《ぼくには孤獨に死ぬ権利がある――世界の果ての咎人の星》B_001「死置場への宇宙船」(1)
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B[THE FIRST PART IN 1990(1990年の前編)]
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■001「死置場への宇宙船」
[THE SPACECRAFT TO A MORGUE]
†††
[I WONDER WHAT IS A LIE AND WHAT IS A TRUTH IN THE WORLD.]
(わたしはこのせかいがほんとうなのかうそなのかわからない)
†††
あの頃——彼が対峙していたのは、目の前の醫者ではなく、自分自のにまつわる問題だった。
「腹部の傷痕との因果関係はないはず……なんじゃがなァ。醫學的には」
納得できない、と言わんばかりの表を浮かべつつ、診察室の彼は腹をさすったが、反論はしなかった。
「心因、という可能はあるが……そっちは、わしにゃ分からん。とりあえず、いつもの注を打っておくかね」
彼が黙って左腕を突き出すと、醫者が注を手に取った。
効果があるとは思えないが、とりあえずの気休めであることは、互いに承知の上。
そのくせ、注から目を逸らし、機上のカルテを覗き込むと、名前が記されている──名前は、永田香名子ながたかなこ。
1975年に生まれた15歳。カルテの日付は1990年、5月の終わり。
[そうだ——い・ま・は・1・9・9・0・年・の・春・な・の・だ・]
彼の意識の奧で、誰かが囁いたような気がした。中學三年生になったばかりの彼の聲と似て非なる聲で。
「ところで……お祖母さんの様子はどうじゃったかね?」
初老の醫者が10日ほど前——醫者の目の前で倒れた祖母の様子を訊いてきたので、「念のため、しばらく院することになりました」と答え、あとは聞き流した。
院には付き添ったが、その後はいくつかの荷を持って行っただけで會っていないので、答えようもない。
いや——會いたくもない、というのが正直なところだったが。
「まったく、大変なお祖母さんじゃなァ。ありゃあ」
苦笑いを浮かべた醫者の呟きは、しばかりの嫌味を含んでいた。
「いくら〈家族〉とはいえ、あんたはもう中學生じゃからなァ……あんたのカルテはあんたにしか見せられんつうことをまったく理解せんのは、困ったもんじゃな」
10日ほど前、香名子の祖母はこの診療所に現れ、孫娘のカルテを見せろ、と詰め寄った。
そして、聞くに堪えない罵聲混じりで手前勝手に興した挙げ句、脳梗塞で倒れ、隣町の総合病院へ運ばれていた。
「あのクソババァめ、わしをヤクザ呼ばわりしよって……」
思い出した醫者は、怨嗟の聲を洩らした。
念のため、香名子に背を向けて。
「いや、あんたの責任ではないよ。こう言っちゃなんだが、お祖母さんはちょいとばかり頭がアレなんじゃろうなァ。くそくだらねぇ新興宗教で頭を完璧にやられちまってるんじゃろうなァ。言うなれば、ありゃあ〈宗教人格障害〉……」
醫者は脳・梗・塞・と・は・関・係・な・く・、祖母の人格攻撃を始めたが、改めて言われなくても香名子は知っている。10年以上も一緒に暮らしてきたのだから。
「本當に、ご迷をおかけしました」
香名子は表を変えず、言葉だけで謝っていた。
†††
古い2階建ての診療所を出ると、空はとっくに夕暮れていた。
どの方角を見ても彼方を山に遮られ、山に囲まれた「帽子の底」のような盆地にある団地群はささやかな商店街が隣接しているニュータウンで、〈東京〉から適度に離れた地方都市に作られた平均的な風景の中を制服姿のはしばらく気怠げに歩いていく。
やがて、弁當屋に立ち寄ると清涼飲料水──はちみつレモンの缶を買い、暖簾を出した居酒屋の外壁にってあるビール會社のキャンペーンポスターと睨み合っていた。
傍目から見れば奇異で稽な構図だったが、この頃──香名子は既に自覚していた。
自分はひどく矮小で等級ランクの低い小のようなものだと。
食獣の雄々しさに怯えている草食獣が伏し目がちに見ることはあっても、食獣はその存在すら認識しない。
もっとも、彼が不満を抱いていたのはも食獣から対象とされなかったことではなかった。それはそれで嫌悪の対象だったからだ。
問題は認・識・さ・れ・な・い・こ・と・——いえ、自分の価値を発・見・さ・れ・な・い・こ・と・だった。
草食獣が伏し目がちに見るのは、矮小で等級の低い存在を蔑んで安心するため。
もしくは、最低の等級まで妥協して、とりあえずを充たす頭の悪さに起因している。
よって、それに応じることもまた、矮小で最低の行為でしかない。
余談だが、香名子は〈石ころ帽子〉の渾名で呼ばれていた。
面と向かって言われることはないが、他人同士の會話ではいつも、そう呼ばれていた。
小學校の頃から。ずっと。
原因はいくつかあるが、大半は生來の質だ。
眼鏡の奧はいつも伏し目がちで、腐った魚のような眼をわざわざ覗き込む者はいない。
自己肯定の低い卑屈な微笑で応えることにも疲れていたのだが。
しかし、ハイレグ水著のグラビアモデルはかな房を強調し、にっこりと微笑んでいる。
世の食獣たちが好むこの雙球は脂肪の塊に過ぎないが、香名子が対抗できる的記號シンボルはせいぜい、纏っているセーラー服だけだ。
十中八九、小學生と思われる低い背丈に平坦で薄っぺらい。
黒縁の眼鏡ばかりが目立つ顔とおさげ髪。
さすがに三つ編みは古くさいと気づいて止めたが、ポスターの中のより勝るものはひとつとしてなく。
それでも、ポスターとの勝負は常に膠著狀態のまま、決定的な敗北は免れていた。
もっとも、勝負の趨勢が変わることもないのだけど。
「……ふんっ」
よって、吐き捨てるように呟いて、立ち去るしかない——。
商店街を去った香名子は、遠くに見える円盤形の給水塔を一瞥すると、自宅のある団地ではなく、裏山の工場跡へ向かった。
自宅のある団地の給水塔は、頂のタンク部分が円盤狀になっていたから、子供の頃はよく、『あの中には、宇宙人がいるのかな?』という妄想に耽っていた。
(宇宙人なんて、いるはずがないんですけどね……)
香名子はもう、子供ではなかった。
だが、大人でもないので——歩きながら、鞄から取り出した封書に眉をしかめていた。
(ああ、明日から、また……新しい家政婦が來るんですか)
〈東京〉から屆いた母親の手紙には新しい家政婦を派遣したことが記されていたが、10日ほど前に倒れて院した祖母の件は避けていた。ましてや、祖父のことなど。
祖父は5年前に失蹤していたが、祖母は「馬鹿なに騙されて逃げた」のだと、日に一度は吹聴していた。
『ろくでなしの屑はァ、いずれ仏罰が當たり、野垂れ死ぬのよッ!』
食事のたびに、祖母は生き仏——教主を信じない祖父を、機関紙の〈大勝利座談會〉で教団幹部たちが教主の歓心を買うために退転者を罵る口調よりも激しく罵っていたが、なんのことはない、祖父は狂信的なカルト信仰者である祖母の過剰な攻撃──〈宗教人格障害〉に耐えかねたのだ。
當の祖父に訊いたわけではないが、だいたいの想像はつく。
苛烈な祖母には相応しくない、優しい祖父だったから。
優しい格だったから、祖母のようなろくでもないに騙されたのだ。
一度も會ったことのない新興宗教〈多福會〉教主のご託宣にしか従わず、目の前の祖父を憎悪し、わずかなミスを延々と罵倒し、奴隷のように支配しようとしていたに。
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