《黒竜王の婚活》1 黒竜王の婚禮(6)
初夜の前の沐浴は、懐かしい香りのする湯が使われた。
「これは、アンジュさまも大好きだった姫杏の実の香りですね」
マイシェラが湯をかき混ぜながら言う。言われてみれば、よく食べていた果のにおいだ。
「ええ。それと白檀の皮、凍らせた月草を使っています。王妃さまが特別な夜にだけ使われる香です」
戸の向こうで黒竜王宮のの一人が言う。もう一人の聲が橫から付け加えた。
「昔、後宮にお妃が大勢いらした頃は、それはもう毎晩のように費やしていたとの噂ですけれど、最近はとんと使いませんでした。久しぶりですわ」
「アンジュさまはおしいし、きっと陛下も明日からはひっきりなしにご所でしょう。毎晩用意しておかなくてはなりませんね」
くすくすとたちのひそめた笑い聲がわされた。
宮勤めのというのはこんなにも品がないものなのか、と湯浴みをしながらアンジュはあきれる。といえばマイシェラしか知らないアンジュにとっては悪い意味で新鮮だった。
それにしても、今のの話からすれば、黒竜王には現在他に妃がいないわけだ。最近代替わりした、という宰相マバロの報がどうやら正しかったようだ。
若い男、ということだ。
武の心得があるなら苦労するかもしれない。魔に長けているという噂もあったが、そちらは眉唾ものだ。
どのみち、一太刀で決めるしかない。
キサナに仕込まれた剣技を信じるだけだ。
「マイシェラ。私が寢所にったら、おまえは外に逃げるんだ。いいな」
聲をひそめて言った。
マイシェラは微笑み、しばらく沈黙し、やがてうなずいた。
「わかりました、アンジュさま」
噓だ、とアンジュはじた。
ここで否と答えたら、アンジュがマイシェラのを案じて任務を投げ出してしまうかもしれない。だから噓でも「逃げる」と答えるのが侍の務めだろう。
(それなら……もう、方法はひとつしかない)
湯からあがったアンジュは、マイシェラにを拭いてもらい、薄に袖を通した。
太にひやりと冷たいがある。グラシュリンガの王宮職人に造らせた草の葉のように薄い刃がい込んであるのだ。二十あまりの節に分かれた刃を糸でつないだもので、から外して糸をぴんと引き絞ればひとつながりの剣に変わる。
薄の上から長をはおり、マイシェラを伴って沐浴場を出た。
六人のたちに囲まれるようにして、回廊を巡り、寢所へと向かった。
後宮のしい中庭には水瓶を捧げ持つ神の像の噴水が設えられ、今は月が優しくそれを照らし出していた。
遠く背後からは夜通し続く祝宴のざわめきが、反対側からはウルクラマ湖の水面を渡る風の音が聞こえていた。
アンジュにあてがわれた寢所は、広い黒竜王宮の最も奧まった位置にあった。
なんと無駄な広さだろう、と部屋に足を踏みれるなりアンジュはあきれる。グラシュリンガの王宮であれば皆を集めて宴を開けそうなくらいの空間に、寢臺だけがぽつんと置いてある。これでは冬は寒くてしょうがないのではないか。
もちろん、ここで冬など迎えないのだから気にしてもしょうがない。
冬どころか――明日を迎えることさえない。
たちは寢所の四隅の燭臺の火を消すと、全員が廊下にさがり、最後にマイシェラが扉を閉めた。
闇の中にアンジュひとりが殘される。
といえば、窓にかけられた厚手の幕の隙間から差し込んでいる月のだけだ。窓の外はおそらく湖だろう。
寢臺に上がり、刃を隠したに手をやる。
黒竜王を一撃で絶命させ、すぐに寢所を出て、廊下で控えているマイシェラを連れて王宮を強引に突っ切り、外に出る。
自分が時間を稼ぐ間にマイシェラを街の喧騒に紛れ込ませる。
これしかない。
聲もたてさせず、一瞬で決めなければ――
アンジュの全がこわばった。
寢臺の向こう端に人の気配がいつの間にかあったからだ。
婚儀の間、隣の座所にいたのと同じ気配だ。
「――その刃を捨ててくれぬか。喜ばしい初夜につまらぬを妃に使いたくはない」
聲がした。アンジュは息を呑んだ。
(今の聲……そんな、まさか)
反的に太の剣に手をばす。
けれど、全が雷に打たれたかのように固まった。
そのまま寢臺に倒れ込む。
(なにをされた?)
(が……まったくかない)
荒い呼吸と早まる悸でが圧迫される。
人影が寢臺に両手をついてにじり寄ってくる。
黒曜石を溶かして梳いたかのようなつややかな長い黒髪が、さらと音をたてる。室に差し込むわずかな明かりでその者の橫顔が闇に浮かぶ。
しばし、アンジュはなにもかもを忘れてその顔に見った。
湖面に映り込んだ月のような、人間がれることを許されていないしさ。だれにもでられることなく天上で凍てつき水底で靜寂に沈むしさだった。
だから最初、それが人間の顔であるとさえ認識できなかった。
冷気がにまで染み通ってくるにつれ、鼓が落ち著き、アンジュは自分の顔の両側に手をついて真上からのぞき込んできているその者が、同い年ほどのであることをようやく呑み込みつつあった。
だ。
何者なのか、という疑問はまったく浮かばなかった。なぜならの額に、紫の微を帯びた紋様が浮かび上がっていたからだ。
ちょうど、竜の頭部をかたどったような――
「捨てろ、と言われても捨てられぬか」
黒竜王はつぶやき、の端を歪めた。
「しかたない。いましの不自由は我慢せよ」
そのほっそりした手がアンジュの腰から腳にかけてをまさぐる。全の麻痺はいまだ続いており、まったく抵抗できなかった。
ぶつり、と糸が切られるが伝わってくる。
黒竜王が手を引き上げると、ぞろり、と連なった刃が明かりの下に出てくる。
「なるほど、なかなかの細工。これなら怪しまれず寢所に持ち込めるな。グラシュリンガの職人も侮れぬ」
そう言った途端、刃は赤熱したかと思うと、端から黒煙に変わり、いがらっぽいにおいだけを殘して消えてしまう。アンジュは目を剝いた。
つまらない奇などではない。本の、異形の力だ。
「これで安心して添い寢もできるな」
黒竜王がそう言うと、アンジュの全の直が唐突に解けた。アンジュは寢臺の反対端まで跳びすさってを低くし、をにらみ據えた。
(失敗した。最初から見していた)
(どうする。素手で縊り殺せるか? いや、それよりもマイシェラが)
アンジュの心中を見かしたかのように黒竜王が言う。
「下手なことをすれば、外で待つそなたの侍の命はないぞ。落ち著け」
歯を軋らせる。
「……なぜ殺さない。……刺客だと最初から知っていたのか」
ようやくアンジュは聲をから絞り出すことができた。
「もちろん。そなたのことは以前からよく知っておる。であるわたしもうらやむほどの麗しさでありながら、男だということも」
「それならなぜ婚儀などわざわざ執り行った? なぜさっさと殺さなかった!」
黒竜王の顔が翳った。
(なぜ哀しげな顔になる?)
アンジュの困はもはや耐えがたい頭痛に同化しつつあった。
「……わからぬか。それもそうであろうな」
黒竜王は嘆息して目を伏せる。
「わたしとそなた、境遇が似ていると思わぬか。そなたは男であることを隠し通してとして育てられた。わたしも、生まれを偽って育てられた。竜王家の四百年の歴史で、黒竜がを選ぶことなどはじめてだったからだ。國が傾くほどの兇兆だと」
の細い指が、額をなぞる。
竜頭形の紋様は、今はを失ってうっすらと赤い痣にしか見えない。
「五年前、父が亡くなったときにも、戦時中だという理由をつけて、大がかりな即位式は開かなかった。ほんとうの理由は、わたしを人前に出したくなかったからだ。齢十六のが黒竜王だと知られれば諸侯の揺をい、叛のきっかけとなるやもしれぬ――との判斷だろう」
境遇が似ていることは理解できた。
しかし、なぜ自分にこんな話をするのか、アンジュはまだ理解できていない。
黒竜王は薄にくるまれた腳をに引き寄せて不安げに抱き、言葉を続ける。
「次の代で男子が黒竜に選ばれれば、何食わぬ顔で即位式を大々的に行い、わたしという存在はなかったことにするつもりであろう。ゆえにわたしは後宮に閉じ込められて過ごしてきた。ふふ、そなたのように、別をたやすく偽れる見てくれに生まれておればよかったのだがな。あいにくとにしか見えぬ」
黒竜王は自嘲し、自分の黒髪を手ですくい上げては敷布に落とす。
「楽しみといえば、を遠方に飛ばし、眼を使って見聞を広めることくらい。そなたのことも、の眼を通して昔から知っておった。グラシュリンガはしい國だからな、気にって何度もを遣わしたものよ」
アンジュは警戒心を解かないまま、黒竜王をじっと見つめる。まだ話の真意がまったくつかめない。
「王位を継いでからしばらくして、いつまでも妃をとらねば不審に思われる、と臣どもに言われ、そなたをもらうことにした。わがままを言い、婚儀も正式なものを執り行った。簾から絶対に出ない、という條件つきでだ。臣どもは今日、さぞかし肝を冷やしたことだろうな」
「なぜ、……私を」
黒竜王は目をしばたたく。
「なぜって、そなたがそのようにしいからだ」
「のように? つまり、男を裝ったが娶るにはを裝った男を選ぶしかないと? を共有して守らせるためか? しかし宮中に迎えれてしまえば保持などどうとでもなるはずだろう、なのになぜ!」
「そなたはさっきからなにを言っておる。……まだ、わからぬのか」
アンジュははっとした。
ほの明かりの中、黒竜王の頬が赤くづいていたからだ。
怒り? いや、それだけではなく――
「……を、してみたかったのだ。ただそなたを妻に――つまり、夫に、しかった。それだけだ。なぜわたしにここまで言わせる!」
黒竜王はそう聲を高くして言い、恥ずかしげに掛布を掻き寄せて口元を隠した。
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