《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第三十九話 の戦いその3
三日目の夜が明けようとしていた。
甚大な損害と引き換えにザワディロフ軍は頑強な城門を半ばまで崩し去っていたが、崩れた城門の隙間からは新たに構築されたと思われるバリケードが垣間見え、城門の突破が容易に勝利に結びつかぬことを教えていた。
―――――全くこしゃくな連中だがいつまでその余裕が続くかな?
ザワディロフは薄笑いとともに部下に向かって策の実行を指示した。
城壁を飛び越えるようにして大量の矢が撃ち込まれる。
慌てて守備兵の支援にあたっていた民間人たちが軒下に隠れて降り注ぐ矢から逃れたが、彼らはいくつかの矢の先端に羊皮紙が結ばれているのに気づいた。それ以外の矢にはおそらく貴重な羊皮紙が手にらなかったのだろう。手書きの文字が書かれていた。
簡潔な文章で表現されたそれは、ザワディロフの即的な人格を実によく表していると言えた。
―――――魔を殺せ!恩賞は思いのまま!
魔がヘレナを表していることは誰の目にも明らかだった。
仮にも大公の婚約者であり、ローマ帝室の筋を引くヘレナを殺せとためらいなく言えてしまうあたりがザワディロフの政治的視野の狹さを表しているのかもしれなかった。
「魔を殺せ!」
「魔を殺せ!」
「殺したものには一萬ダカットの恩賞を與えるぞ!」
「殺したものには一萬ダカットの恩賞を與えるぞ!」
トゥルゴビシュテを取り囲む貴族軍の兵士が口ぐちに合唱を始める。
何をとち狂ったのか知らないが、數倍の大軍を率いた名將ヤーノシュにヴラドが勝つ可能など萬に一つもないとザワディロフは考えていた。
その事実を國の貴族もこのトゥルゴヴィシテに篭る平民もわかっていないだけなのだ。
ゆえにこそ彼らを導くのは我々貴族の手でなされなければならない。
獨立不羈の貴族らしい傲慢さでザワディロフはそう信じた。
しかしザワディロフの思いとは裏腹にトゥラゴヴィシテ市民は逆に貴族に対する敵愾心を募らせた。
生理的嫌悪をもよおしそうな獨善である。
自らののためには手段を選ばぬ厚顔無恥
所詮自分の都合でしかものを見ることのできない輩の約束を信じるほうがどうかしていた。
彼らに従えば一時は報償されても奴隷的な隷屬を強制され、それに従わなかっただけでたちまち資産も権利も奪われるだろう。
ヴラドによって自由と長を獲得した市民層はその現実を十分によく承知していた。
「ヴラド大公萬歳!」
「ヘレナ妃殿下萬歳!」
「ワラキア萬歳!」
「大公夫妻萬歳!」
誰かがポツリと張り上げた聲はたちまちのうちに都市全へと波及した。
たとえ戦力にはならなくともトゥルゴヴィシテの都市民は遙かに貴族軍の數を上回っている。
市民たちの大音聲はたちまちのうちにザワディロフ兵士の音聲をかきけした。
トゥルゴヴィシテを揺るがさんばかりのヴラドたちを讃える歓聲はい子供達までをも巻き込んで都全に広がっていこうとしていた。
完全に予想外な市民たちの明確な意思表示にザワディロフは戸いを隠せない。
平民どもが………の程知らずにもつけあがりおって……これもヴラドの政治が悪いからだ…………。
これまでただげられることを、當然のようにけれてきた従順な羊が不遜にも主人に牙を剝こうとしている。
許されざる政治的墮落であるとザワディロフはじていた。
羊に自己の意志を持たせてはならないのは貴族の平民支配の初歩であったはずではないか。。
主君の命令を唯唯諾諾と聞く民だけの従順な平民を平然と貴族に牙を剝く狼にしたてあげてしまったヴラドにザワディロフは大いなる義憤を覚えていた。
やはりいかなる手を用いてもここで魔を、ヴラドの拠點を滅ぼしておかねばならぬ。
これまで自分が立腳してきた世界を守るべき使命を神から與えられたような錯覚を覚えてザワディロフは高揚すらじていた。
しかしザワディロフの意気はともかくとして手段としては総力戦に頼らざるを得なかった。
市民の蜂起を期待出來ない以上、ただひたすら攻め続け先に気力と力が盡きたほうが負ける先の見えない戦い以外に事態を打開するを見出せないからだ。
雙方の全軍を上げての戦いは天井知らずの被害を雙方にもたらしつつ、日が暮れてもなお衰える気配を見せなかった。
ザワディロフが本當にヴラドが敗北すると確信しているならば時間の経過はザワディロフにとって味方であるはずであったが、まるで無意識の焦燥に急かされるようにザワディロフが頑として攻撃を続けさせた。
それは彼自が全く予想しなかった形でヘレナたちに最悪の一撃を見舞おうとしていた。
薄暗い貧民の集うあばら屋でトゥルゴヴィシテ市民にもザワディロフにも忘れ去られていた深い闇がわだかまっていた。
かつてルーマニアにおいて商業利権を獨占してきたサス人の一団がそれだった。
ヴラドが大公に即位したつい二年ほど前までは絶対的といってよい価格決定権を持ち、我が世の春を謳歌してきた彼らも、ヴラドの改革によって利権の全てを失いその力のほとんどを喪失してしまっていた。
彼らにもルーマニア人と同様の保護を與えられたため、資産の取り崩しながらなんとか商人としての看板を保った者も多いが、利権に頼りすぎて真っ當な商売が出來ず、人夫や乞いにまでり下がっている者も數多くいたのである。
彼らは一様にかつての栄の日々を懐かしみ、ヴラドに対して怨念に近いを抱いていた。
その彼らにとってふって湧いたような福音が訪れたのだ。
恩賞の一萬ダカットといえば彼らが一生遊んで暮らせるだけの金額である。
日々の食事にさえ事欠くまで困窮した彼らにとってはから手が出るほどしいものだった。
しかもヴラドの政権が崩壊することこそ彼らの悲願、かつての栄への復権への一歩である。
これに協力しないという選択肢はありえなかった。
ただヴラドがかつて行った民衆蜂起とは逆に、人口的に絶対數であるサス人は迂闊に活すれば圧倒的多數であるルーマニア人によって袋叩きに會う可能があったのである。
「夜が更けるまで待とう…………」
日中であれば素人の集団である彼らではルーマニア人の自警団に叩きのめされるのが関の山である。
幸いにして戦いは夜を徹して行われて警戒の余力は城壁付近に集中していた。
そして、圧倒的多數のザワディロフとの戦闘のために全兵力がかかりきりになっている現在、ヘレナが住まうワラキア宮殿は無防備な姿を彼らの前にさらけ出しているはずであった。
――――――深夜
七十に達しようかという老執事は志願して寢ずの番を行っていた。
若かりし頃戦場の最前線を駆け巡った経験のある彼は戦闘が継続中である以上、萬が一に備えて寢るなどということが贅沢を許すことができなかった。
しかしその彼の心がけは無駄ではなかった。
數十人に及ぶサス人の一団が鎌やナイフを手に宮廷の塀を乗り越える様子を見逃さずにすんだのだから。
「起きろ!敵襲だ!姫様を逃がせ!!」
「くそ!爺め、邪魔しやがって!」
すっかり寢靜まっていると思い込んでいたところに大聲をあげて警鐘を鳴らした執事にサス人たちの理不盡な怒りが集中した。
「死ね!」
數え切れない刃で膾のように切り刻まれて、年老いた執事はたちまち絶命した。
それでもなお、執事は抱きつくようにして刃を深く埋沒させ、わずかでも主人のための時間を稼いだ。
誇り高い騎士のごとく、老執事は自らの職務を全うして満足とともに死んだのだった。
「お逃げください!姫様!」
「無駄じゃな。回廊のなかにりこまれたらここは袋の鼠じゃ」
サレスの言葉にヘレナは靜かに首を振った。
ヘレナの居室は宮廷の一番奧深くにあり、そこに至るには回廊を必ず通らなければならない。途中の部屋に隠れてやりすごすという手段もあったが見つかった場合時間を稼ぐことすら出來ずに殺される可能が高かった。
邸に響く悲鳴を聞けば、彼らが途上の部屋をしらみつぶしに調べていることは明らかであった。
「これからこの部屋を封鎖する。サレスは外に出て時間を稼げ」
「姫様!それは………!」
「このままではジリ貧じゃ。殘念ながら我らの手持ちで奴らの戦力を削れるのはお前以外におらぬ」
「ううっ…………」
理ではヘレナの正しさを認めながらヘレナのもとを離れたくないと言うにサレスは苦渋にを噛みしめた。
もともとサレスはイスラム世界で暗殺者として鍛えられている。
暗殺者の本領は奇襲によって相手を闇から闇へ葬ることであって、戦場で正面から無雙することにはない。
サス人が素人であることを考えてもサレスが相手にすることが出來るのは數人がいいところだ。
なら遊撃としてヒットアンドアウェイでサレスの技能を生かすのがヘレナにとってもっとも生存確率をあげる手段であるのである。
だが自分がいない間にヘレナが殺されてしまってはサレスの腕をふるう甲斐がなかった。
ヘレナはサレスにとってただ主であるだけではない。暗殺する機械として育てられたサレスに初めて生きるということの喜びを教えてくれた恩人でもあるのだ。極まって涙ぐむいつもは生意気なはずの侍をヘレナは笑ってを叩いた。
「妾は我が君に會うまで死ぬつもりはない。そのためにはお前の力が必要なのじゃ」
「死んだら許しませんよ?」
「妾が約束を破ったことがあったか?」
「………割りとたくさんありましたね」
そういいつつもサレスは子供のわがままに困ったように苦い笑みを浮かべた。ここ一番でヘレナが賭けに勝利し続けてきたことをサレスは知っていたからだ。
信頼すべきヘレナの腹心は優雅にヘレナに向かって頭を垂れると慣れ親しんだナイフを取りだした。
わずかな躊躇もなく確実に命を奪う暗殺者としてサレスはヘレナに背を向ける。かつての人形ではなく、今度こそはサレス自の意思をもって。
「ここにもいねえぞ!」
「魔の部屋は城の奧だ!まさか悠長に眠っちゃいねえだろうが……絶対に見逃すんじゃねえぞ!」
彼らにとってヘレナの命こそが勝利の絶対條件である。
いくら城で人を殺してもヘレナを逃せば朝日が昇るとともに今度は彼らが殺戮の対象になるであろう。
萬が一にもヘレナを逃がさぬために見つけた侍や使用人は殘らず殺されていた。
城には濃厚な臭が立ち込め回廊には哀れな死が無造作に転がされ絨毯にそのを吸わせていた。
「度し難い馬鹿ものですわね………」
「誰だ!?」
苦々しいの聲に男達がぶと同時に暗闇から白銀のが煌めく。
鋭く空気を切り裂く音とともにドスッという鈍い男が響いた。
聲もなく倒れる男の姿に抵抗らしい抵抗もけずにきた男達は敵が反撃してきたという事実にようやく気付いた。
「手前!殺してやる!」
「だと思って油斷するな!」
侍のエプロンドレスをぎ捨て漆黒の暗殺者服にを包んだサレスの姿を捉えることは素人には至難の業だった。
バタンと扉の閉まる音がしてそこに殺気立った男達が殺到する。
しかし紐で細工されただけの部屋にサレスの姿はない。
無防備な男たちの背中に向かって新たなナイフが突き刺さる。
疾風のようにしなやかな黒い影が走り抜け、いともたやすくサレスは包囲網を突破した。
サレス1人が逃げるだけなら何の苦もなく彼らの魔手を逃れることが可能であったろう。姿を匿し相手の目を晦ますことこそが暗殺者の本領である。しかしサレスにとって自らの命以上に大切なのは主にした家族以上の存在であるヘレナであり、今はその生存のために剣をふるわなければならなかった。
「そのテーブルをかせ!椅子も積み上げて紐で固定しろ!」
おそらくサレスの能力をもってすれば十や二十の素人を屠ることは容易い。
問題は城にりこんだおそらくはサス人であろう男たちの人數がどれほどになるかである。
軍隊でもそうだが味方の3割が失われると兵士は戦線に踏みとどまろうとする士気を喪失することが多い。
まして仲間の數も時間も制限されているサス人であればなおのことである。それまで踏みとどまることが出來れば生き殘る目はある。
しかしその確率が決して高くないことをヘレナの冷めた理は知していた。
ザワディロフの攻撃が続いている以上城壁で戦する兵士たちが城の異変に気づく可能は低い。下手をすれば朝になっても市民たちが城の異変に気づかない可能すらあった。
いくらサレスが凄腕の暗殺者でもサス人を全滅までさせることは不可能だ。
―――――だが妾は死ぬわけにはいかぬ!妾の生まれてきた天命はこんなところで果てるようなものではない!
脳裏にヴラドの大きな瞳とはにかんだような笑顔が浮かんでヘレナは唐突に泣きだしたい衝にかられたが、ヘレナは初めてじるを衝く痛みの理由に気づくことはなかった。
ただ泣きだしたい衝とともに生きなければならない使命が湧くのをじてヘレナはその思いにすがりつくことでなんとか死の恐怖から踏みとどまっていた。
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