《彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版》第四十話 の戦いその4
城に侵したサス人のなかにレナリスという男がいた。
彼はかつて富裕な商人であったころに傭兵を指揮した経験があり、ほかの素人よりはなくとも戦闘というものを知っていた。
彼らの戦目標は非常にシンプルであり、応援が來るまでにヘレナを殺すことが出來るかどうかに盡きる。
萬が一にも失敗しないために捜索を優先してきたが、あの手練のが逃げもせずこちらの戦力を削りにくるということは、目指すヘレナがいまだこの宮廷の奧に存在するという証左にほかならなかった。
「固まってあのの挑発に乗るな!ただひたすら守りを固めていればいい!若い奴らだけ5人ほど俺についてこい!」
間違いなくの目論見は時間稼ぎである。
わざわざその思に乗る必要はない。ただただ我々はワラキアの新たな制の象徴であるヘレナとヴラドを倒すことだけに専念すればよいのだ!
サレスに対する抑えを殘し、鋭でヘレナを殺害に向かうという選択は朝までなんとか時間の引きのばしを図ろうとするヘレナにとって最悪の選択であった。
「所詮はの淺知恵だ。こんな馬鹿に我々がげられてたまるものか」
ほんの2年前までリナレスは百人を超える使用人を雇い、傘下の商人を合わせれば千人以上に影響を及ぼすことのできる大商人であった。
だが、だからこそサス人の特権が失われた時に代の大きな彼の商會が蒙る被害も巨大であった。
しかもヴラドの政策に反対するために彼の政敵と通じた彼の商會は、ヴラドのトランシルヴァニアの占領と同時に武力で解散を余儀なくされたのである。
生まれながらに特権階級であるサス人としてルーマニア人の上に君臨してきた彼にとって、現在の不遇は到底我慢できるものではなく、たとえザワディロフが賞金を賭けなくとも個人的な怨念によってヘレナを殺害したいという渇にも似た求に突きかされてリナレスはのように唸った。
「ぐっくくっ…………」
狂気にを委ねたリナレスと數人の男たちがヘレナへと向かっていくのに気づいたサレスはしたと言っていい。
サレスが稼ぎだした時間はわずか30分にも満たない。
このままでは日が昇るまでヘレナの居室は持たないに違いなかった。
「どきなさい!」
手持ちのなくなってきたナイフを投擲して再び1人の男を倒す、が回廊に固まった數十人の男たちの壁は揺るがない。
むしろサレスがヘレナを助けに向かうことを妨害しようと結束を高めたかにさえ見えた。
を噛んでサレスはもどかしそうにをひるがえした。
彼の暗殺者としての本能はあと倒せるのはせいぜい5・6人程度であろうと告げている。
しかしそれではヘレナを救うことができない。
だからといって正面から特攻することもできなかった。
それでは5・6人さえ殺すことが出來ずにサレスは果てることになるであろうからだ。
暗殺者としての冷めた計算とヘレナの家族としてのがサレスのなかでせめぎあう。
「神様………神でなくてもいい!誰か姫様を助けて!」
「ここか?」
ひと際大きな扉の部屋を前にしてリナレスは舌舐めずりをした。
どこからしいたおやかな細工と扉の両脇に飾られたしい花がここに高貴ながいることを明確に告げていた。
「潔く出てこい!魔め!」
予想以上に早かった敵の襲來にヘレナは靜かに瞑目したがそれで諦めるつもりは頭なかった。
大理石のテーブルで封鎖された扉が突破されるには時間がかかるだろう。それまでにサレスが敵を駆逐してくれるかもしれない。あるいは外部の援軍が間に合うかも。
「…………妾が本當に魔ならば苦労はないがの」
非力なに出來ることはない。
おもちゃのような非力な人間用の弩を構えてヘレナは腹の底からこみあげる恐怖を飲み込んだ。
恐怖におびえて立ちすくむのはヘレナのに合わない。
むしろ積極的にあがき続けることこそヘレナの本領というべき資質であった。
ドンドンと扉を叩く音が激しさを増していく。
打撃では扉が開かないことを知ったリナレスたちは渾の力で剣を扉に叩きつけた。オーク材で出來た扉はく厚かったが、それでも男たちに剣をふるわれればしずつ空間を削られていくのを防ぐことは出來なかった。
バリッという破裂音とともに剣が扉を突き抜けるとテーブルを押えて必死に敵の侵を防いでいた侍たちが悲鳴をあげた。
「へへっ!やっぱりいやがったぜ!」
わずかに空いたを広げてひとつ、ふたつと剣が突きたてられ、拳ほどの隙間が開くと1人の男がヘレナの姿を確認するべくから中を覗きこむ。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
ヘレナの姿を確認したと思った瞬間、男の目には小さな矢が突き刺さり、無防備な目を貫通した矢は男の脳にまで達して停止した。
ヘレナの持つ弩は威力こそ小さいものの、鎧や兜を裝著していない平服を著たままの人間に対してはなお十分な攻撃力を有していたのである。
「くそっ!にをさらすな!今は扉を叩き壊すことに専念しろ!」
追い詰めたと思っていた獲に反撃されたリナレスは激怒したがヘレナを追い詰めるための冷靜さまではなくさなかった。
どんどん扉が原形を失っていく。
分厚い扉が半ばまで切り倒され、男たちの野太い腕が扉を後ろから支えていたテーブルへとびた。
こうなっては侍のやせ腕で男たちの力を押し返すことは不可能であった。
「きゃああああああああ!」
力任せにテーブルが押し返され、反で背中から侍たちがひっくり返る。同時に開いたスペースから猛然と男達が飛び出した。
「ぐおおおおっ!」
ひと際大柄であった男のに矢が突き刺さり転げまわるようにして男は悶絶した。
しかし殘る男たちはヘレナに向かって殺到する。
震える手でヘレナは新たな矢をつがえようとするが焦るばかりで一向に矢が手に著かない。
早くしなければ、男達がたどり著く前に早く………!
「姫様!お逃げください!」
侍の1人が男の足にすがりつくようにしてヘレナを庇う。
いらだった男は無防備な侍の背中に容赦なく剣を突きたてた。
「コンスタンス!」
鈍い音とともに絶命する侍を見てヘレナは悲痛な聲をあげた。
「とうとう追い詰めたぞ、魔め!」
そしてヘレナを見降ろすようにして歓喜の笑みを浮かべたリナレスが立ち塞がっていた。
咄嗟に弩を向けようとしたヘレナを鼻で笑うようにリナレスは弩を弾き飛ばす。武をなくしたヘレナはそれでもなお毅然と敵意をこめてリナレスを睨みつけた。
「妾は負けぬ!」
「おいおい、頭がおかしくなったんじゃねえか?鬼が!」
呆れたように肩をすくめると無造作にリナレスはヘレナを毆りつける。
小さなヘレナのが衝撃で後ろにはじけ飛び、肺の酸素を強制的に吐き出されてヘレナはケホケホと咳きこんだ。
もうどこにも希などありはしなかった。
それでもヘレナは敗北を認める気にはなれなかった。
―――――自分こそがヴラドの隣に立つに相応しい人間のはずだ。
立ち塞がる全てを跳ね除け超然と歩む者。悪魔と呼ばれ神を敵に回そうとも傲然と世界を変えていく者。妻たるこのもまたそうあらねばならぬ。
そうでない自分を決して認めることは出來ぬ!
「手間をかけさせやがって………あの世で亭主に詫びやがれ!」
リナレスが剣を振り上げ、まさに必殺の一撃が振り下ろされようとしたその時、ヘレナは唐突に理解した。
死にたくない!
その理由は決してヘレナの才能や立場によるものではなかった。
もう一度ヴラドに會いあのに抱かれ、はにかんだ微笑みを見て思う存分甘えてみたかった。
ことさら妻としての役割にこだわったのは要するにヴラドの隣に立つ自分の居場所を作りあげたかっただけにすぎなかった。
自分が打算でもなく強制でもなく非合理なというに支配されているという事実にようやくヘレナは気づいたのである。
―――――ああ、好きだ。こんなにも妾は我が君をしている。政治的パートナーとしてではなく1人の男として、生涯の伴として。なのに妾は何一つ彼に伝えていない――――!
天才などと持ち上げられつつ自分の気持ちひとつ把握できない愚か者であったとは。願わくばもう一度、幻影でもいいからこの目にあの我が君の優しい笑顔を見せてしい。
一筋の涙とともにヘレナは白銀に煌めく剣を見つめた。
ゾブリ
深くを切り裂き骨を砕く鈍い音が響く。
「あ…………あああ……………」
腹から突き出た剣が引き抜かれると生溫かいがまるで噴水のように腹圧で床に噴きだした。
「誰に斷って人のに手を出していやがる」
「………ヴラド!」
無意識のうちに初めて夫の名をびつつ軽やかな妖のようにヘレナはヴラドのへと飛び込んだ。
「うわあああああああああああああああああああ!」
堰を切ったようにヘレナはも世もなく泣いた。
會えた!
會えた!また會えた!
生きてこのしい人に會えた!
それは帝國の皇でもなく、公國の公妃でもなく、ヘレナという一人のがようやく辿りついた生まれて初めてのの始まりなのだった。
にしがみついて泣きじゃくるヘレナの頭を優しくでながら、俺は心底をで下ろしていた。
……………ほんとうに危なかった。
わずかコンマ一秒遅れたらこの再會はなかった。
連れて來た兵力がなすぎたので汚水口から城に潛したのが結果的に大正解だった。
手の中に伝わるぬくもりに躊躇なく引き返した自分の決斷が間違っていなかったことを俺は確信していた。
…………トゥルゴヴィシテが………危ない………。
使者の言葉を聞いた俺は呆然と立ち盡くすことしかできなかった。
………ヘレナが………
「必ず勝って帰ってこい。汝は我が誇りだ」
勝気なヘレナの雙眸がよみがえる。
………ヘレナが………
「……だから……早く妾のもとに戻ってきてくれ、我が夫よ」
………ヘレナの命が危ない!?
そう考えたらもういてもたってもいられなかった。
「ベルド、あとを任せる!」
気がついたときにはもうすでに駆け出していた。
君主として失格かもしれない。
大主教として背教ですらあるかもしれない。
しかしそれ以上に大切なことがある。
おそらくヘレナという家族を失えば完全に自分の人格がヴラドの怨念に飲み込まれてしまうであろうことを俺は本能的に察した。
彼こそは自分にとってこの世界に自分を繋ぎとめるただ一つのよすがなのだ。
もちろんベルドに君主の命に否やなどなかった。
「ゲクラン殿、鋭の中隊を率いて殿下を追って下さい。殘りの者は私とともにブダへと向かいます」
「承知した、殿下の手法を誰よりも真近で見てきた貴殿だ。きっとやれる」
「私もそう信じています」
「マルティン!フーバー!グレッグ!オレの後に続け!」
馬を飛ばしてトゥルゴヴィシテを目指すヴラドの後をゲクラン率いる常備軍の鋭が疾風のように追った。
所詮不平貴族の戦力などたかが知れている。
全ては時との勝負だった。
同然のトゥルゴヴィシテ城が陥落する前に間に合うかどうか。
ヘレナ姫が無事であるうちに到著できるかどうか。
近臣としていつもヴラドの傍に仕えていたベルドは知っていた。
半ば神がかった敬する萬能の主君が、あの小さなに、いかに心のもっともらかな部分を委ねていたかということを。
泣き疲れて眠ってしまったヘレナをベッドに橫たえるとサレスが深々と俺に向かって頭を下げる。
「本當によく間に會ってくださいました………」
「お前が時間を稼いでくれたおかげだ」
明らかに不穏ないでたちにを包んだ侍を問い詰めようとは思わなかった。ヘレナが信を置いているというだけで彼を信じるには十分な理由であった。
東の空に日が昇り始める。
その山際で腕木が味方の勝利を告げているのが見えた。
不眠不休で幾頭もの馬をつぶし、手近な馬を強奪してまで駆け付けたヴラドとゲクランの鋭は腕木通信の速度すら上回ったということらしい。
「―――――この貸しはでかいぞ、ザワディロフ」
夜明けとともに城壁からの反撃が急速に弱まったことにザワディロフは気づいた。
手を焼かせてくれたがようやく力盡きたか。
そもそもここまで戦えたこと自が戦力比を考えれば奇跡のようなものだ。総攻撃を命じようとしたザワディロフの前で半ば崩れ去った城門がゆっくりと開き始めた。
「ふん、今さら降伏などしても…………」
許さんと言いかけてザワディロフの舌は凍りついた。
決してそこにいてはいけない男が鬼気迫る憤怒もわにザワディロフを睥睨していた。
「た、大公殿下…………ハ、ハンガリーへ赴かれたはずでは?」
ようやくザワディロフはそれだけを言った。
本の串刺し公を前にして戦意など遠い彼方へと吹き飛んでいた。
所詮ザワディロフの勇気とはヴラドの留守に寢込みを襲うだけのものにすぎなかったのである。
ありえない。
ありえない。
十字軍は三萬を數えるはずではなかったか。
オスマンを相手に一歩も引かなかった名將ヤーノシュがそれを率いているのではなかったか。
しかも軍勢を率いてこの男はハンガリーに出征したはずではないか!
どうやってこの男は城にることが出來たのだ?まさかワラキア公は真実悪魔であるとでも?
信じられない現実を前にうろたえるザワディロフを俺は薄く嗤った。
どうやら怒りも限界を超えると笑顔になるというのは本當らしかった。
「貴様は俺の忌にれた」
ただトゥルゴヴィシテが攻められたというだけであればここまで心がされることはなかっただろう。
そこにれられたら命のやり取りをするしかない、という忌にこの男は土足で踏み込んだ。である以上一辺の溫も與える必要を俺は認めなかった。
恐怖のあまり舌先を凍らせてザワディロフはブルブルと震えた。
こうして目の前にしてようやくヴラドこそは貴族で串刺しの森を作りあげた大量殺者であることを実したのである。
歯向かうべきではなかった。
後悔とともにいかに許しを乞うべきであるか必死に言いわけを模索しているザワディロフに無な言葉が投げつけられた。
「太古の王が言った言葉に、目には目を歯には歯をという言葉があるというが………ここは余も王のひそみに倣うとしよう………」
目には目を、家族には家族を。
「余に逆らった不心得者よ。名譽回復の機會を與えよう。ザワディロフとその一族を殺した者には特赦を與えるぞ」
ザワディロフを取り囲む兵士たちの気配が殺気とともに変わったことをザワディロフはじた。。
彼らにとっては逃れえぬ死地が転じて恩賞の機會となった瞬間だった。
「ま、待て!待ってくれ!」
ザワディロフの懇願もむなしくザワディロフの弟が、息子が魂切る悲鳴をあげて兵士たちに首を刈り取られていった。
さらに甥が、従兄弟が抵抗するも無慘に切り刻まれて斷末魔の悲鳴をあげる。
「よせ!一族のものにまで手は出さないでくれ!こんな非道を神が許すと思うか?」
ザワディロフの魂切る絶にも地獄絵図が治まることはない。
なぜなら地獄の支配者こそは悪魔ドラクルであり、彼はただの地獄に落ちた哀れな亡者にすぎないのだから。
「おのれ悪魔ドラクルめ!許さん!貴様の所業、決して許しはせぬぞ!」
絶・悔恨・悲哀・憤怒………一族という先祖代々の家名を滅ぼされ、今貴族という階級の沒落の運命を自覚したザワディロフは憎しみで人が殺せたらと言わんばかりにヴラドを睨みつけている。
だが彼の決斷こそが一族をこの悲劇へと追いやったのだ。
ザワディロフの目の前に首を積み上げると將來を期待していた息子の変わり果てた姿にザワディロフは嗚咽をらして叩頭した。
全てはもう取り返しがつかない。失われた命が決して戻ることはない。
「おお……………」
そこには嘆くことにも疲れ切った老人が憎む力すら失って絶にを浸していた。
ゆっくりとザワディロフが壊れて逝く景を見した俺はゲクランから銃をけ取ると無造作に引き金を引いた。
「……………その顔が見たかった」
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