永田香名子が工場跡へ著くと、夕暮れは満月の夜に変わっていた。

無造作に散しているコンクリート製のブロックに座ったは、買ってきた弁當を広げ、くしゃみをひとつ。

「風邪……なのかな？　でも……どうでもいい」

自問自答——が落ちれば、極端に気溫が下がるのは承知の上。祖母がいた日常で夕飯を食べる気になれなかった。

不在の家には新しい家政婦が來ているのかも知れないが、それはそれで不愉快だ。

（何も期待しない。どうせ、新しい家政婦も……だったら、獨りでこうしていた方がよっぽどマシです）

思春期にさしかかった香名子は、急速に自我を形しつつあったが、同時に現実への無力にも苛まれていた。

先天的に賢かった彼は、祖母が現している田舎者の土俗的な質──厚顔無恥な俗さを嫌悪していたが、將來的に決別するための「突出した才能」を欠いていることも自覚していた。

誰かを代わりにすれば、この煉獄しがらみから逃れられることは知っている。

だが、母親の代わりにされた娘が、別の誰かを代わりにすることは、それこそ厚顔無恥な振る舞いだ。

（何もしくない。どうせ、この世は……死ぬまでの退屈しのぎです）

すべて食べ終え、発泡スチロールの弁當箱を包み直すと、思い出したように思考が止まらなくなった。

（綺麗な夜空。でも……地上は、息が詰まりそう……）

無表だった香名子は、月を見上げるとわずかに微笑んだが——ひどく乾いた笑いだった。

（これって、緩慢なる自殺……なのかな？）

彼はこの地上から消失する日を待っていた。わずかに燻っている自分のタマシイが、ついに消え失せる日を。

思春期の向きなの子らしく、自殺の方法もいくつか考えてはいた。

でも、実行する気はなかった。

いや、実は怠惰と臆病で一歩もけないだけで。

それに、彼が死んだとしても、彼の祖母は『ろくでなしの屑はァ、いずれ仏罰が當たり、野垂れ死ぬのよッ！』という思考停止の言葉を繰り返し、のうのうと生き延びていくはずだ。

そう考えると、自死を選ぶことも馬鹿馬鹿しかった。

（なくとも、祖母の死を確認するまでは、ぼんやりと生きていく……）

（それからの人生は、改めて考えましょうか……生き延びることができたら、ですけど）

そうして思考を続け、飽きた瞬間——彼の視界が大きく揺らいだ。

再び見上げた瞳に映ったのは、満月ではなかった。

赤と黒の紋様が浮かび上がった〈巨大な髑髏の月〉のように思えたが、次の一瞬には、それがひどく不気味な球だと認識していた。

（あれは……〈鉛の卵〉……？）

そんなものが、自分に向かって墜ちてきたような気がした。

しかし、正しく認識することもできないまま、香名子の意識は失われた。

†††

「あいたたた……」

奇妙な響きを伴うきと共に、円盤から這い出してきたも・の・はと金屬の中間のようなもので、ぐにゃりぐにゃりと蠢いていた。

やがて、銀にる不定形——泡を立ててぐちゃぐちゃと蠢いている粘スライムから、うさみみを形したが、次の段階へはなかなか移行できなかった。

長くびた耳をゆらりゆらりとかしているうちに雨が降ってきた。

細かい霧のような雨は、風を伴うこともなく靜かに降っていたが、耳の白いをらせるには十分な量だ。

「なんですか、これは？」

「あはは……〈幸福號〉が……故障しちゃった……」

先に降下していた犬耳の青年が駆けてきて呆れたように呟くと、うさみみの生えた粘は気まずそうに答えた。聲帯は復元していたが、口蓋の形狀が不完全のため、臺詞には壊れたラジオのような夾雑音ノイズが混じっている。

青年が見上げると、陳腐な形狀の円盤は上下逆さま——地面と接する寸前の最低高度でふわりふわりと浮いていた。

「見ての通り、〈自保護裝置〉で被害は最小限に抑えたんだけどねー」

裝置が展開した〈不可視の力場〉は、周囲への被害を最小限に抑えると同時に、連続を帯びた空間振——波を放っていた。

波は星の各地に配置された〈黒〉たちを増幅中継とする〈黒通信網〉を介して、原住民——〈蠻族〉たちの覚をり、その思考に干渉する。この〈波式報作〉によって、現実認識は改変され、不祥事は隠蔽される。

エーテルやアストラルを使った波エネルギーは、地球人にしてみれば、疑似科學オカルトでしかない電波妄想スキゾフレニアでしかないが、この異星人たちはそんなものをまともに実用化していた。

それにしてはあまりに似通っているから、むしろ、異星人の文化や技がなんらかの形で地球人に伝えられ、理解されなかったのかも知れないが、地球人の立場からすれば正気の沙汰ではない。

もっとも、現実にはひっくり返った〈幸福號〉と、落下の衝撃波で破壊された工場跡の殘骸が宙に浮かんだまま固定されていたのだが。

「あれ……？　ハヤタくん、〈奉仕対象〉へ降下したんじゃなかったのー？」

「留守だったので、現場に殘っていた匂・い・を辿って來たんですが……」

「ひょっとして、あの娘？」

不規則に蠢く〈金屬〉を寄せ集め、とりあえず形した手で指し示した先には、気を失ったおさげ髪のが橫たわっていた。

「特に外傷はないので……〈治療塔〉へれる必要はないかと……」

「ううっ……なんて、幸先の悪い始なのぉ……」

ようやく全を復元したが、涙目で大きなため息をつく。

「えっとぉ……〈幸福號〉の損傷はこっちでなんとかするから、ハヤタくんは〈奉仕対象〉を日常生活に戻して。あと、念のために〈レンズマメ〉を経口投與しといてねー」

ハヤタと呼ばれた青年は、おさげ髪の——永田香名子を抱え上げると、人間離れした驚異的な跳躍ジャンプで立ち去った。

†††

意識を取り戻した香名子がいたのは自宅の自室——自分のベッドだった。

いつの間に帰ってきたのか——見慣れた自室を改めて見回しつつ、無造作に散しているはずのぎ捨てた類や本がすべて片づけられていたことを不思議に思っていた。祖母の院は半月ほど前だったが、彼の個室は既に荒廃していた。それは、生來のだらしなさというより、むしろ、強いられていた規律からの反だった。

５階の窓から外を見ると、団地群の中心に立っている給水塔に激しい雨が降っていた。

闇の中から浮かび上がった頂の円盤も、老朽化でところどころ茶く錆びていて、子供の頃の妄想もすっかり褪せていた。

彼が住んでいたのは、1960年代から70年代にかけて建てられた無數の団地群の中でも比較的新しい５階建ての棟で、六畳の和室を洋室に改裝リフォームした勉強部屋兼寢室はパイプベッドと學習機と小さな本棚があるだけの矮小な部屋だ。

もっとも、自分の部屋を持つことが許されたのは、祖母が祖父の痕跡──書斎を徹底的に潰したかったからだ。