カーテン越しのかすかなに、意識を呼び起こされた。

頬に當たる、枕のらかなが心地良く、まだ目を開けたくない。一日中移続きだったには疲労が殘っており、ついでに公爵の空世辭で神が耗していた。

しかしアニエスは心を律して起き上がる。人の家で、のんびり二度寢をするつもりはなかった。

ダブルベッドの橫の臺から眼鏡を取り、持參した服に著替え始める。服裝は昨日とほぼ同じ。やはりスカートは穿かず、全黒い。

支度を整えてカーテンを開けると、ガラス越しに水の空が広がっていた。

留め金を外し、両開きの窓を押し開ける。そよ風がアニエスの先を揺らした。

（今日も良い天気）

眼下の庭に、夏の花が咲いていた。白が多く、甘やかな香りがわずかに漂う。

目覚ましがてら、しばし風とを浴びていると、箒を持って通りかかった使用人らしきと目が合った。

「あっ」

二階のアニエスにも聞こえる聲量で、は大きく口を開けた。途端、兎のごとく踵を返す。

（・・・なんだろう）

間もなく、慌ただしい足音がした。それが扉の前で急に止まり、続いてノック音がする。

「おはようございます！　お支度のお手伝いに參りました！　ってもよろしいでしょうか！？」

息の弾んだ、の溌溂とした聲が扉越しにも響く。アニエスは呆気に取られつつも、「どうぞ」と室を許可した。

「失禮いたします！」

部屋にってきた時點で、は嬉々としていた。

今朝の空を映したような、水の瞳が大きく印象的だ。黒髪は短く、細い肩の上で先が小さく跳ねている。

（シャルと同じくらいかな）

妹よりやや背は低いが、十四歳よりいという気はしなかった。

紺のワンピースにエプロンを付けている。昨夜にも見たハウスメイドの制服である。未年も立派な労働力だ。特に、屋敷の使用人は家族ぐるみで奉公している場合が多い。

よってメイドの存在自は奇妙ではない。ただ、何かを期待するようにその大きな瞳を輝かせている意味が、アニエスはわからず困した。

「何かっ、お手伝いすることはございますか！？　必要なものなどは！」

無闇な威勢の良さにも圧倒され、アニエスは窓辺からく気になれなかった。

「・・・では、顔を洗いたいのですが」

「わっかりました！　洗面とタオルをお持ちしますね！」

また兎のごとく部屋を出て行き、水を汲んだ陶の洗面と白いタオルを持って異様な速さで戻って來る。

「お待たせいたしました！」

「・・・ありがとうございます」

は機の上にタオルを分厚く敷き、その上に洗面を置く。アニエスが顔を洗う時は、長い髪が濡れないよう手で押さえたり、すぐさまタオルを差し出したりと素早くいた。

そしてアニエスが顔を拭いている間は、そわそわとしている。何かを言おうか、あるいは訊こうかとしているようだ。

「・・・あなたのお名前はなんですか？」

の気迫に負け、仕方なくアニエスから切り出した。立場上、のほうから何事かを勝手に喋り出すことはできないのだ。

會話の糸口をもらえたは、ぴんと背筋をばす。さながら、餌を待ちわびた子犬のように。

「ルーと申します！　ルー・メラー！　ララ・メラーの孫です！」

またしてもアニエスは困した。、ルーの口振りは、まるで、そう名乗ればすべてわかってもらえると言わんばかりの勢いだったのだ。

しかしアニエスが怪訝な顔のままだったためか、ルーは慌てて言葉を継ぎ足した。

「あの、わたしの祖母、ララと言うんですが、祖母は昔、シェレンベルク伯爵様にお仕えしていたんですよ！　アネットお嬢様のご息が領主様になられると聞いて、とっっても楽しみにしていたんです！　ぜひぜひ祖母にお會いくださいねっっ！」

アニエスは呆気に取られていた。の短いびの中に、様々な報と誤解が錯綜していたためである。

その時不意に、わずかに開いていた扉の隙間から、メイドがもう一人現れた。

そちらはアニエスよりずっと年上の中年である。背が低く、水の瞳に、黒い髪。ルーとそっくりだった。

彼はアニエスに詰め寄っていたルーを素早く引き離し、適切な距離と聲量で話し出す。

「お騒がせして申し訳ございません。ご朝食のご用意が整いましてございます」

新たな人の登場で、混をきたしたアニエスの脳は一度リセットされた。

「・・・あなたは？」

「私はリリー・メラーと申します。不肖の娘がご迷をおかけいたしまして、まことに申し訳ございません」

やはり親子であるらしい。アニエスはまったく気にしていない旨を伝えてから、報の整理を試みた。

「あなたも、シェレンベルク伯に仕えていたことが？」

「はい。子供の頃の一時期ですが」

リリーは使用人らしい、控えめな微笑みを浮かべて言った。

「伯爵様やお嬢様についての詳しいことは、私の母がよく存じております。後ほど、お會いいただければ幸いにございます」

冷靜な彼の、後ろに控えるルーはもう待ちきれないといった様子で、アニエスの心もどちらかと言えば娘の気持ちに近かったが、

「主が、よろしければご一緒に朝食をと申しておりますが、いかがいたしましょうか」

と続けて言われてしまい、公爵を待たせるわけにもいかないアニエスは、仕方なく話を打ち切り、食堂へ向かった。

◆◇

特別早くもなく、特段遅くもない朝食を、公爵と同じ円卓に座して食す。

「殿下は王城の外でお暮らしと伺いましたが、お食事はどのようにされているのですか？」

パンを千切る、公爵は食事の間も會話を絶やさない。「黒絹のような髪（みぐし）が朝日に映えますね」の第一聲から始まり、概ね昨晩と同様のやり取りを繰り返している。

朝食はアニエスが軽めにしてほしいと願ったため、丸いパンと野菜のスープ、果といったところである。量でも質の良い食事だ。

朝の日差しが、白を基調とした室を明るく照らす。円卓を飾る薄ピンクの薔薇が一、花弁の隙間に殘る朝をらせていた。

アニエスと公爵以外は給仕が出りするだけの、靜かな食卓だ。

というのもここは領主館の本館ではなく、エインタート領に最も近い別宅であり、そもそも人がないのだ。

他意なしとはいえ、獨男の別宅に二人でいる、そこはかとなく世間の悪い狀況がどうにもアニエスは気まずい。この狀況は想定外だった。

「・・・學院の舎にっておりまして、普段はその食堂を利用しています」

「殿下自らご倹約されているのですね。ご立派なことです。しかし、王城から通われることはできなかったのですか？」

「し、距離があるので。・・・學院の生徒だった頃は、馬車で通っていましたが、やはり近いほうが楽です」

「なるほど。お仕事熱心であらせられるのですね」

アニエスはひねくれ者でないにせよ、子ほど純真でもなかったため、『仕事熱心』を譽め言葉とはけ取らない。が自立するようになってから、まだ日の淺いこの國では大概の場合、侮蔑と非難がそこに含まれる。

エリノアであれば、相手の心にある嘲りを瞬時に見抜き握り潰すだろう。その度もないアニエスは、適當な相槌で會話を流す。

いずれにせよ公爵が真実心してくれているのかは大した問題ではなく、この場で優先したいのは自尊心より実のある報だった。

「――あの、公爵。々よろしいでしょうか」

機を見計らい、アニエスは切り出した。相手は特段、構える様子もない。

「どうぞラルスとお呼びください」

「・・・はあ、いえ」

アニエスは気安く人と接することが元來苦手なため、要は流し先を続けた。

「今朝、シェレンベルク伯爵家に仕えていたというメイドに會ったのですが」

「メラー母娘ともうお話しされましたか」

「はい。それで、彼たちが言っていたララ・メラーという方に、詳しい話を聞きたいのです。可能であれば、貴方からも」

「もちろんです。そうですね、では、最初に私ができるお話からいたしましょうか」

ラルスは紅茶でを整え、語る。

「アネット・シェレンベルク伯爵令嬢については、本來は私よりも、私の父に語らせるほうがよほど詳しいのですが、生憎とこちらも二年程前に他界いたしまして」

何気なく、ラルスの口から飛び出す母と思しき人の名前に、アニエスの眠たげな瞳がわずかに大きくなる。

貴族名鑑にも、確かに彼の名はかつて載っていた。ルドガー・シェレンベルク伯爵が、老いてからやっと授かった一人娘であり、記録によれば十六年前に亡くなっていた。アニエスが二歳になった頃である。

「エインタートが不幸に見舞われた後のほんの數年間のことですが、この屋敷にアネット嬢が住まわれていたのですよ」

「え・・・」

「長年のお隣どうし困った時は助け合わねばと、父は病床の伯爵と、アネット嬢と、エインタートの民を一手に引きけました。・・・これはもう時効だと思いますので、先にお話しいたしますが」

するとラルスはどこか楽しげに、聲をひそめた。

「父は、アネット嬢を公爵夫人にする計畫だったようです」

アニエスは二度、驚いた。まったく思わぬ方向に話が進んでいる。

「私の母は事故で早くにこの世を去っておりましたもので。男やもめの寂しい心があったのでしょう。ちょうど、私と殿下ほどの年の差でしたね」

アニエスは、嫌な予がした。

「・・・あの、まさか」

「ああいえっ。もちろん、父の目論見は水泡に帰したのです。もとよりアネット嬢にはまるで相手にされていないようでしたから」

やはり父親が違うのではというアニエスの疑念を、ラルスは慌てて否定していた。

「かのご令嬢は、屋敷外の避難所で、ご自の領民と過ごされることがほとんどだったようです。ルドガー伯がこの世を去られてからは、住まいもそちらに移されていました。私がお會いできたのもせいぜい、二、三度ほどです」

そこまで話し、ラルスはアニエスを見つめた。

「私にとっては子供の頃の記憶で、多曖昧な部分はありますが、やはりアネット嬢と殿下はお顔立ちがよく似ていらっしゃると思います。――それと、ニコラス王陛下にも。アネット嬢は伯爵令嬢にしては々、活発なご気でしたから。殿下の穏やかなご様子は、王陛下に近いように思われます」

「・・・そうですか」

アニエスの記憶の中でも、父は湖のように穏やかな人だった。底に潛む好さがまったく窺い知れない程に。

その父に似ていると言われ、アニエスは複雑な気持ちもありつつ、それでも心のどこか片隅で、かすかに溫かいものが、じんわりと広がってゆくようにじた。

「――私が知っていることはこの程度です。大したお話もなく申し訳ございません」

「いえ・・・いえ、ありがとうございます」

アニエスは初めてラルスの顔をまともに見返した。

「お茶の後に、エインタートの領民が住んでいる地區へご案いたしましょう。私よりも詳しい話のできる者が多くそこにおります。もしお疲れでなければですが」

「ぜひお願いいたします」

言った直後に、アニエスがカップの紅茶を三口で飲み干したため、ラルスは思わず笑い聲をらした。

◆◇

昨夜と同じく馬車に乗り込んだものの、さして時間もかからず目的の村に著いた。いっそ歩いても構わなかったくらいの距離だ。

館の外は、丘の上まで青々とした農地が広がっていた。金の畑は麥である。冬に蒔いたものが、そろそろ収穫の時期になる。

馬車の通る石の道に沿い、赤い三角屋の家々が並んでおり、その軒先で作業をしていた村人が、公爵家の黒い馬車を不思議そうに見送っていた。

馬車は、村の端で停まった。

「こちらです！」

真っ先に馬車を飛び降りたのはルーである。者の橫の助手席に乗り、同行してきたのだ。

アニエスはラルスの手を借りてゆっくり降り、ルーが扉を開けた家を見上げた。

「二十年前に建てた仮設の住居です。彼らの多くが今も住んでおります」

隣に立つラルスも同じように見上げている。

そこは間隔の狹いドアがいくつも並ぶ長屋だった。漆喰の壁がよく崩れるのか、まだらに補修の跡がある。

「・・・失禮します」

薄暗い中にると、外からも窺い知れた狹さを実できた。そして、たった三歩行ったところのベッドに、糸の帽子をかぶった老婆が座っている。

アニエスを見つめ、震えていた。

「お嬢様・・・」

杖に依ってやっと立ち上がり、アニエスの腕を摑んだ。

その予想外の力強さにアニエスは驚く。本來は許されない行為だが、アニエスも、ラルスも護衛の者も、誰も泣きじゃくる老婆を振り払うことなどできなかった。

青い瞳はアニエスの顔から逸れない。左腕を締め上げられる痛みから、深い想いの存在がわかる。アニエスは、このララ・メラーがアネット・シェレンベルクを最もよく知る人であると確信できた。

「・・・はじめまして」

腕を摑む皺枯れた手に右手を添えると、力が緩み、老婆は笑んだ。の多い頬を涙が伝う。

「よくぞ、よくぞお戻りくださいました。こんなにご立派になられて・・・こんなにも、喜ばしいことはございません」

アニエスは言葉に詰まった。

「・・・私を、ご存知なのですか？」

「えぇ、えぇ、一日たりとも思い出さぬ日はございませんでした」

するとルーが聲を上げた。

「あのっ、おばあちゃんがアネットお嬢様のご出産のお手伝いをしたんですよ！」

つまりは、彼が生まれたばかりのアニエスを取り上げたというのである。

アニエスはじっと、老婆を見つめた。

「私は・・・私の母は確かに、アネット・シェレンベルクなのですか？　私は確かにここで、生まれたのですか？」

皺枯れた手がびて、おしそうに、頬をなでた。

「月石のような瞳も、夜の髪も、お可らしいお顔も何もかも、アネットお嬢様に瓜二つ。私がこの手で確かにお抱きした子に間違いございません」

そして下腹に手を當て、深く、頭（こうべ）を垂れた。

「お帰りなさいませ。アニエス様」