《アナグマ姫の辺境領修復記》24.見舞い
目覚めると、まずが痛かった。
ベッド橫の臺に置いた水差しを取った時に、己のが異常に熱いことを自覚した。
頭の中が霞がかり、気分が悪い。立ち上がると吐き気がする。
(風邪だ)
そう思い、アニエスはいつも通り著替えて下に降りた。
朝食が不要であることをルーに伝え、風邪をうつさないよう今日は自室で執務をする旨をレーヴェらに言付けるつもりで、ダイニングへ向かう途中でうっかり躓いてしまったところ、ちょうど朝の鍛錬を終えたジークに見つかり、ベッドへ強制送還された。
「呼び鈴を置きましょうか」
アニエスに布をかけ、従士は斷る隙も與えず部屋を出て行き、そこから十秒と間を置かずメイドが飛び込んでくる。
「アニエス様!?」
ただの風邪である。しかしルーは瀕死の重病人を見つけたかのように、真っ青になっていた。
「失禮します! ――熱っ! ああ早くお醫者様と、あとタオル? それに溫かくしないとですよね!? お食事も今すぐお持ちしますね!」
「ルーさん、あの、落ち著いて・・・」
主の額に手を當てたり離したり、部屋を右往左往するルーへ、アニエスは聲をかけるが、かすれて屆かない。
ルーがぱっと駆け出そうとしたところで、続いてやって來たレーヴェとリンケにり口でぶつかりかけた。
「レーヴェさん! どうしましょうアニエス様がっ!」
「落ち著きなさい」
レーヴェはルーの肩を押さえ、なだめる。
詐欺師を撃退したレーヴェをルーは最初からよく信頼しており、その一つも慌てていない態度にしだけ冷靜さを取り戻したようだった。
レーヴェはルーを脇によけ、ベッドの傍らに膝をつく。
「醫者を手配しますか」
「いえ・・・一日寢れば、治ると思うので」
「まあ、この世に風邪薬というものは存在しませんからねえ」
レーヴェの橫から覗き込み、リンケが言う。「ちょっと失禮」と彼はアニエスの手首を取った。
「脈が速いですね。明日まで熱が下がらないようなら、醫者を呼ばれたほうが良いかもしれません。解熱剤を飲めば楽にはなりますから」
それを聞いたレーヴェは、意外そうにリンケを見上げる。
「醫の心得があるのですか?」
「いいえ。ただ魔研究のために解剖學を學んだので、人の知識も多あるだけですよ。薬については詳しい友人からの聞きかじりです。いずれにせよ不安ならば醫者に診せれば安心かと思いますが」
「――とのことですが、いかがされますか?」
リンケの見解を引き継ぎ、レーヴェに再度問われたものの、アニエス自はこのくらいの不調に経験があり、特別に薬が必要とは思えなかった。
「・・・とりあえず、明日まで様子見させてください」
「わかりました。念のため、いつでも手配できるようにはしておきます。他にご所のものはございますか」
「特には・・・食も、ないので。ご迷をおかけして、すみません。承認書類など、ありましたら、見ることはできますので」
「朦朧としながら仕事をされても二度手間になるだけです。お休みください」
容赦なく言い切られ、アニエスはぐうの音も出ない。
その後はレーヴェの的確な指示のもと、冷たいタオルが頭に、足元に溫石をれられ、どこから持って來たのかハンドベルがベッド脇の臺に置かれ、スープをしばかり口にした。
それからはもう、アニエスにできるのは寢ることだけである。とはいえ気分の悪さが邪魔をして、うまくはいかない。
(領に醫者も必要だな。工事中の事故なんかも、あるかもしれないし)
靜かな部屋で、目を閉じても考え事が続く。それで熱が出たのだろうかと思うが、自覚したとてやめられるものではない。
來週には、巨大魚の調査に王都から研究者たちがやって來る。來月はレーヴェに紹介してもらった工人ギルドの責任者が現場を見に來る。
その対応や、それまでに終わらせておきたい仕事、予定は山積みであり、暢気に倒れている場合ではないのだ。
(不甲斐ない・・・)
また一人で落ち込んでいると、そっと扉が開き、庭師の老人が現れた。
グスタは驚くアニエスの橫に、籠に可らしく詰められたとりどりの花を置く。
「・・・お休みください」
起き上がろうとするアニエスをとどめ、ぼそりと言い殘して消える。
(・・・見舞い、かな)
それからまたしばらくすると、工事にやって來た領民たちが続々と部屋へ駆け込んだ。
「大丈夫ですか!?」
「これっ、今朝畑で採った瓜です! 水筒がわりに持って來たもんですが、熱冷ましにもなりますからどうぞ!」
「おい、そのまま押し付けるなっ。下で切ってくるから貸せっ」
「まさかアニエス様までこんなことになるとは・・・」
ただの風邪である。
しかし、孫もいるいい年の男たちまで泣き出しそうな顔で心配し、床で嘆かれたり手を握られたりされるうち、
(私は死ぬんだろうか)
アニエスも勘違いしてしまいそうになった。
さらに視界の端では、再びグスタが現れ、棚や窓辺に花を置いていく。先程とまた別のアレンジを施した花々だ。
「醫者は來たんですか?」
かわるがわるアニエスの容態を確かめる顔ぶれの中に、今日はディノの姿もあった。彼もまた悲痛な面持ちでいる。
「いえ、明日まで、様子を見ようかと」
「何を暢気な! だめだだめだっ、今すぐ診てもらいましょう! 公爵様のところにいる奴の首っこ摑まえて來ますよ!」
「そ、それは、待っ」
「トリーネはアニエス様を見ててくれ!」
「はーい」
領民たちは豬の群れように猛然と走って行く。止められるわけもない。それを目に、またグスタが花を置いていった。
「――はよっす、アニエス様生きてますか?」
さらに続けて、今度はクルツが扉の向こうから顔を覗かせた。
その後ろからは、「ちょっと待て!」とのルーの怒鳴り聲が飛んできている。
「今朝、庭に仕掛けてた罠に獲が引っかかってたんすよ。今からこれ捌きますんで、早いとこ元気になってくださいねっ」
得意げに、年が両手で掲げてみせたのは灰黒の並みの、アナグマだ。すでに止めを刺され、手足と尾がだらりと下がっている。
(やっぱり死ぬのかな)
つい、アニエスは思ってしまった。グスタが次々に持ってくる花が、父の棺を囲んでいた獻花にも見えてくる。
「馬鹿クルツ! 獣の死骸なんてアニエス様のお部屋に持ち込まないで!」
「いいじゃん。テンション上がんね?」
「アナグマはよろしくないですよ」
ルーのさらに後から、レーヴェも顔を出す。先程までの領民たちの騒ぎを聞きつけ、様子を見に來たのだろう。
だがレーヴェの指摘に、クルツはきょとんとしていた。
「なんで? アナグマ嫌い? うまいのに」
「アナグマは王都でのアニエス様のあだ名です」
「え、そうなんですか? なんで?」
ルーも驚いて主を見る。
(細かいところまで調べられてるな・・・)
そのあだ名はあくまで學院だけのものだ。雑誌にも書かれていなかったのだから、レーヴェが就職前に獨自に調べたのだろう。
アニエスは強いて隠していたわけではなかったが、やはり知られれば恥ずかしい。
「病床にアナグマの死骸を持って來るとは、謀反ですか」
「いやいやいや! 俺知らなかったから! アニエス様誤解しないでくださいよ!?」
「はい、あの、大丈夫です。アナグマは、害獣ですから、どんどん、駆除していきましょう・・・」
力なく応じていると、
「では、かわりにこちらはいかがでしょう?」
リンケも再びやって來た。
手に持ったカップをアニエスに差し出す。起き上がってけ取れば、中には無明なが半分ほどっていた。
「これは・・・?」
「私特製の栄養剤です。どうぞ」
勧められ、とりあえず口にする。味は薄く、ふわりと優しい甘さがほのかにあり、とても飲み口の良いものだった。人程度に溫められているのが、ほっとする。
栄養剤というので、薬草の獨特な苦みを想像していたアニエスは、々肩かしを食らった。
「――おいしいです。し甘いですが、蜂か何かですか?」
「いえ。ニュクレという魔のです」
途端に、アニエスはむせた。
「なに得の知れないもん飲ませてんだ」
そしてリンケは即座にレーヴェに締め上げられる。
「い、いやっ、昔はほんとに飲まれてたんですってば! 私も飲んだことありますし! ほんと元気になるんですよ!」
「そういえば、聞いたことありますそれ」
救いの手は、意外にもトリーネから差しべられた。
「魔のは萬病に効くって。なんていう魔だったかは忘れましたけど、確かうちの祖母が言ってました」
「ほらあ!」
リンケが勝ち誇る。その顔は必死だ。
レーヴェは渋々、手を放した。
「後で醫者も來るようですから、ついでに確認しましょう」
日頃の書類仕事のいい加減さから、彼はリンケをあまり信用していない。
アニエスも魔のと聞いては々抵抗が生まれたが、すでに魔のを食べたことのあるで今更かとも思い、リンケへの配慮もあって結局、その場では殘さず飲みきった。
「ちなみにアニエス様、何かおに変化が生じましたら逐一教えてくださいね」
「おい、やっぱ人実験が目的か?」
「け、喧嘩は、しないでくだ、さ・・・」
リンケを壁に追い詰めるレーヴェを、咳込みながら止める。
病人であっても、周囲に気を使わねばならないことは変わらない。
晝には瓜とアナグマのスープをだけもらい、本當にディノらが連れて來てしまった醫師の診察もけた。その際には、ラルスからの見舞いのカードと本をついでに置いていかれた。
本は、百年程前に有名無名の詩人たちの言葉を編纂した詩集である。現在でも強い人気のある名著で、中はアニエスもすでに何度も読んだが、贈られたのは最近出版されたばかりの新裝版である。
中がまったく同じでも、裝丁が変わればアニエスはその都度購する。本という形そのものをしているアニエスにとっては、外も中と同じくらい重要なのだ。
しかも今回の新裝版は、まるで初版當時を思わせる背表紙にバンドのある重厚な造りで、アニエスの好みのど真ん中を打ち抜く。
バンドとは、かつて折り丁の背と表紙を合わせ綴じる際に、綴じ糸が隆起し、それが背表紙の下でバンドを嵌めているかのように浮き出て見えたことから、そう呼ばれている。
現在は糸が浮き出ない綴じ方ができるため、この新裝版はわざわざ厚い紙か何かを埋め込んで突起を作っているのだろう。
新しいものがどんどん生み出され、合理の波に古い文化が呑まれ廃れていく最中に、手間をかけて古のデザインを復活させた製本會社の心意気がまた稱賛に値する。
だがそれをラルスが贈ってくれたという事実が、々悩ましかった。
(こっちも著実に調べが進んでいる・・・)
非常に嬉しい贈りだったが、暢気に喜んでいて良いのかは、果たしてわからない。
いずれにしても、快癒した暁には禮狀をしたためねばならない。また仕事が増えたかと思うと、アニエスは心ももさらに重くなった。
◆◇
晝間ひっきりなしにやって來た見舞い客と、呼び鈴を鳴らしてもいないのに來るマメな看病のおかげで、すっかり気疲れしたアニエスは夜になるとさすがに眠くなった。
熱はまだ下がらない。それでもしは気持ちの悪さが取れ、夕食にはパンを食べることができた。明日の朝には、もっと回復するだろう。
もはや考え事も浮かばず、まどろんでいると、ある時に気配をじた。
至近距離に、白くる雙眸があった。
アニエスはかろうじて悲鳴を堪える。寸前で、相手がギギであることに気づいたのだ。
「死ぬのか?」
鼻先が付きそうな距離のまま、ギギが訊いてくる。
「・・・いえ」
「死なんのか」
「はい。まだ、大丈夫、です」
実は死んでほしいのだろうかと、アニエスは不安になったが、ギギはそれ以上なんの反応もなくを引いた。
だが立ち去る気配がない。カーテンかられるかすかな月明かりを頼りに目を凝らせば、ベッドの橫に翼を椅子として座るギギのシルエットが、うっすら見えた。
彼が何を考えているのかはわからない。
だがまるで、この格好は病人に付き添っているかのようだ。
「・・・ドアを使ってくださったのですね」
三度執務室を破壊された後、アニエスは本気でギギ専用の出口を壁に取り付けた。
彼の大きな羽でもつっかえない、両開きの扉を設置し、用がある際はそこからって來てくれるよう平に平に頼み込んだ結果、ようやく聞きれてもらえたらしい。
「ありがとうございます」
アニエスは心で、どうせギギは何をしても壁を破ると思い込んでいたため、かなり意外であり、謝の言葉が自然に出た。
ギギは手をばしてカーテンを開け、窓の外に目を向ける。よってアニエスにはその暗い後頭部しか見えない。
「どうせお前らはすぐに死ぬ」
夜空を眺め、獨り言のように呟く。
「せめてしでも我の暇を潰してゆけ」
特段のも籠っていない言い様である。
(すぐに死ぬ、か・・・そっか、母様は、熱病で亡くなったんだった)
約束を果たせなかったアネットのことを、ギギは思い出しているのかもしれない。
それは領民たちも同じである。
アニエスはやっと気がついた。だからこそ、彼らはまるで自こそが死にそうな顔で心配していたのだ。
この魔人の中に、人と共通する心がどれだけあるのかはわからない。彼からすれば、人間など気まぐれに構うだけの犬貓と同等なのかもしれず、その死を悼むことはないように思える。
それでも、心に掛かるものが多なりともあればこそ、こうしてアニエスの傍にいるのだろう。
(もしかして、館にも様子を見に來てくれているのかな)
まったく都合の良い解釈だ。
なんにせよ、アニエスは皆の安心のため、早く風邪を治そうと思った。
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