《アナグマ姫の辺境領修復記》閑話 シャルロッテの思い出
五歳の頃のシャルロッテにとって、王城は必ずしも安らげる場所ではなかった。
生活スペースに他人がたくさん出りする。國王の父は忙しく、歌手の母はもっと忙しく、滅多に會えない。他に家族といえば兄や姉がやたらいるが、年が離れすぎてあまり相手にしてもらえない。
侍が用意してくれる、同年代の遊び相手は貴族の子供が多く、皆、どことなくシャルロッテを見下しているようだった。
シャルロッテは子供の頃から人心の機微に聡かった。なぜ彼らの態度が不自然なのか、その理由に分のない母のことが関係していると、すぐにわかった。
貴族出ではない側室は他にもたくさんいたが、だからといってシャルロッテの存在が誰しもにけれられるわけではない。
つまりそこで生きていくためには、けれてもらえる者にならなければならない。される者にならなければならない。
幸いなことに、シャルロッテはらしい容姿を持って生まれることができた。あとはそれを使って、大人がむような、よく笑う無邪気な姫でいれば良かったのだ。
誰の手も煩わせず、面倒もかけず、いつもにこにこしている、そんな都合の良い子供に。
だが完璧にそうなるには、シャルロッテは々、うかつだった。
「――っ」
暖爐の上に置かれていた、陶の人形を落としてしまった時、シャルロッテは絶した。
それは彼の父が手ずから作り、子供らの談話室に飾っていたものである。淡く頬を彩された可らしいの置の、繊細な手足が床の上でぽっきり折れてしまった。
シャルロッテにとっては、そこで人生が終わったと思えるほどの大失敗だ。目の前の現実がとてもけれられず、しばし床を見つめて茫然自失となっていた。
「・・・大丈夫?」
背後から聲をかけられた瞬間に、シャルロッテは天井まで飛び上がりそうになった。
その時、談話室にはシャルロッテの他にもう一人あったのだ。
四つ年上の姉、アニエス。兄姉の中では最も年の近い姉だったが、當時シャルロッテとはほとんど流がなかった。
いつも黒い服を著て、部屋の隅で分厚い本を読んでいるだけの姉だ。聲すら、ろくに聞いた覚えがない。
姉の眠たそうな灰の瞳に壊れた置が映り、シャルロッテはひどく狼狽した。
「ちがっ、ちがうのっ! わざとじゃないの! ちがうのっ、ちがうのぉ・・・」
ろくな言い訳は出て來ず、涙ばかり溢れてくる。
シャルロッテは怯えていた。この國で一番偉い父のものを壊してしまったのだ、牢にれられるかもしれない、城を追い出されるかもしれない。悪い想像ばかりが飛躍して、ただただおそろしかった。
うずくまって泣くシャルロッテに、しかし一向にめの言葉はかけられなかった。
無口な姉は傍にしゃがみ、かちゃかちゃ何やら音を立てている。
シャルロッテがわずかに顔を上げれば、アニエスは広げたハンカチの上に丁寧に破片を集めていた。
やがて全部拾い終えると、それを包んでどこかへ持って行く。
「・・・?」
シャルロッテは、ぐずりながら付いて行った。
やがて姉がっていったのは自分の部屋だ。何か様々な道が置かれた大きな機にハンカチを広げ、絵筆を取ると、狀の接著剤がった小瓶に浸し、破片に塗り始めた。
人形の右腕を繋げたら、細く裂いた包帯を巻いて固定する。次に左腕にも接著剤を塗り、固定する。それが終われば足。背中を丸めてそれらの作業を行うと、姉は振り返り、
「あさってには直るよ」
ぼそりと、言った。
次の日にまた姉の部屋を訪ねると、姉は人形の包帯を取ってはみ出た接著剤を削り、破片の足りないところは粘土で埋め、再び丸一日乾燥させた後、継ぎ目が目立たないようその上に白い絵などで著した。
そして人形はまるで何事もなかったかのように、こっそり元の場所へ戻されたのだ。
シャルロッテは、奇跡を目の當たりにした気分だった。
「これで、大丈夫」
そう言った姉は得意げでもなんでもない。そしてシャルロッテの失敗を、誰にも話さないでいてくれた。
想よく行儀よく振る舞わなくとも、怒られなかった。無償で庇ってくれた。
そのことが何より嬉しかったシャルロッテは、それから地味な姉の周りをうろちょろするようになったのである。
◆◇
「ねえさまは、どうしていつもまっくろなのですか?」
ベッドに寢転がり、シャルロッテは機で読書をしているアニエスに尋ねた。
その日のシャルロッテはあまり愉快な気分でなく、侍も誰も來ない姉の部屋であるのを良いことに、ここぞとばかりに行儀悪く、ベッドで足をばたばたさせる。
そんな妹へ言いたげにしながらも、アニエスは疑問への回答を優先した。
「これは、喪服だから」
「モフク? ってなあに?」
「・・・家族が死んだ時に著る服。喪服のは黒に決まってるの」
淡々と言ってページをめくる。
シャルロッテは足を止め、逆さまの視界でじっと姉を見つめる。
「アニエスねえさまの、かぞくがしんだのですか?」
「そう」
「アニエスねえさまのかぞくなら、シャルともかぞく? シャルもモフクをきなくちゃいけないです?」
「シャルは著なくていいよ」
その言い方は普段よりもさらに素っ気なく、シャルロッテはなんだか気にらなかった。
別に好んで黒ずくめになりたいわけではなかったが、仲間外れにされるような言い方が癇にさわったのだ。
むっとした勢いで、ベッドから起き上がる。
「どうして? ねえさまとシャルはかぞくでしょう? ねえさまのかぞくなら、シャルともかぞくでしょう?」
強く言うと、姉は困った顔になる。
そうして、しだけ寂しそうに言った。
「・・・死んだのは、私の母様だから。シャルの母様は生きてるでしょう。だから著なくていいの」
何も考えずに話していたシャルロッテは、面食らってしまった。
他の兄姉たちの母がどこでどうしているかなど、今まで気にしたこともなかったのだ。
しかし、変に意地になってしまった子供は、ここで引き下がることができない。
「シャルだって・・・シャルのかあさまだって、しんでるみたいに會えないもん」
反抗心で口にしたことだったが、言葉にするとじわじわ涙がにじんでくる。
昨日はシャルロッテの六歳の誕生日だった。プレゼントをもらい、お祝いもしてもらったが、肝心の母は遠方で公演があり、城に來てくれなかった。
そのことが、シャルロッテを朝からずっと沈んだ気持ちにさせている。
「・・・母様に、手紙を書いてみたら」
本を閉じ、アニエスはベッドで丸まってしまった妹の傍に腰を下ろした。
しかしシャルロッテは顔を枕にくっつけたまま首を振る。
「シャル、なまえしかかけないもん」
シャルロッテは勉強が何より嫌いだった。アニエスがいつも読んでいるような、字がびっしり詰まった本など見るだけで目眩に襲われる。
「――なら、別のものをおくったら」
すると、優しく肩を叩かれ起こされた。
「こっち」
しばかり大きい、姉の手に引かれていく。
連れて行かれた先は王城の溫室だった。
外より數段溫かいガラス張りのドームの中に、別の姉の姿があった。
「フィーネ姉様」
アニエスが聲をかけると、じょうろを持ったまま振り返る。
その溫室は以前の誕生日にフィーネが父にねだり、自でずっと管理しているものだ。
中にはしい花々から、木々や珍かな薬草まで、フィーネの興味の向いたあらゆる植が育てられている。
フィーネと特に仲の良いアニエスは頻繁に來ている場所だが、シャルロッテは十四歳も離れているこの姉とはあまり話したことがなく、ついアニエスの後ろに隠れてしまう。
「やあアニエス。今日はシャルロッテと遊んでるのかい?」
い妹たちに、フィーネは頬を緩ませる。
一方のアニエスは真剣な面持ちでいた。
「突然すみません。もしよければホルルナをわけていただけませんか? 人におくりたいのです」
「へえ?」
フィーネはおかしな聲を上げた。
「ホルルナを贈るって? 君、十歳でもうそんな相手がいるの?」
「私ではなく、シャルからシャルの母様におくるのです」
「え?」
アニエスが説明を加えると、かえってフィーネはわからないという顔をする。
「アニエス、ホルルナの花言葉はわかってるのかい? あれは《しい》とか、あとは《恨めしい》というかまあ、そういう意味の花なんだよ。なかなか會ってくれないような、冷たい人に贈るものなんだ」
「・・・母親に、おくってはいけないものですか?」
アニエスはわずかに首をかしげて訊き返す。
「《しい》は、《寂しい》という意味ではないのですか?」
い顔で言われては、フィーネも苦笑いするしかなかった。
「まあ間違っちゃいない、か。わかったいいよ、全部摘んで持っておいで。たっぷり恨みのこもったブーケにしてあげよう」
シャルロッテがよくわからずいる間に、二人の姉によって、真っ赤な花を集めた豪華なブーケができあがってしまう。
シャルロッテはアニエスからカードを渡され、そこに自分の名前をたどたどしく書いて花の中に差しただけ。
そうしてブーケを母の公演先に送った四日後。
突如王城に飛んで帰ってきた母に、シャルロッテは力いっぱい抱きしめられた。
いつも傍にいなくてごめんなさい、と。
シャルロッテがずっと言いたくても言えなかった、そして手紙に書くこともできなかった一番の想いは、確かに母に伝わっていた。
自分は名前を書いただけなのに。
またしてもシャルロッテは奇跡を見た気持ちになった。
(アニエスねえさまは、なんでもかなえてくれるんだわ)
溫かい母のの中には幸福しかない。
だがこの時、シャルロッテの頭に浮かんだのは、黒ずくめの寂しい姉の姿だった。
(ねえさまのことは、だれがだきしめてくれるのかしら)
本をたくさん読んでいる姉は、十歳でもう大人と同じことを知っている。
難しい字も書ける。だから手紙も出せる。
しかし、それを読んでくれる母はいない。
(しぬって、そういうことなのね)
シャルロッテは母を一層強く抱きしめる。
幸せをめいっぱい吸収したその次には、走って姉を抱きしめにいった。
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