《アナグマ姫の辺境領修復記》11.拠點整備
砂っぽい手りの扉を開けると、明るいエントランスがあった。
正面に、優雅に灣曲した二又の階段。白と黒のタイルの床には木片が散らばっており、見上げれば吹き抜けの天井にが開いている。
多手れをされていたとはいえ、庭師の老人だけでは限界がある。エインタートの領主館もまた、廃墟一歩手前の様相であることに変わりはなかった。
「まずは寢床の確保ですかね」
「はい」
荷を両肩に擔いで來たジークに、アニエスは頷く。玄関の様子を見る限りでも、今日中に北の森まで行くのは無理そうだった。
「すぐに使う場所から、片付けましょう。それから外の茨の點検も。ここで一晩安全に過ごせるか確かめる必要があります」
「では、キッチンの片付けとアニエス様のお部屋を先に見繕っておきますっ」
言うが否や、野兎のように駆け出すルーをアニエスは慌てて呼び止めた。
「待ってください、何かあるといけないので二人以上で行しましょう」
「え? そんな、心配されなくてもわたしは」
「いえいえ、油斷はです。どこか床が抜けたり、野生が棲みついている可能もありますからね」
納得しないルーに、リンケも言葉を重ねた。
アニエスは彼を対魔のアドバイザーとして正式に雇いれることにした。これまで自腹を切って研究を続けていたリンケにすれば、願ってもない話であり、一も二もなく承知して今に至る。
「もちろん私も手伝いますよ」
メモをしまって腕まくりするニーナを含めた四人の顔を見回し、アニエスはあまり慣れていない指示出しを行う。
「では、お言葉に甘えて、リンケ先生とニーナさんは二階を回って使えそうな部屋があるか確認してください。ジークさんは館の外から、柵や壁の點検をお願いできますか?」
「承知いたしました」
ジークは荷を一旦エントランスの床に置く。
當初、アニエスは彼をひどく他人行儀に苗字で呼んでいたのだが、エインタートまでの移中、家來のことはもっと気軽に呼んでいいのだと説得され、やや抵抗がありつつも呼び名を直すことにした。
さらに便乗したニーナに、これから長い付き合いになるのだからとよくわからない説得を早口でまくし立てられ、気づけば名で呼ばなくてはいけないことになってしまった。
それでも呼び捨てるまでいかなかったのは、ひとえにアニエスの小心ゆえである。
「ルーさんは私と一階を回りましょう。點検が終わり次第ここに集合していただき、片付けは皆でやりましょう」
各々、アニエスの指示をけてき出す。
ジークは外に出る前、念のためメイドに聲をかけた。
「ルー、君の聲はよく通りそうだから、何かあれば思いきりび続けてくれ。すぐに駆けつける」
「へ? あっ、はい、了解です!」
ルーは気をつけの姿勢で承る。ジークに言われ、アニエスの傍にいる自分がよく注意しなければならないことに気づいたのだ。
一方、アニエスのほうもまた、唯一の未年であるルーを自分が責任をもって守らなければと思い、この組み合わせにしたのだが、初めてのお使いを頼まれた子供のように張り切る彼には、その意図を言わないでおくことにした。
「ではアニエス様、參りましょう! あ、足下にお気をつけください!」
「はい。ルーさんもよく前を見て、転ばないように」
アニエスはそそっかしい妹のことを思い出しながら、ルーのすぐ後を追った。
◆◇
「うわぁ・・・」
まずキッチンに足を踏みれたアニエスとルーは、言葉もなかった。
割れた窓から、おそらくはがり込んだのだろう。食い散らかされた野菜クズと思しき腐敗が散し、大鍋がひっくり返って床にある。
「隣が食糧庫でしょうか」
アニエスが誰にともなく呟く。二又の蹄の跡が左手の扉にびていた。
「何か殘ってますかね?」
「気をつけてください。獣が隠れているかもしれません」
「大丈夫ですよ。扉閉まってますもん」
獣は自分で閉められないだろうと、ルーは言ってさっさと戸を開けた。
(? だったらどうして扉が閉まっているんだろう)
アニエスは不安をじて後ろから中を覗き込む。
すると、人の足が見えた。
「え? きゃあっ!?」
ルーの悲鳴が上がる。アニエスは一瞬が強張ってしまったが、我に返り急いでルーとれ替わる。
獣はいなかった。ただ、床に寢そべる金茶の髪の年がいた。
一見して死んでいるのかと思ったが、年はルーの悲鳴を聞いてゆっくり起き上がる。暢気にあくびし、目をる仕草はまだく、大ルーと同じ年頃のようだった。
「――お? 誰?」
オリーブの両目を瞬き、こちらこそが尋ねたいことを訊いてくる。アニエスは、どう対処したものか迷ってしまった。
その間に、アニエスの後ろから顔を覗かせたルーが、再び聲を上げる。
「クルツ! もーびっくりしたあっ、こんなところで何してるの?」
「食って寢てただけだけど? てか、ルーじゃん! ってことは、もう朝?」
「とっくの昔よ」
慣れた二人のやり取りを見る限り、年は怪しい者ではなさそうだ。ルーが言った年の名も、アニエスには聞き覚えがある。
「あ、失禮しましたアニエス様」
間もなく、ルーが狀況に置いていかれている主に気づき、両者を紹介した。
「こちらはクルツ・ダナーと申します。庭師のグスタさんの孫です。魔王の退治や調査に來る人のために、北の森でガイドをしています」
「アニエス様ぁ? ってことは、この人が新しい領主様かあ!」
合點がいくや、クルツは素早く立ち上がる。背格好もルーと同じくらいで、アニエスよりも小柄だった。
そしてのある顔立ちで、にっこり微笑む。
「昨日からお待ちしてました~。ぜひ俺のこと雇ってください。絶対損はさせませんから!」
「・・・は」
突然の売り込みが始まり、アニエスは戸うしかない。
「ルーはメイドなんだよな? だったら俺はシツジ! シツジにしてください!」
「・・・いえ、あの」
「クルツ! バカ言わないで!」
「え、だめ? じゃ、なんでもいいんで正規雇用で雇ってください。俺、森の案もできますしルーより絶対役に立ちますからっ。ぶっちゃけ定期収のある仕事がほしいんすよ。うち父ちゃん働けないから」
「もう黙って!」
ルーが頭に手刀をお見舞いし、ようやくクルツは口を閉じた。
どっと疲れたアニエスだったが、とりあえず侵者が素の知れない相手でなかったことに安堵する。
狀況が落ち著いたところで、クルツにはいくつか質問をした。
「昨日からここにいたんですか?」
「そしたら確実に會えると思ったんで」
「魔や、獣は大丈夫だったのですか?」
「昨日はなんともなかったっすよ。茨もあるんで。あ、たまにって來ることもありますけどね。でもこんだけ広いお屋敷ですから、隠れるとこはいっぱいあります」
どうやら、クルツが屋敷に泊まったのは昨日だけではないらしい。館の主の前で不法侵を堂々と告白してしまったわけだが、當人は気づいていなかった。
アニエスもこの混した現場で年を罰しようとは特に思わない。そもそも、領地法の整備もまだできていないのだ。
「魔がって來た時はとっておきの隠れ場所があるんすよ。こっちですっ」
クルツはアニエスらの脇を抜け、キッチンの外に導く。まるで自分の基地を案するかのように嬉々としていた。誰が館の主なのか、もはや定かでない。
ひとまずアニエスらが付いて行くと、エントランスに戻った。さすがにまだ誰もいない。クルツは右の階段の下に潛り、よく見なければ気づけないタイルのに指をかける。
すると、がこ、とタイルが四角い蓋のように開き、下へ続く梯子が現れた。
「なにこれ?」
「地下室だよ。すげえだろ? 俺が見つけたんだぜ」
クルツは腰に下げていた人工燈のカンテラを點け、先に梯子を降りていく。それに興味津々のルーが続き、出遅れたアニエスが最後に降りた。
明かりに照らされ、地下の埃っぽい空気が見える。そして、アニエスには嗅ぎ慣れた匂いが充満していた。
「・・・書庫、ですか?」
カビとインクの獨特な匂い。クルツがぐるりと照らす狹い部屋の四面に、大きな本棚が並んでいる。
地震があった後のように本が木の床に散らばり、そこに埃が厚く積もっていた。他に部屋には機と椅子が一組だけあり、機の上にも本や何かを書き付けたメモ紙が散している。
そのうちの本を一つ手に取り、中を開くとだいぶ赤茶けて読めない。
一部、かろうじて手書きと思しき古語が読み取れる。紙質は荒く、指先がざらつく。カバーはふわふわした特徴的なで、今のスヴァニルではほとんど使われなくなった羊革であるとわかる。なくとも、百年以上は昔に作られたものではないかと思われた。
(もしかして、これらはエインタート領が王國に併合された頃からある古書なのでは)
アニエスは背筋が震えた。
(読みたい)
地下室にはたくさんの本がある。それらを片端から修復し、この靜かな場所で読み耽ることができれば、どんなに幸福だろうと思う。
荒れ果てたエインタートには、これまで集めに集めた本を持ち込めるはずもなく、図書館や王城に預けて來てしまったため、今のアニエスはいつにも増して本がしかった。
(・・・いや、いや、落ち著け。そんなことをしている暇はないんだから)
現狀を何度も自分に言い聞かせ、斷腸の思いで本を置く。ただ、せめて床に落ちているものだけは、後で必ず時間を見つけて整理しようと思った。
他に地下室には何があるわけでもなかったため、三人で地上に戻る。
それから勝手知ったるクルツの案で、倉庫や使用人部屋、庭への勝手口などを手早く點検し、バインダーに挾んだ紙にメモを付けたところで、またエントランスに戻った。
「おや、クルツ君。來ていたんですか」
すでにニーナたちがそこにおり、リンケは年の存在に特に驚くでもない。
クルツのほうも「よ、先生!」などと気安く応じる。リンケが一応は貴族であることを彼は忘れているのかもしれない。
その時ちょうど、ジークも外から戻って來た。なぜかもう一人を伴って。
「庭で花の世話をしている者がいたのですが」
ジークは老人を拘束し、やや弱り顔である。
例のごとく、どこから忍び込んだのか、グスタが庭の手れをしていたようだ。むすっとした顔で大人しく捕まっている。
「・・・放してあげてください。この方は伯爵家の庭師をされていたグスタ・ラウさんです。それから、こちらが彼の孫のクルツ・ダナーさんです。先程、合流しました。館に詳しい方々なので、このままいていただこうと思います」
「そうでしたか。だったら最初からそう言えばいいのに・・・」
ジークは老人にじと目を向ける。極端に無口なグスタは、尋問されてもろくに話さなかったため、警備擔當としては捕えるしかなかったのである。
アニエスは、解放された老人におずおずと寄っていく。
「あの・・・々ありまして、領主になりました。至らぬところばかりですが、よろしくお願いいたします」
「・・・」
グスタはじっとアニエスを見つめ、何も言わずに頭を下げた。
◆◇
日暮れから、蟲の聲が聞こえ始めた。
ルーが作った鍋を食べた後、今夜はエントランスに布を敷いて、皆でまとまって休む。
點検の結果、館のほとんどの部屋がすぐに使える狀態になかったのである。というのも、借金を負った伯爵家が、家などをほとんど売り払い、ベッドも何もなかったためだ。
よって、まずは魔が決してって來ないように外柵の補修を優先し、続いてキッチンとエントランスを片付けた。必要な家や資材は、明日からしずつ手配していく。
アニエスは寢る前に、館の外へ出てみた。そこには見張りを買って出たジークと、リンケがいる。
リンケはノートとカンテラを持ち、門の前にいた。アニエスはその橫に並ぶ。
「あちらをご覧になれますか?」
リンケに示され、柵の間を覗くと赤いが見えた。
「っ!」
息を呑む。
し遠くの闇の中に、山型の塊がある。牛よりも遙かに大きく、足の短い生きが、燈をけて赤い瞳を二つらせていた。に対して頭は非常に小さく、兎のような耳を持ち、狐のようにとがった顔をしている。
「ヌボーという魔です。好奇心旺盛な格でして、群れで様子を見に來たようです」
言われてよく周りを見れば、赤いがそこかしこにある。
囲まれていた。
「・・・ヌボーは、比較的兇暴は低いのでしたか」
「ええ。ですが悪戯好きなので遊び半分に家屋を破壊したり、人を襲う例もございます。人の居住區域にはいないほうが好ましいでしょうね」
そう言いながらも、リンケはどこかうきうきとしている。これまで、シビルの監督下では夜に領主館に留まることを許されておらず、間近で観察する機會に恵まれなかったため、実際この狀況が嬉しくて仕方がないのだ。
(・・・やはり、できるだけ早く魔をどうにかしなければならないか)
今のままでは館の補修にも集中できない。
アニエスは北の闇を見やり、小さく息を吐いた。
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