《アナグマ姫の辺境領修復記》23.風邪
かすかな冷気が、日差しの合間にまじり始めた初秋の候。
「収がほしいですね」
帳簿と書類を主の機に置き、會計士は端的に言った。
昨日補修工事が終わったばかりの執務室で、アニエスは幾帳面に作された今後の復興費用についての試算表にざっと目を通す。
部屋には他にトリーネもおり、そちらはファイリングした書類を棚に並べながら、アニエスらの様子を窺っていた。
採用から半月、リンケへのやや行き過ぎな対応を除けば、レーヴェは期待以上の優秀さを発揮している。
まずアニエスが彼に頼んだのは、當初予算案を補正するための、基礎となる報の整理である。王都でゴードンに教わり予算計畫を立てていたものの、領主就任から二か月余り、定期的な館の崩壊や、異界の使者による破壊行為で、すでに計畫が大幅に狂い始めている。リンケの散財の影響も多はある。
そこで実際の支出と、現在の資材等の相場から計算し直した、今後必要になる金額をレーヴェに弾き出してもらったところ、父の産では復興資金に足りないという事実が、明確な數字として表れた。
アニエスもある程度予想できていたとはいえ、目の前に示されれば溜め息を吐きたくなる。
「・・・稅金はまだ徴収できる狀態ではないので、別の収を考えなくてはいけませんね」
畑のない農民たちから、徴収できるものがあるわけがない。稅収は復興を完了させ、領民たちが本來の生活を取り戻してからはじめて得られるものだ。
「今すぐに収が必要なわけではございませんが、あまり猶予はございません。仮に農業以外の新たな産業を興すとすれば投資も必要となります。資金が盡きる前に有用な策を練っておくべきでしょう」
レーヴェは丁重な言葉遣いながら、はっきり意見を主張する。
その調子で、彼はローレン領の地主との渉でも大いに活躍した。
人手不足は辺境地ならばどこも同じ。渋る地主に復興事業の現狀を語り、罪悪を煽り良心を痛めつけ、さりげなく主の権威もちらつかせながら、というアニエスでは決してできなかった渉を披し、おかげで領民たちの小作人としての雇用契約は、冬の前の麥踏み作業までで終了ということになった。
例年通りであれば、エインタートの冬は積雪がない。北の隣國との境にある巨大な山脈が、雪雲を向こう側に留めてくれるのである。よってアニエスらは麥踏みの後にも工事を続行できると見込んでいる。
ただし、雪がなくとも凍てつく風だけは山を下ってくるため、実際どのくらい作業が進められるかは定かではない。
だがひとまずは工事ができる前提で、人員と機材の確保を現在進めているところである。
それらの會計士の仕事からやや逸した渉や手配に関しても、レーヴェは意的に參加してくれるため、そのありがたみにアニエスは日々頭が下がる思いでいる。
レーヴェの不貞腐れたような顔はただの癖で、きっぱりした言いは怒っているのとは違う。彼が本気で怒る時は言葉遣いがれる。
それがわかってくれば、アニエスも心でいちいち怯えずにいられるようになってきた。
「農業以外の産業となると・・・森がありますから、狩猟や林業は思いつきますが、魔のことを考えると難しいかもしれません」
領の三分の一を占める森だが、それは今、便宜的に魔王領となっている。
ギギに渉しなければという問題の以前に、森にれば魔に襲われる可能が高い。また大量に木を切って彼らの棲み処を狹め、森から出て來られても困る。彼らが小鳥のようにか弱く人に追われることはないのだ。
「平原にまだ鹿などの獣は殘っているので、それを狩ってや皮を売ることもできますが、続けていればやはり森に逃げられるのでしょう。安定的に得られるものでなくては、いけないのですよね?」
「理想はその通りです。あるいは短期的でも高額に稼げるものがあれば良いですが。そううまくはいきませんか」
レーヴェはあっさりしている。
アニエスは後ろの臨時事務員にも意見を仰いだ。
「トリーネさんは、エインタートにあるもので、何か売りになりそうなものは思いつきますか?」
トリーネはファイルの背を押し、「んー?」とごと傾けて悩む。
「なんでしょう? エインタートらしいものと言えばクムクムですけど、所詮、野草ですからねえ。その辺に生えてるものですし」
「よその土地にないものであれば特産品として売れます。ですが、よほどインパクトがあるか、もしくは需要に応えるものでなければ売り方は難しくなるでしょう」
すかさずレーヴェの指摘がった。
クムクムは、王都であらゆる本を読み漁っていたアニエスでも知らなかった植であるが、別種で似たようなベリーの類は他にいくらでも存在する。あまり目新しいものではない。
トリーネはさらに頭を捻ってくれたが、この場で代案は出なかった。
「他の人にも訊いてみますよ。お年寄り衆ならとっておきを知っているかもしれません」
明るく言って、トリーネはさっそくアンケートを取るべく部屋を出て行く。まず工事に來ている者に訊くのだろう。彼が整理したファイルは棚にきれいに並べられていた。
「――では、私も支出で削れる部分がないか再検討いたします」
「はい、お願いします」
帳簿と試算表を持ち、レーヴェも退出する。彼の仕事部屋はすぐ隣にあった。
ところが部屋を出る間際に、レーヴェはふと振り返る。
「つかぬことをお伺いしてよろしいですか」
すでに次の仕事を手に取ろうとしていたアニエスは、それに々慌てた。
「は、はい。なんでしょう」
「名前で呼ばれている方と苗字で呼ばれている方がいるようですが、何か意味はあるのでしょうか」
唐突な、意図のわからない質問に一瞬思考が止まる。
この半月、レーヴェとはほとんど無駄な會話をしてこなかったため、アニエスはむやみに勘繰ってしまう。
「私としては、特に、意味はありません。名前で呼んでほしいという方を、その通りにお呼びしているだけです、が・・・」
この答え方で良いのか、當人はかなり迷いながら口にしている。
「そうですか」
一方のレーヴェはそっけない。
「あの、それが何か?」
「いえ。親度の違いなのか確認したまでです。お答えいただきありがとうございます。失禮いたします」
丁重に頭を下げてレーヴェは退出した。
(・・・名前で呼んでほしいのかな)
思ったが、仏頂面の會計士に関しては、たとえ頼まれたとしても呼ぶ勇気はまだなかった。
◆◇
館が寢靜まった頃、闇に沈んだエントランスで、アニエスはランプを片手に、階段下の地下室へ一人降りた。
ルーやクルツに掃除を頼んだため、床に積もっていた埃は消え、黴臭さだけが殘る。
整理し直した古書は四方の棚に縦に、あるいは橫にして収められている。
二百年ほど前まで、本は縦ではなく橫に置くのが普通だった。よって、その頃のものは表紙ではなく、本の小口、底のページの重なり部分にタイトルが書き込まれている。そのため、それらの本に限っては平積みで、タイトルが見えるようにして置く。
裝丁を見るだけでも、その本の生まれた時代がある程度わかる。ここには新しいものでも百年、古いものでは三百年近く昔に作られたと思われるものがあった。
アニエスにとって、この地下室は寶庫だ。裝飾も何もかも無殘な姿となっていようが、存在に萬金の価値がある。
夜中にもかかわらず、古書の香りに気分が高揚する。アニエスは、まだかろうじてタイトルの読めるものを手に取って開いた。
(産業に繋がりそうな報が、何かないだろうか)
その本はシェレンベルク伯爵家が領主となる前の、土地の名稱ともなったエインタート辺境伯の戦記だった。
四百年前、スヴァニル王國の前であるヴィシュト王國の軍人であったラザファム・エインタートが、この地を拓いた豪族を征討した。
もともとの現地民はヴィシュト人とが異なる。王國への服従を固く拒んだため、彼らは赤子に至るまで殺され、わずかに生き殘った者にも奴隷としての悲慘な末路が待っていた。
その後、周辺に興った大國に抗するため、ヴィシュト王國は南に隣接していたスルドナ王國と統合し、統一國家スヴァニルとなり、世界勢が落ち著くと共に周辺諸國との約定から、奴隷制度は廃止となった。
工業の発展に併せ不完全ながら農奴解放もなされ、移民もけれている昨今では、あらゆるが混ざり、誰がどこの民族出であるか明確な區別がつけられない。顔がやや濃いだの薄いだの、のの微妙な違いだので、ぼんやり推測されるだけである。
アニエスは予備知識として、王都で最新の歴史書を読み込んできたため、負の歴史を知っているが、手書きのエインタート辺境伯の戦記は、さすがに勝者の記録だけあって子殺しなどの不都合なことは書かれていない。なくとも、読み取れる部分には記述がなかった。
いずれにせよ、古の戦爭の是非は今の重要な問題ではない。
誰がどれだけ殺したかという戦功の記録を飛ばし、おまけのように付いている辺境伯就任後の事業を見ていくが、あまりぱっとしたものはない。麥や野菜や果の収穫量、漁業の水揚げ量等がくすんだ文字で記され、他に事業らしいものは酒造の取り組みについて軽くれる程度に留められていた。
(土も水も良い。ただしその他は何もない。山を掘れば石炭くらいは出るかもしれないけど、儲かりはしないだろうな)
石炭は、現在のスヴァニル王國のすべての産業を駆させているエネルギー源である。
いくらでもあれば売れるが、山の開発には大金がかかる。大型の重機と人手が必要で、現狀の問題を倍増させるだけになりかねない。
しかも近年では、掘削の際の危険や、石炭を燃やした時の煙や匂いが問題視され、紋章を代替に使った技が拡大しつつある。
いずれ霊の力を安価に利用できるようになれば、石炭の需要は先細りとなろう。現在も未來も、あまり手を出したいと思える事業ではなかった。
アニエスは戦記を戻し、次を手に取る。いくつか関連しそうなものを探して読んでみるが、どれも汚れがひどく、容がよく読み取れない。タイトルすらわからないものも多い。
(・・・やっぱり、まず修復しないと)
本音はすぐにでも作業を始めたいところだったが、今からでは朝になってしまう。明日は明日で仕事がある。
アニエスはを押さえ、地上へ戻った。
「――ん」
頭を出したところで、冷気が顔に吹きつけた。
ランプを掲げると、玄関橫の窓が一つ開いている。そこから夜風がり込み、アニエスの髪を巻き上げた。
(今夜は風が強いな)
誰かが晝間に閉め忘れたのだろう。
住民すらいないエインタートに泥棒が出るはずもない。目くじらを立てる程のミスではなかった。
さっさと窓を閉め、自室へ戻る。
その翌朝に、アニエスは熱を出した。
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