《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》一 旦那さんと契約婚のはじめかた
この世にお金で買えないものはない。
たぶん。
「久瀬《くぜ》くん、これ今日の謝禮」
つぐみがひっくりかえしたボストンバックから、分厚い札束がなだれのようにこぼれ落ちる。
葉《よう》がやっているヌードデッサンのモデルは一回につき、謝禮一萬円が相場である。誰が相手でもそうで、つぐみ相手でも二倍にしたり三倍にしたりはしない。……だというのに、いったいこれは一萬円札何枚だろう?
ぽかんとする葉に、「3000萬円」とつぐみは言い放った。
ひどく張りつめた顔をしている。いまにもひとを殺しそうだし、反対に死んでしまいそうでもあった。「だいじょうぶ?」としゃがみこんで、葉はつぐみに目を合わせる。つぐみは首を橫に振った。だいじょうぶ、という意味なのか、気にしないで、という意味なのかはわからない。
彼は言った。
「おねがい久瀬くん。お金あげるから、わたしと結婚して」
――それが今から半年まえのこと。
*…*…*
庭の菜の花が咲きはじめたので、晝ごはんは菜の花サンドイッチをつくることにした。
以前葉の雇い主に作ってあげたら、いたくお気に召していたためだ。
蕾のうちに摘んで冷水につけてあったそれらをまな板のうえでざくざくと切り、沸騰している鍋にれて煮る。そのあいだに冷蔵庫から卵と厚切りベーコンを取り出し、卵は溶いておく。ほどよいところで火を止め、菜の花を氷水にさっとひたして水切りしていると、ちゃぶ臺に置かれていた葉の端末が振した。手を拭いて、端末を取る。
アプリでメッセージを送ってきたのは、アルバイト先の同僚だ。
容を確認し、「ええぇえ……」と葉はひとりいた。
なんでも合コンに參加予定の友人が腹を壊したため、ピンチヒッターとして今晩渋谷まで來いとのこと。飲み代は出してくれるらしいが、葉を選ぶあたり、こいつの人選は最悪だ。
「ば、か、な、の? っと」
しゅこしゅこ文字を選んで罵倒の言葉を打っていく。
と言いつつ、葉はボキャブラリーがないので、「ばかなの?」の次は「あほなの?」で終わった。あとはもう思いつかない。葉は罵倒行為に向いていない。しかたないので、もう一回「ばかなの?」とつけておく。小學生の喧嘩ももうちょっとマシかもしれない。
『とゆーか、俺奧さんいるから無理。』
メッセージを飛ばすと、既読がつくかは確認せずに端末を機に裏返す。
溶いた卵、厚切りベーコン、水切りした菜の花、マスタード、ダイニングテーブルのうえには帰りがけに買った焼き立ての角食パン。下ごしらえが上々なことを確かめると、葉はキッチンとガラス戸で仕切られた居間を橫切り、廊下に出た。
「つぐちゃーん」
母屋からはすこし遠い離れに向かって呼びかける。
「つぐみさーん?」
返事はない。ふう、と肩を鳴らすと、葉は古いせいでたてつけのわるい平屋の床板をぎしぎし鳴らしながら、離れに向かって歩く。
「奧さーん」
廊下からは葉が毎日世話をしている庭が見渡せた。いまの家主であるつぐみの祖父が人をかくまうために造ったという木造平屋は、四季折々の花を咲かせる庭が自慢で、四月のこの時期は山桜が白い花を咲かせている。
もう散り際だ。ひらりひらりと散る花がくっついた障子戸を葉は見つめた。
――この障子一枚を隔てた向こうに、俺の雇い主はいる。
半開きの障子戸からそーっと中をのぞくと、広い畳の部屋にはおおきなおおきな白麻紙がひろげられていた。
紙に顔をくっつけるようにして、が線畫に彩をれている。桜を描いているようだ。スケッチをしたときの名殘か、花瓶に挿した山桜がそのままになっている。のまわりには、すこしずつ濃淡のちがう赤の巖絵のが絵皿に溶いてあった。鼻に刺さるようなへんなにおいがしている。膠《にかわ》というのだと、つぐみに教えてもらった。乾燥しているときはかんぴょうみたいな畫材だ。
まっすぐな黒髪を雑に後ろでまとめ、つぐみは一心に絵に向かっている。黒のニットに淡いピンクベージュのガウチョパンツという普段著で作業をしている彼は、絵の大きさに対して小柄でうすっぺらい。畫上の桜を映す眸だけが貓のようにひかっている。
鹿名田《かなだ》つぐみ、十九歳。
法律上は葉の「妻」。彼は畫家だ。
つぐみが絶賛作業中らしいことを察すると、葉は呼ぶのをやめて部屋の外であぐらをかいた。柱に背中をもたせて、つぐみの筆の音に耳を傾ける。
彼の筆がすべてを支配するこの空気が、葉はすきだ。葉は殘念ながら絵心がないし、審眼も持ち合わせてなかったが、つぐみが絵を描くすがたを見ているのは楽しい。不規則なリズムを刻む支配の音にをゆだねたくなる。
筆が置かれる音がしたので、葉は目をあけた。
「つぐみさーん」
障子戸からひょいと顔をのぞかせると、つぐみはいまきづいた風に瞬きをした。
「おつかれ。晝ごはんにする?」
「うん」
うなずいて立ち上がるのかと思いきや、彼はなぜか絵のまえでごめんなさいをするみたいにぺしょんと丸まった。
「どしたの?」
「うごけない……」
彼はこういうことがよくある。一息つくと同時に燃料切れを起こすのだ。でも、今日は寢落ちなかっただけよいほうかもしれない。
「久瀬くん」
つぐみは自分の夫を久瀬くん、と呼ぶ。
葉くんでも葉でもなく、丁寧に久瀬くん。
つぐみは出會った頃からそうだった。久瀬くん。
葉はつぐみをつぐちゃんとも呼ぶし、つぐみさんとも奧さんとも呼んだ。
「はいはい」
絵を踏まないように気をつけて回り込むと、葉は脇から手を差しれてつぐみを抱き上げる。つぐみは慣れたようすで葉の首に腕を回してきた。十九歳になるが、ぺらぺらに薄いつぐみは持ち上げても軽い。ちなみにつぐみは高校は一日も通えず中退し、大學もけなかったので、最終學歴は中卒だ。でもつぐみは十代半ばから十分に働き、ひとなみ以上に稼ぎまくっている。
「晝ごはんなに?」
「菜の花サンドイッチですよ、奧さん」
「あれすき。スクランブルエッグとベーコンが挾んであるやつでしょう?」
「菜の花が咲きはじめたからさ。つぐちゃん、すきでしょ、菜の花」
「すき」
「じゃあ俺は? 俺もすき?」
「だいすき」
てらいもなく返ってきた言葉に、うへへ、と頬を緩める。
ばかである。なにしろ新婚である。
つぐみとは半年ほど前、役所に婚姻屆を出して籍をれた。
戸籍上は葉は鹿名田葉である。この木造平屋は祖父から譲られたつぐみの持ち家で、いまは葉の家でもある。葉の仕事はつぐみの専屬モデルで、あとはちょいちょい安いバイトをれたりれなかったり。生活の八割がた、つぐみにおんぶにだっこで生きている。金銭的には完全に依存している。べつになにも恥じるところはない。
「飲みものはなにする? 紅茶淹れる?」
「ミルクティーがいいな」
「はあい。あったかな、牛」
つぐみを居間の座布団に下ろすと、葉は冷蔵庫をひらいた。まだ殘っていた牛を見つけ、茶葉と手鍋を用意した。
下ごしらえを終えた溶き卵とベーコンをフライパンにかけると、切ったパンに菜の花、スクランブルエッグ、ベーコンの順に挾んだ。パンの側にはマスタードとバターを塗ってある。
紅茶とサンドイッチを居間に運ぶと、つぐみはおだんごをほどいていた。
「お待たせ。ミルクティーは自分で砂糖れてね」
「うん。おいしそう」
ちゃぶ臺を挾んで向かい合い、サンドイッチにかぶりつく。
スクランブルエッグと厚のベーコンに菜の花の苦みが効いてちょうどいい。あふれたがこんがり焼いたパン生地ににじみだしてくる。葉はぱくぱくと半分に切ったサンドイッチを四つ食べて、つぐみはちまちまとふたつ食べた。デザートには、このあいだ作った苺のコンポートをヨーグルトのうえにのせて出した。
「久瀬くん、バイトは?」
ひと心地つくと、つぐみが思い出した風に訊いた。
つぐみは絵を描いているあいだは、朝も晝も夜もなくて、そもそも時間という概念が消失している。今さらながら今が十三時であることにきづいて、葉が家にいることに違和を覚えたらしい。
葉は普段は大で、施設管理スタッフのアルバイトをやっている。常勤スタッフの週休にる臨時スタッフなので、月給は安い。以前は小遣い稼ぎにヌードデッサンのモデルもやっていたのだけど、つぐみと結婚してからはつぐみ専屬になった。
「今日はおやすみ。常勤の鴨志田《かもしだ》くんがこないだ風邪ひいて、代わってあげたぶん、今日はないんだって」
「ああ、風邪はやってるもんね」
「あとで生姜湯つくろうか。咽にきくやつ」
「うん」
葉がつくる生姜湯は蜂をれた特製のものだ。あまり辛くないので、つぐみもすきらしい。
「わたし、久瀬くんのつくるものすき」
「そ?」
「でも、顔がいちばんすき。見た目すべて」
それは顔だけはよくて、中はぺらぺらのすけすけって意味でしょうか。
確かに葉が持っているもののなかでいちばん高値がつきそうなのは顔で、次がだけど、料理の腕とか、DIYの腕とか、あとが丈夫であんまり風邪を引かないとことか、點はいっぱいあるので、もうちょっと顔と以外にも目を向けてほしい。そんなことを前に言ったら、つぐみは貓のように眸を細めて、中より見た目のほうがずっと正直だよ、と言った。自信たっぷりに斷言されると、そうなのかな?と思う。葉は流されやすい。
「久瀬くん」
サンドイッチのお皿をシンクで洗っていると、つぐみがおもむろに葉の腰に腕を回してきた。おいのようでいて、つぐみがやるとぜんぜんそんなかんじはしない、貓が甘えるような仕草。
「かきたい」
つぐみとは、二年前にヌードデッサンのモデルのバイトで知り合った。
當時のつぐみは十七歳のひきこもり高校生で、そんな多な時期のの子が若い男のヌードモデルを雇うってどうなのかと思ったものだけど、そんな邪念はつぐみをまえにしたときに消え去った。葉を見つめるつぐみの眼差しは明で、ひとつのやましさもない。ただ焦げ付くような、被寫を紙に落とし込もうとする熱だけがある。
……あとで知ったことだが、つぐみは普段、ひとは描かないらしい。
執拗に植だけをモチーフに描いているつぐみを案じた彼の師匠が、大でけ持っている學生たちのデッサンを見せると、そこに混じっていた葉を描いたヌードデッサンにだけ興味を示したのだという。
つぐみは時に彼のに起きたとある事件がきっかけで、日がなこの木造平屋に引きこもっている。的な問題ではない。心理的な問題で、ひとりで外に出ることが困難な「ある弱點」を抱えるになったのだ。
なので、彼は東京郊外にあるこの木造平屋で、ほぼすべての絵畫制作を行っている。明治大正期にかなりの財を築いた名家の娘でもあるつぐみは、十七歳のときに祖父からこの家を譲られ、葉が知り合ったときにはお手伝いさんつきで生活していた。い頃から貧乏で、その日暮らしをしてきた葉とはえらいちがいだ。
「いいよ。洗いもの終えたらね」
皿を水切りかごに重ねると、葉はタオルで手を拭いて、つぐみの頭をぜた。
ヌードデッサンのモデルのバイトをしはじめたのは、謝禮がふつうのバイトより高かったからだ。しかも座っているだけでいい(肩は凝るが)。天國か?と葉は思ったが、意外となかなか誰もやってくれないらしい。葉が大の講師に出會ったのも、當時していた通整理のバイトで大生と仲良くなったのがきっかけだ。
つぐみの制作室に戻ると、木製の椅子を置いて、シャツもチノパンもボクサーパンツもぜんぶぐ。ポーズを指示する畫家もいるけれど、つぐみは葉が椅子に座ると、勝手に描き始める。とくにこうしてほしいとも言われないので、葉はアンティーク椅子のうえで半分あぐらをかいて、花が散っている庭をぼんやり眺めていたり、冷蔵庫に殘った野菜のこととかを考えていたりする。
――葉くんは、つぐみちゃんのオム・ファタルだね。
つぐみと昔からつきあいがある畫商は、あるとき葉をそういう風にたとえた。
――オム……オムライス?
葉はあいにく「オム・ファタル」の意味を知らなかった。
ぽかんとして問い返すと、「オム・ファタル」と畫商は丁寧に言い直した。
――運命の男って意味だよ。あるいはミューズ。あの子は生涯の畫題を得た。
実際、出會った數か月後、つぐみは「花と葉シリーズ」の第一作を発表し、熱狂的な賞賛を得る。それは暗い調で塗りつぶされた背景にの男と花が描かれているという絵だった。男は全が描かれていることもあれば、手や背中、腰やくるぶしなど一部のこともある。
つぐみは年齢、別、出地など一切を公表していない畫家だ。
けれど、「葉」というヌードモデルは畫家の人だろうという説がまことしやかにファンたちのあいだには流れている。當たらずとも遠からずだ。一作目が発表された頃、つぐみと葉はほぼ初対面に近かったし、反対に今は法律上の夫婦だ。人だったことはない。
「花と葉シリーズ」はそれからも旺盛な創作力で描かれ、未公開作も含めると現在五十作にのぼる。植だけをモチーフに描く偏った畫家は、葉と花だけを描く偏った畫家に変わった。正気の沙汰じゃないよねえって畫商はわらった。だけど、人間なんてだいたい正気の沙汰じゃないし、それに比べると雑味が含まれないつぐみの狂気は強い酒のようで、葉を簡単に酩酊させる。
――久瀬くん。お金あげるから、わたしと結婚して。
つぐみに持ちかけられたとき、葉は驚かなかった。
小學五年生のとき、唯一の親を自殺で失った葉には、常に金がない。叔父夫婦に預けられたあと、いろいろあって児養護施設にれられ、十八で施設を出たあとはバイトをかけもちして生活した。お金がもらえるなら、犯罪以外なんだってした。それを考えると、結婚くらいなんてことないし、むしろ俺にも家ができるということにはたまらなく惹かれた。
――わかった。いいよ。
二つ返事で葉がうなずくと、つぐみのほうがちょっとびっくりした顔になる。
――いいの?
――うん、いい。つぐちゃんなら。
――わたしの事はなにも聞かないの?
――言いたいなら聞くけど、言いたくないなら聞かないよ。
――都合がよすぎる。
――そうかな。都合がわるいよりいいほうが、お互いよくない?
あとになって知ったことだが、つぐみは當時、親から見合いを勧められていた。この令和の世において驚きだが、名家ではいまだに家同士の結びつきとか見合いという文化が殘っているらしい。でも、つぐみは基本ひきこもっていて、家の外に出るのがひとりだと結構たいへんだ。
つぐみの親はよい醫者をつければ、心の問題なんて簡単に治せると思っている。つぐみはちがう。一生治らないと思っているし、治らなくていいと思っている。そして、彼が自分を「ふつうの妻」の枠に押し込めるのは、心が関節臼するくらい苦しいことなのだ。だから、藁をもすがるように葉の手を取ったのだと思う。お金さえ払えば言うとおりになる「都合がいい」男だったから。
へくしゅ、とくしゃみが飛び出て、葉は我に返る。
いつの間にか空は茜に染まっており、クロッキー帳に突っ伏すようにしてつぐみは眠っていた。夕方になると、春は冷える。いだ服を適當にに著け、葉はつぐみのを長椅子のほうに橫たえた。長椅子の背にかかっているブランケットをつぐみのうえにかける。よく晝寢をするつぐみのために、葉が置いておくようにしたものだ。
「夕飯なにしようかなー……」
長椅子の端に腰掛けて、夕食の獻立を考える。
お晝はパンだったから、できれば和食を中心にしたい。きのう買った豚があるから、新たまねぎとジャガイモと煮てもいいかもしれない。あとは桜海老のかき揚げ。春に一度はやりたいと思っていたメニューだ。そしたら、手毬の形のお麩を使ってお吸いも作ろうか。でもそれなら、茶巾壽司をやりたい。量が多いから豚はあきらめるか……。頭のなかで獻立を組み立てて、よし、と立ち上がろうとする。そしてよろけた。葉のシャツをつぐみがつかんでいたせいだ。
「つぐみさん、ひとのシャツ無意識につかむのよしてー」
寢息を立てている奧さんに向けて文句を言う。
つぐみはふにゃふにゃと寢言を言っていて、葉の腕に手を回してきた。かわいかったので、頭をぜる。
築三十年木造平屋の家あり、三食付き(作るのは自分)。
この結婚は三千萬円の契約金によりり立っている。
はじめにつぐみは言った。行為は契約外だと。
うん、わかった、と葉はうなずいた。したくなったらよそですればいいことだ。
次につぐみは言った。結婚生活を営むための資金はすべてつぐみが出す、代わりに家事は久瀬くんがして、と。
いいよ、と葉はうなずいた。料理も洗濯も掃除もすきだし、金銭的につぐみを頼るならすこしは働かないと。
最後につぐみは言った。いくらでも払うから、わたしをしてと。
葉はこたえなかった。この條項については雙方の協議が必要かもしれない。
冷たい夕風が半開きの障子戸から吹き込んだ。「つぐみさん、起きて」と細い肩を揺らして、腕にしがみつく手をやんわりほどく。
長い睫がふるえて、彼が目をひらく。
おはよう、とその耳にやさしく囁きを落とす。
――この夫婦関係は、三千萬円の契約金によってり立っている。
冥府
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