《社畜と哀しい令嬢》哀しい
「なんか最近日永さん、クマできてない? 調崩してるの?」
心配そうに聞いてきたのは企畫部の課長の森川だ。
32歳と若くして昇進した目の前の上司は、もちろん仕事が出來る。
大手企業とのコラボの際の細かな調整は、森川と企畫部の部長、営業部の課長の三人が行なっていた。
高価なスーツを著こなし紳士然とした森川は、から非常にモテる。
そんな森川は気遣いの出來るイケメンで、部下の管理にはかなり気を使っていた。
人見知りの智子の格も把握しており、仕事として厳しくしつつもプライベートに介する事は無い、大変ありがたい上司だ。
そんな森川が心配そうに智子に問うのはもちろん理由がある。
智子が盛大にクマを作り、死人のような青い顔だからだ。
原因は言わずもがな、寢不足である。
それでも持ち前の社畜で仕事に影響は出していないが、死人顔で仕事をがむしゃらにこなす姿は側から見れば危ない人間だ。
周囲も心配するだろう。しかし原因があまりにもくだらないので、智子は誤魔化さず素直に答える事にした。
「すみません、最近寢不足なんです」
「寢不足? どうして」
「趣味に沒頭してしまって。でも仕事に影響しない範囲にはしますので…」
「ホントに? 神的に辛いとか、會社への不満とかあるならこっそり言ってくれて大丈夫だよ」
「いえ、違いますほんと。あ、でも殘業多いのはちょっと…かなり不満ですけど」
理解ある上司なのをいい事にちらりと本音もつけたしておく。実際、殘業問題は大きな課題なのだ。
「それならいいんだけど。いや、殘業の件は良くないけど。でも壊しそうなら、どこかで有休取ってもいいし、殘業調整してもいいからね」
「ありがとうございます」
「あと趣味も良いけど、倒れないように気をつけて。倒れたら元も子もないんだから」
「はい。すみません」
森川はふ、と笑って立ち去った。
そのイケてるご尊顔と言ったらない。それはモテるよ、モテないわけがない。
眠い頭でぼうっと考えていると、先ほどの森川の言葉を反芻した。
(早上がりか)
それも良いかもしれないと思う。大手企業とのコラボもかなり落ち著いた今、前よりは余裕が出てきた。
過酷な業務を乗り越えた事で仕事のスピードも上がり、殘業時間も徐々に減っている。
有り難いのかは分からないが、企畫部は個々が仕事を持っており、自分の仕事さえ終えていれば好きな時に殘業調整で早上がりしても許されるのだ。
しかも有休も取っていいという。
(一度思い切り寢ないと倒れそうだしなあ)
とりあえず今日は定時上がりを目指そう、と哀しい意気込みをする智子だった。
ーーーー
『玲奈、クマができてるわ。ちゃんと寢ているの?』
沙耶が玲奈のらかな頬に手を當てて、心配に表を曇らせた。
『大丈夫よ、お母さま。毎日8時間は寢てるわ。あ、でも昨日は本に夢中でちょっと遅くなっちゃった』
うふふ、と玲奈は笑った。
『あらそうなの? ダメよ、夜更かしは』
『ごめんなさい』
(噓だよ。課題が多すぎて寢る時間がないんだよ)
二人のやりとりに智子はを噛んだ。
仲睦まじい親子の邂逅に以前は心溫かくなっていたが、最近は悲しくなる。
玲奈の環境は、日々悪化していた。
ピアノに茶道、華道、ダンス、マナー講座に加えて英語とフランス語、中國語を學びながら、通常の勉強もこなす玲奈。
どれも妥協を許されず、玲奈の就寢時間いつも夜中の2時頃だ。しかも朝は6時に起きている。
けれど、そんな玲奈の現狀を沙耶は知らない。それは使用人の斉藤も同様だった。
斉藤は基本的に沙耶にかかりきりのため、玲奈が何も告げない現在、彼の現狀を改善する手立ては無かった。
(頭をでて頑張らなくていいよって言いたい。いっぱい寢かせてあげたい)
智子は涙を流してビールを煽る。
これがドラマだと分かっている。
もしこれが現実なら、これは立派な待だ。
だから、現実のはずがない。なのにずっと心が曇ったまま晴れない。
玲奈の子役の演技が上手すぎるのだ。
徐々に崩れる調と、悪くなる顔は見ていて心配になる。
何度か、現実の彼は元気なのだと思いたくて、玲奈役のこの子を探そうと試みたのだがこれがうまくいかない。
そもそもタイトルも分からず、検索にも引っかからないドラマだ。手がかりはあまりにもなかった。
結構良質なドラマだが、思ったより人気が無いのだろうか。
いっそネタバレしながら見たいのにそれができないのは苦しかった。
それでも智子は観るのをやめることができない。
そんな風にドラマに出會って3ヶ月が過ぎたころ、玲奈にある転機が訪れた。
普段は顔を見せない雅紀が、玲奈の前に現れた。
その瞳は相変わらず冷ややかで、実の子を見ているとは思えない。
『お前の婚約相手が決まった。明日11時に出かけるから準備をしておけ。因みにその貧相な服は許さない』
一息でそれだけ言うと、雅紀は去っていった。
それを告げられた玲奈の悪い顔が、ますます青くなっていく。
『とうとうこの日が來たのね』
呟きは小さすぎて、誰にも聞こえなかっただろう。よしんば聞こえたとしても、玲奈を庇う人間はいない。
諦める事に、げられる事に慣れた子供の呟きは、あまりにも哀しかった。
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