも興味を示しておったのですが、私は海軍力における貴國の実績を評価させていただいたのですよ」
 
おそらくはヴェネツィアにこれ以上借りをつくりたくないこちらの足元を見ようと思ったのだろうが………殘念だったな。需要と供給のバランスが崩れてしまえば世の中こんなものだ。
 
「…………そこまで我々を買っていただいておるのなら否やはありませんな」
 
男の名をアントニオ・ゼルガベリという………黒海の覇者ジェノバ共和國の要人のひとりだった。
 
 
 
當初ワラキア貿易はヴェネツィアのモチェニーゴ家が獨占していたが、需要の高まりにつれて様々な商人が先を爭って取引を申し込んできていた。
それでも取引の中心は依然としてヴェネツィア商人であり、各國の商人はなんとかワラキア貿易に割り込もうと必死の営業活を展開しているところだったのである。
 
そんななかでもとりわけ必死であったのがジェノバ共和國であった。
ヴェネツィア共和國のライバルにして黒海の制海権を支配する彼らにとって、黒海沿岸の港でヴェネツィアが巨富を貪るなど縄張り荒らし以外の何でもなかったからである。
それだけではない。ジェノバという海洋國家にとっ決して無視しえない報が彼らを畏怖させている。
すなわち、ヴェネツィアに供給された羅針盤と遠鏡の存在である。
ヴェネツィアの厳重な匿行によっていまだ詳細はしれていないが、わずかにれる報の概要だけでもそれが船乗りにとってどれだけ貴重なものか彼らはを以って知っていた。
ジェノバ共和國にとってワラキアとの関係改善は國策ですらあったのである。
 
 
「お互いによい取引が出來て幸いです」
 
ジェノバ共和國はコンスタンティノポリスに影響力が強いうえ、立地的にトレビゾント王國やキプチャクカン國へのパイプが強力だ。
ワラキアの安全保障上のパートナーとして不足はない。
今回俺がジェノバに要請したのは新設する海軍の教導である。
海軍は陸軍以上に養に時間がかかるものであり、航海技や建造技はとても一朝一夕でにつけられるようなものではない。
後年オスマンとの海戦で大量の練海兵を失ったヴェネツィアが急速に國力を減じたことでもそれは明らかだろう。
ゼロから海軍を築き上げることは俺にもできない。
歴史と経験のある海軍の指導がワラキアのひよっこには絶対に必要なのだった。
 
スイスと並んで強を謳われるジェノバ傭兵の相場は非常に高価だが、キリアをモルダヴィアから租借できる見込みがたった以上その代金には不足はない。
そしてこれまで陸に偏っていた加工産業を海産にも広げるのだ。
とりあえずは鰯のオイルサーディンや鯨の瓶詰めあたりか。加熱殺菌は今のところワラキアだけの匿技だから類似品が出回る心配はない。
 
 
「――――そういえば今日あたりローマ帝國の使者がお著きになるのではありませんかな?」
 
思いだしたように問いかけられて俺は頷いた。
コンスタンティノポリスにも商売の拠點を置いているだけにアントニオの報は正確であった。
 
「おそらく夕刻前には參りましょう。よければアントニオ殿もご一緒されてはいかがか?」
「おおっ!かかる場に臨席を賜るとは恐悅至極。こちらこそぜひともお願いしたい」
 
このときアントニオの大仰な喜びように不審をじてしかるべきだった。
俺が彼の喜んだ理由を知るのはイワンを乗せた船が到著する夕暮れ時になるのである。
だがこのときはまだ、俺の人生を変える運命の変転など気づきもせぬままに、俺はローマとワラキアの外戦略について思いをめぐらしていたのだった。
 
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