《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》三 旦那さんと元カノ前線到來 (1)
連続十日間、東京では雨が降り続いている。
雨はきらいじゃないけど、洗濯を外で乾かせないのがいただけない。十日も続くと、寢はどことなく気を含んで重たく、タオルもシャツもくたっとしている。ちなみにつぐみの背中まである長い髪は、日々の葉の努力とちょっと高めのヘアオイルによってさらさらまっすぐを維持している。
「葉くん。奧さんの寫真見せてよ―」
バイト先である大で、仰向けになって水れしている排水管に応急処置用のテープを巻いていると、講師の如月《きさらぎ》茜音《あかね》が聲をかけてきた。
契約金三千萬円で當時背負わされていた借金は返したし、今の生活は食住の保障つきなので、ほかに仕事をする必要はなくなったのだが、大のバイトだけはなんとなく続けている。容は施設管理業務で、來客があったときの応対や部屋の鍵の貸出、施設の見回りに簡易修繕などなど。葉がっているのは土日の日中と、メインで仕事をしている常勤スタッフの代打で、今日は代打のほうだった。
「あれ? 俺、如月に奧さんの話なんてしたっけ」
「鴨志田《かもしだ》くんが言ってた。このあいだ、飲み會で」
「口かるいねー。あいかわらず」
鴨志田は常勤の施設管理スタッフだ。四月に鴨志田から合コンの頭數合わせのいをけたとき、「奧さんいるから無理」と斷ったことがあった。葉は周囲に結婚の話はしてないし、結婚指も持っていないので、鴨志田も如月もはじめ冗談だと思ったらしい。
如月は講師室のデスクで生徒たちが提出したレポートの採點をしている。
如月自は彫金をメインとする造形作家で、大の工蕓科で働いているが、教授とちがって講師の分だと事務作業も多いらしい。食っていくにはしかたないけどね、とよくぼやいている。長で細の如月はファッションモデルのようで、茶に染めたショートボブからのぞく耳元には自がデザインした銀のっかを組み合わせたピアスが下がっている。
「奧さんどんなひと? かわいい?」
「むちゃくちゃかわいいよ」
素で返すと、「のろけるな」と足を軽く蹴られた。
「いくつ?」
「十九歳」
「うそ、若くない? 結婚したのいつ?」
「んー、高校は卒業してる歳だったと思うけど」
「思うってなによ」
呆れたように如月が半眼を寄越した。
「あ、もしかして半年前に急にデッサンモデルのバイトやめたのも、だから?」
如月は結構、こういう細かなところで察しがいい。排水管の修理で葉がひっくり返っているのをいいことに、「えい」と近くに転がっていた葉のスマホのロックを解除した。
「えっ、解除した今? なんで?」
「つきあってた頃からパスワードを変えてない君がわるい」
「いや、もう赤の他人でしょ。じゃなくて、ひとの攜帯、勝手に見たらだめでしょ」
「はいはい、寫真フォルダはどこかなっと」
すぐに取り返したかったが、ちょうど手がふさがっているせいできが取れない。補修テープを巻き終えて排水管の下から這い出すと、「わっかーい」と長椅子のうえでブランケットにくるまって眠るつぐみを映した寫真を如月が見ていた。寫真嫌いなつぐみにきづかれないよう、こそっと撮影したものだ。ロックをかけて一枚だけ保存してあったのに、なぜきづく。
問答無用でスマホをすっぽ抜いた。と思ったら奪い返される。
「葉。この子と會わせてよ」
「え、やだよ」
「元カレがわるいに引っかかってないかわたしが査定してあげよう」
「結構です。ノーセンキュー、ノーセンキュー」
元カノと奧さんが顔を合わせるなんて、なんか修羅場っぽい。
とはいえ、つぐみは葉に対してはないわけだから、案外ほのぼのと「はじめまして」みたいな雰囲気になるのだろうか。想像しかけて、いやいやと首を振った。つぐみがわるいに見えるわけがないが、契約結婚がばれるのはまずい。
葉のほうはべつにいまさら世間もないけど、つぐみは「モデルの男にうつつを抜かして結婚までした放娘」という設定で、鹿名田家のお見合いをまぬがれたのだから、葉は外ではせいぜい「つぐみがうつつを抜かしちゃったわるい男」っぽくしないと。
「とゆーかですね。つぐみさんがわるいなんじゃなくて、つぐみさんを引っかけたわるい男が俺だから」
どやっとすると、如月は「ええー……」と眉を寄せた。
「どのへんが?」と訊かれて、自分でもこまった。どのへんだろう。
「俺さあ、結構わるい男じゃん?」
「そうなの?」
「そうだよ。ほら、お金ないしね? 奧さんの持ち家で食住ぜんぶ養ってもらってるヒモ相當だしね? もう見かけ倒しの最低最悪っていうか――」
全面的に真実だが、言っているうちに自分でもしょうもなくなってきたので途中でやめた。方針転換だ。自分を下げるのはやめて、つぐみのすばらしさについて如月にプレゼンすることにしよう。
「対するつぐみさんは、すごーくいい子なんだよ。ちょっと気難しいけど、いつもおいしそうにごはんを食べてくれるし、どこでも寢ちゃうのもかわいいし、木造平屋の家は居心地いいし、ほんとこのうえなくよい雇い主で――」
「やといぬし?」
「いや、いい奧さんなんだよ。お金持ちだし」
「ふうん。十九歳っていうと大學生? なにやってるの?」
「く、くりえいたー……」
畫家、と言っていいのかわからないので、ぼかしてみた。
ちなみにつぐみは高校は中退しているし、大學は験すらしていない。
「クリエイターってほんとにー? 君、結婚詐欺とかあってないよね?」
「つぐみさんがそんなことするわけないでしょ」
言い合っていると、如月の手のなかにあったスマホがふいに振をはじめた。
よりにもよって、こんなときに。しかも表示された発信元はつぐみである。
「返して」と手を差し出した葉に、如月は何かを思いついたようすで口の端を上げ、通話ボタンを押した。ついでにぽちっとスピーカーに切り替える。
「はいはーい、葉くんの攜帯です」
『…………』
語尾にハートマークがつきそうな勢いで出た如月に対し、數秒間をあけたあと、通話がいきなりぶつっと切れた。ツー…ツー…とむなしい電子音を立てるスマホに背筋が凍る。あわてて如月から取り返したスマホで折り返しの連絡をかけるが、つながらない。家電も同様だ。どうせ絶対いるんだし、と呼び出しを続けていると途中で留守番電話に切り替えられた。
「あれ、どうしよう。ほんとに怒っちゃったやつ?」
首を傾げた如月に、
「ほんとに怒っちゃったやつだよ!」
どうするんだもう、と葉は頭を抱えた。
*…*…*
庭の梅の木がどっさり梅を実らせたので、梅仕事をはじめることにした。
すまえの青梅の段階で収穫すると、竹串でヘタをひとつひとつ取っていく。
「久瀬くん、こんなかんじ?」
ダイニングテーブルに座ったつぐみがたどたどしく竹串を扱っている。
「うん、うまいうまい」とうなずいて、となりで葉もちょいちょいヘタを取っていく。青梅は梅シロップのほかにもしょうゆ漬けや梅酒にしようと思っていたから、テーブルのうえのザルに山のように積み上がっている。のんびりやっていると日が暮れるので、葉はつぐみが一個やっているあいだに五個も六個もヘタを取っていく。
「梅シロップ、どれくらいでできるの?」
「んー、一週間も経てばできあがるよ。梅酒とかだと數か月はかかるけど」
「じゃあ、わたしの誕生日の頃には梅酒ものめるね」
つぐみの誕生日は十二月なので、ちょうどが進んでよい頃だ。手のなかで梅をくるくると回すつぐみの機嫌はよさそうで、葉は中でほっとをでおろす。
先日の如月勝手に著信をとる事件のあと、つぐみは機嫌を損ねてたいへんだったのだ。もとい、つぐみはわかりやすく葉をなじったりはしない。でも、「ただいまー」と聲をかけても返事をしないし(居間でこれみよがしにスマホをいじっていた)、夕ごはんにつぐみの好のコロッケを揚げても反応してくれないし(コロッケは完食した)、「あのう、今日の電話のことなんですが」とたまらず葉のほうから報告を上げると、「わたし、電話した?」と真顔で噓を言った。
通話履歴にはつぐみの名前がしっかり殘されている。なのに、なんのことですか、という顔で知らんぷりを決め込む奧さんに葉は絶句し、「そ、そうですね……」ととりあえず首肯した。追求するのがこわい。
とはいえ、さすがに數日が経つので、葉は油斷していた。
「久瀬くん」
「んー?」
「あのひと誰」
「あのひと?」
「電話の」
手のなかの梅がジャンプしたので、落ちるまえにつかんだ。
――えっいまさらそれ聞く?
飛び出しかけた言葉をすんででのみこむ。
つぐみは手元の青梅を、ヘタを取るでもなくくるくる回している。気もそぞろなのがまるわかりだ。
それにしても、なんで今。……いや、ちがう。つぐみはたぶん葉とちがって、溶巖とかマグマみたいに気持ちが言葉になって地表に出てくるまでに時間がかかるのだ。もしかしたら梅のヘタ取りのあいだもずっと切り込みどきをうかがっていたのかもしれない。
「あー、あのひとはね、俺のバイト先のひとだよ。俺が排水を修理してて手が離せなかったから、代わりにスマホを取ってくれたの」
うんうん。いちおう弁明については如月相手に予行練習をしたから、すらすら出てきているぞ。しかも事実に反していない。一部言ってないことはあるけど噓じゃない。さすが俺。
「ふーん」
つぐみはなぜか不満げだ。
「排水の修理しているあいだ、ずっととなりにいたの?」
「え? ああ、講師室の水道だったし、如月、レポートの採點してたし」
「如月」
「うん、如月さんがね」
呼び捨てがお気に召さなかったようだ。どこに地雷が埋まっているかわからない平原を走らされているようでどきどきしてくる。
というか、べつに何をしたわけでもないのに、なぜ葉のほうがどきどきしているのだろう。確かに如月は以前一年くらいつきあっていたし、一時期は如月の部屋で暮らしていたこともあるけど、つぐみと結婚する一年まえには如月のほうから別れを切り出されていたし、それ以降同僚以上の関係になったことはない。オールクリーンである。ちなみに振られた理由は、「ほかにすきなひとができたから」だ。
「あ、そういえば、つぐみさん」
如月についてはこれ以上話題がなかったので、葉は無理やり話を変えた。
「花菱《はなびし》先生がさ、今度の祝日、ゼミ生とバーベキューやるけどつぐみさんも來ない?って」
大で教授をしている花菱は、つぐみがい頃から師事していた日本畫の師匠でもある。そして花菱のクラスでデッサンのモデルをしていた縁で、葉はつぐみに出會った。
花菱はつぐみに同世代の友人がいないことを気にかけていて、この手のいをときどきしてくる。といっても、學生たちとわいわいやることが苦手なつぐみは、いつもあれこれ理由をつけて斷っているのだが。
「……それ、如月も來るの?」
「え、如月? どうだろ。今回は行くって言ってたような」
如月が擔當している工蕓科は、花菱がけ持つ日本畫科とはコースがちがうが、制作室が隣接していることもあって、両コースは日常的に流がある。如月のイベント參加率は高い。
「じゃあ行く」
「はい?」
「參加しますって花菱先生に伝えておいて。久瀬くんも行くでしょ」
「いや、つぐみさんが行くなら行くけど」
不穏な予にそわそわしつつ、葉は顎を引いた。
――修羅場、発したらどうしよう。
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