《辺境育ちな猿百合令嬢の憂鬱。〜姉の婚約者に口説かれました。どうやら王都の男どもの目は節らしい〜》【アズトール伯爵】

リリー・アレナの姿が見えなくなった途端に、周囲に立ち込めた黒い霧と銀が消滅した。まるで何もなかったかのような、いつも通りの廊下に戻っている。

しかし私の手には無數の裂傷が走り、が滴り続けていた。窓も一部が破損している。

「アズトール伯爵! 手を見せてください!」

駆け寄ってきたサイラムが、強引に私の手をつかんだ。

いつもは穏やかな腰を崩さないのに、私が拒むことを許さないような表だ。

「ひどい傷だ。……毒の反応はないようですが、念のため、これを飲んでください」

サイラムは私に薬瓶を押し付ける。

魔獣退治に出向くときに攜帯するような、貴重な毒消しの薬だ。

魔剣を鞘に納め、薬を一息に飲み干す。濃い魔力が含まれているせいで、舌先が痺れるように甘くじる。

この味を「苦い」とじた時は、命が失われつつあるという。

「甘いな」

「それはよかったです。伯爵様の気力と力は、魔力を取り込んでも問題ないようですから。……傷を治癒します」

しだけ微笑んだサイラムは、すぐに真顔に戻って私の腕の傷口に手をかざす。緩やかな詠唱とともに、傷口に熱が集まるのをじた。

次の瞬間、傷という傷が一斉に燃えるように痛む。でもそれは本當に一瞬で過ぎ去り、傷があった場所は全て新しい皮に覆われていた。

まだ皮に殘っているを用心深く拭き取って、全ての傷口がふさがっていうことを確認したのか、サイラムはやっと手を離した。

「見事だな。痛みもほとんどなかったぞ」

「治癒は鍛えられてきましたから。……それで、リリーは?」

「拐われたようだ。まさか、リリー・アレナを狙っていたとは予想外だった」

私は廊下の向こうに目を向ける。

治癒師サイラムも振り返った。廊下の向こうから駆けてくるのは、オクタヴィアだった。

どうやら、長は無事だったらしい。

ただし、付き従っている騎士は無事ではなかった。無傷なものはほとんどいない。だがどれも軽傷ですんでいるようで、サイラムが手をかざすとすぐにそれも癒えていった。

「お父様……今回のことは……」

オクタヴィアはまだ青ざめている。

しかし顔はしっかりしていて、次期當主として不足はない。気弱なところを心配していたが、急激に長したようだ。

いや、リリーのために長したのだろう。だがそのリリーは、私の目の前で……。

私はグッと歯を噛み締める。それから靜かに告げた。

「お前が狙われたと思ったのだが、本命はリリーだったようだな」

「なぜリリーが狙われたのでしょうか。まだ何も表に出ていないはずなのに。それに、今も強力な魔力が殘っているようではありませんか」

「わからない。だから、助力を求めよう」

「……それで良いのですか?」

「我がアズトールの誇りなど、あの子の無事と引き換えならば安いものだ」

私が呟くと、オクタヴィアは僅かに目を大きくした。でも反対することはない。同じことを考えていたんだろう。

控えているロイカーに、王宮に向けて知らせを送るように命じようとした時、割れた窓から何かが飛び込んできた。

鳥だ。

小さな鳥が、ひらりと翼をかして廊下を回る。

一瞬、皆のきが止まる。

しかしロイカーはいつでも魔力を発できるように陣を描いている。私も魔剣の柄に手をかけた。

ピュイ、と鳥が鳴く。

くるりと同じ場所で円を描き、飛びながらを大きく翼を広げた。まるで著地をする直前のようなきで、でも次の瞬間、ぼうっと青い炎が生じた。

「……これは、まさか」

私が剣を抜きかけた橫で、ロイカーが愕然と呟く。その聲に危機はなく、私は剣を抜く手を止めた。

小鳥のが青い炎に包まれる。

しかし燃えているわけではなく、華奢な鳥のの真上に炎で描かれた魔法陣が浮かび上がっていることに気がついた。

ゆらりと青い炎が揺れる。

その中から人の形が生じて、緩やかに廊下の床へと降り立つ。小鳥はその肩にとまった。

「非常時ゆえ、失禮する」

炎の中から現れた人は、私を見た。

黒い髪と、氷のような水の目。まだ周囲に青い炎をちらつかせながら、しの気負いもじさせない。

「ノルワール公爵閣下」

「先ほど、王都の封印に歪みが生じた。ここにも魔力が渦巻いている。一何が……」

その言葉が、ふと途切れる。

の目が廊下をき、リリーが姿を消した場所を見つめている。

目が細められ、眉がく。肩に止まっていた小鳥が、慌てたように飛び立って、廊下をくるくると落ち著きなく飛んだ。

「……ずいぶんと舐めたことをしてくれたな」

のない聲が聞こえる。

私はそれほど魔力を持たないが、それでも総立つような圧力をじた。

だが、その魔力が突然消え、水の目は再び私を映していた。

「リリー・アレナ嬢が何者かに拉致されたのは理解した。だが、なぜあの者なのかがわからない。あなたには心當たりがあるのか?」

半ば予想していた言葉を聞きながら、私は口を引き結んだ。

答えることはできない。

思考も封鎖しなければならない。

私の魔力など、この男が本気になれば一瞬ももたないだろうが、それでも全力で抗わなければならない。

ロイカーが張しているのがわかる。

オクタヴィアも一歩下がった。

しかし私はゆっくりと息を吐き、まだ握っていた剣の柄から手を離した。金屬がれ合う音がして、魔剣は自らの重みで鞘の中に戻っていく。

できるだけ心を無にし、私は真っ直ぐに水の目を見返した。

「申し訳ないが、あなたには言えない」

「それが答えか?」

「あなたが敵ではないことは分かっている。だが、これだけは言えぬ。あなたが知ることは止められない。あなたが簡単に暴くであろうは、我らの口から告げることはない。何があろうと」

「……なるほど。では今は聞くまい。優先すべきはそれではないからな」

その言葉に、私は顔をかしそうになった。

冷徹な公爵の言葉は、怒りを含んでいるようだった。

なおもらすまいとする、意固地な我らに対するものではない。まるで……あの子を拉致したものたちへの怒りのようだ。整った顔は表が乏しい。何のも読み取れない。

それでも、この男があの子を救ってくれるのなら。

リリー・アレナが無事で戻るのなら、我らは何もまないのだ。

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