《アナグマ姫の辺境領修復記》38.一時帰宅

諸々の用事を済ませ、結婚式の前日にアニエスは王城へ顔を出した。

例のごとく門前で張り込みの記者たちに遭遇したが、城の衛兵たちが壁を作っていたため何事もなく城し、まずはカイザーへ謁見する。

従者たちのことは控室に置き、通されたのは執務室だ。妹の結婚式と通常業務でカイザー自も忙しく、執務の休憩がてら挨拶を済ませることになっていた。

「顔が悪い」

室し、開口一番に言われアニエスは困した。

今朝もホテルで鏡を確認したが、いつも通りの蒼白さで特段調子の悪いところはない。

「元からそうだったか?」

「・・・はい」

カイザーは、ちょうど同じく報告に來ていた弟のゴードンと妹の顔を見比べる。二人の様子はよく似ていた。

「まあ変わりないのであれば良い」

し待て、と長兄が殘った書類にサインする間、アニエスはゴードンのほうへも改めて挨拶を済ませた。

三番目の兄は今日も気にぼそぼそ喋る。

「・・・順調か」

「・・・それなりには。兄様のくださったマニュアルに助けられております。・・・想定外のことも多々ございますが」

「だが対処できているのだろう。お前は、よくやっている」

アニエスがカイザーに送った現況報告には、ゴードンも目を通しているようだ。

兄に褒められることは気恥ずかしく、くすぐったく、どういう顔をして良いものか悩ましい。

「ゴードン、私の臺詞を取るな」

書類を片付けたカイザーが笑い混じりに言う。その聲にある気安さにアニエスはまた驚いた。威厳に満ちた長兄からはあまり聞いたことがない聲だったのだ。笑顔すら珍しい。

実際は二人の間でよくあるやり取りなのだろうが、辺境伯になるまで彼らを人垣の向こうに見ていたアニエスにとっては意外だった。

(兄様でも冗談を言ったりするのか)

そう思えば、遠い人がやや近くに降りてきたようにじる。あるいは、アニエスのほうが近づいたのか。いずれにせよ貴重なものを見た。

カイザーは椅子に座り直し、改めて妹に向き合う。

「――狀況によってはデュオニスあたりを派遣せねばならんかと思っていたが、大事に至らず何よりだ。これは大げさでなく、本當によくやっている」

「・・・ありがとうございます」

(そう重ねて言わなくても)

叱られたいわけではないが、あまり褒められるのも居心地が悪い。しは言い返さねば胃が痛くなる。

「領民たちの獻と、兄様や姉様方のご助力のおかげです。私の力でせたことなど何も」

「ああ、人の力を結集させ事をすのが上に立つ者の手腕であるからな。その調子で今後も謙虛に勵むように」

「あ、はい」

姉に卑屈と叱られた態度は、兄には謙虛と捉えられた。

(ひとまず合格をもらえたのかな)

不甲斐なさを糾弾され、領地を取り上げられるということは、現時點ではなさそうだ。そんな不安がないでもなかったアニエスはしほっとした。

「ところでファルコは相変わらずだったか?」

心配の種である妹の狀況を確認できた長兄は、次に五男のことが気にかかっていたらしい。

「はい。お元気そうでした」

「その後、奴から連絡はあったか?」

「? いえ。何も」

首を傾げると、カイザーはアニエスが見慣れている険しい顔つきに戻り、深々と溜め息を吐く。

「あの、ファルコ兄様に何か・・・?」

心の隅に新たな不安がよぎる。まさか偵として働くファルコと連絡が取れなくなったのか。であればそのが危険に曬されているのかもしれない。

一気に想像が広がるアニエスだったが、カイザーのほうは単純に苛々していた。

「父上が亡くなられてからまだ一度も顔を見せんのだ。――たまに面倒な報をよこして來るかと思えば、こちらからは一向に連絡がつかんのだからまったくふざけている」

アニエスは再び首を傾げた。

「・・・ファルコ兄様と連絡が取れないのですか?」

「取れたためしがない。奴のほうから手紙をよこすことはあるがな。そのたびに苦労させられる。あいつは一何がしたいのやら・・・」

カイザーの口から詳細が語られることはなかったが、ファルコの手紙にはどうやらいつも厄介事が記されているらしい。

アニエスは、ファルコは偵としてあらゆる場所の報を王へもたらしているのだと想像していたが、やや違うのかもしれない。

例えば、命じられていているわけではなく、頼んでもいない場所を気ままに探り、引っ掻き回し、後始末を王城へ丸投げしているのではないか。

急にエインタートへやって來て、思いつきのまま魔王と勝負していったように。

そのき方はとてもファルコらしい。

「奴の居場所について何か聞いていないか?」

(・・・聞いていない、こともないけど)

困った時はここに手紙をよこせと言われた場所がある。定期的に帰る拠點であるのだろうが、どうやらカイザーには知らされていないらしい。

(ファルコ兄様があえて伝えていないことを私から伝えて良いものか)

迷った末、アニエスは黙を選択した。

カイザーに後ろめたい思いはあったが、ファルコの意思を尊重したい思いのほうが勝ってしまった。父がそうしていた、ということもアニエスにとっては大きい。

「・・・知らんか。ならそれでも良い」

追及はされなかったが、カイザーは何か察した様子であり、気まずいアニエスは兄の背後の壁に目をそらす。

そしてわずかの沈黙の後、なぜかカイザーのほうも若干気まずげに、再び口を開いた。

「この際ついでに訊いておくが、ローレン公爵との噂はどこまで本當だ?」

アニエスは目をそらしたまま、可能な限り正確に答えた。

「・・・どのような噂かは存じ上げませんが、隣人どうしの一般的な付き合い以上のことはございません」

「そうか。まあ、お前に限ってないとは思うが、今後何かある時は早めに報告するように。知らぬ間に甥だの姪だの増やされるのはさほど嬉しくない」

まさしく彼の知らぬ間に甥か姪がすでに増えている可能があることを、ファルコがメモに殘したの名からアニエスは知っている。しかし、この時はにまで隣人との仲を疑われている恥心から下を必死に噛んでいたため、進言することはなかった。

◆◇

思わぬ恥をかくはめになった謁見を早々に済ませ、アニエスは従者の三人を連れてせわしない城を抜け、彼の元の部屋がある宮殿へ移した。

その宮殿は丸ごと《子供部屋》だった。

子煩悩な先代ニコラス王が、我が子のためにたくさんの珍しいものや玩を集め、兄弟どうしでいつでも遊べるよう、建どうしに橋をかけ、運場のような広い中庭や、食堂、談話室など、十八人の子らが集まって流できる場所を設けていた。

全員集合したことは一度もないにせよ、かつては部屋を出れば兄弟の誰かしらには會えた。

アニエスがよく出沒したのは大きな本棚のあった談話室と、今は城で管理されているフィーネの溫室だ。相対的に部屋に籠ることのほうが多かったが、籠っていれば大抵シャルロッテが読書の邪魔をしに來たものだ。

今夜は馴染みの自室に泊まって良いことになっている。隣に扉で繋がった侍部屋があるため、ルーたちも同じ建で休ませられる。

宮殿の門番とは顔馴染みであり、特に案を付けてもらう必要もない。さっさと部屋へ行き、まずは荷を置いた。

「ここがアニエス様のお部屋ですかー」

おー、と何やらルーが心していた。

ネリーも天井まである本棚を見上げ、「頭よさそーな部屋―」とずれたことを呟く。

「すごい數ですね」

「これでも片付けたほうなのです。以前は床にも並んでいたので」

「本お好きなんですね?」

「修復士でしたから」

心、まじまじと部屋を見回されて気恥ずかしい。

王都に來てからはどうも恥ずかしい思いばかりしている。

「これなんだ?」

一方、ファニは部屋の隅に陣取る大きな機に興味を示した。

あちこち傷や焦げ跡だらけのみすぼらしい作業臺は、高級な調度品でそろえられた部屋でひと際異彩を放っている。しかもそこには特殊な形の萬力やら石板やら、骨でできたヘラやらが幾本も整列しているのだ。

引き出しを開ければ包丁や弓鋸の歯、ナイフなどの刃類もある。世間一般の王の部屋にあるべき道たちではないが、すべて本と同じくらい大切なアニエスの寶だ。

「それらは本を修復するための道です」

アニエスが修復士として働き始めたのは十六の頃だが、アウデンリートの雙子の老師匠に弟子りしたのは十三の時だ。學院に學して早々のことである。

それからは工房が休みの時も部屋にそろえた道を使い、王城の書庫の痛んだ本で修復の練習をしていた。

何度も失敗したがその度に父に許され、師匠らにコツを教わった。それこそ読書よりも夢中になって技習得に勵んだのだ。

は使い込むほど手によくなじんだ。あるいは、なじむようにヘラやナイフの刃を一日がかりで削ったり、柄の革に手垢のかわりの油をしみ込ませたり、様々な工夫を施した。

それらの道の一部は、エインタートへ発つ日に師匠らから賜り、お守りのようなものとして持って行ったが、もし本格的に館の古書を修復するのであれば、この部屋にある道も持って行かねば満足な作業ができない。

(どうしようかな・・・)

珍しい道に騒ぐルーたちを眺め、悩む。

「アニエス様はどうして修復士になられたのですか?」

「え?」

ネリーに尋ねられたことに、アニエスは咄嗟に答えられなかった。

「だって、王様ってほんとは働く必要ないんですよね? 何かきっかけがあったんですか?」

「あ・・・はい」

そのきっかけは、つい最近まで忘れかけていたことだ。そのためすぐに話が出てこなかった。

「――小さい頃、レギナルト兄様がうっかり私の本に紅茶を零されたことがありまして、それで、汚れを取ろうとして、その、かえってひどい狀態にしてしまいまして」

例の、ファルコが紋章で本を水洗いした事件である。

「それを知った父様が、私を學院の古書修復部に連れて行ってくださったのです。そこで本が元通りに修復されていく工程を見て――しました。私も、この方々のようになりたいと思ったのがはじめです」

その時の衝撃とだけは鮮明に覚えていた。

火で炙られた表紙を張り替え、紅茶の染みのったページを白く戻すまでには數週間かかったが、アニエスは父にせがんで毎日通い詰めては、日が落ちるまで作業を見學した。見ていてまったく飽きなかった。

その後、學院に通い出したのも工房に弟子りすることが目的で、毎日授業が終わると図書館の奧へ駆け込み、師匠らに學んでいた。それがその頃のアニエスの至福の時間であったのだ。

おかげでろくに友人もできなかったが、後悔はない。

「へー」

ネリーらは相槌を打っただけで、それ以上の想は特に出なかった。なんてことはない、これも世間話の一つに過ぎない。

しかしアニエスのほうは思い出を話すうちに、心の整理ができた。

(やはり持って行こう)

萬力など多重量のある道も、大柄なファニがいれば問題ない。

「そろそろグレーテ姉様へご挨拶へ行きましょう」

は夜にまとめることとし、先に姉のもとへ向かう。

グレーテは明日に向け自室で準備をしているらしい。式當日は主役の花嫁と會話する時間はあまりないため、今日のうちに祝辭を済ませてしまうのだ。

先代王の子供たちのための宮殿は男で建が分かれており、姉の部屋はアニエスの部屋から階段を昇ったところにある。

らが慌ただしく出りする部屋を覗けば、虹のドレスを著たグレーテが中央にいた。

最後の裝直しをしているのだろう。取り込み中のようであるためアニエスは出直そうかと思ったが、

「いいからおりなさいな」

ちょうどやって來た王太后、ディートリンデに背後から聲をかけられた。

ふくよかな老婆の気配を、護衛のファニらもなぜか察知できなかったらしく、大仰に飛び退く。

アニエスは悸を押さえ、王母へ最敬禮をした。

「お、お久しぶりです。王太后におかれましては、お変わりなく・・・」

「ええ」

ディートリンデは萬人を包み込むような、慈の笑みを湛えている。

「お母様には會えたのかしら?」

「え?」

アニエスはきょとんとしてしまったが、すぐその言葉の意味を悟った。

エインタートには亡き実母の痕跡がたくさん殘っている。領民たちと話すたび、過去の彼と邂逅した気分になる。

城の賢母は子が何も言わなくともすべて知ってくれているのだ。

「・・・はい」

頷くとディートリンデはまた嬉しそうに微笑み、グレーテのもとへアニエスの背を押して行った。

「グレーテ姉様、このたびはご結婚おめでとうございます」

王太后まで現れたことでドレスの最終調整はいったん休憩となり、アニエスは祝いの言葉とともに、用意してきた小箱を渡す。

「え~ありがとう! なぁにこれ?」

幸せが聲にも表にもれ出ている。

晴れやかな姉の琥珀の瞳が、眩しかった。

「髪留めです。クムクムというエインタートにある花の形をかたどっております」

あらかじめ王都の彫金師に注文しておいたものを、昨日引き取ってきた。あえて派手にせず、普段使いのしやすい品に仕立てた。よって々インパクトには欠ける。

「大したものではありませんが」

「ううんっ、嬉しいわ。大変なところ來てくれてありがとう」

「いえ。むしろ來てしまったことで、何かご迷をおかけすることになるかもしれません」

「大丈夫よ。あなたが浮かないような派手な式にするから。ほら見てっ」

グレーテは虹のドレスを示す。

ウエストから下へ流れるひだの一つ一つが違うに染められている、見たこともないデザインだ。

一般的なスヴァニルの花嫁裳は、著る者の誕生月によってを変える。古來よりの占いで、生まれ月ごとに幸運とされるが指定されているのだ。

しかしグレーテはすべての月のをドレスに取りれたらしい。

「自分でデザインしてみたの。シャルも一緒に考えてくれたのよ。披宴の會場も、派手に飾ってあるから安心して隠れていなさい」

「・・・ありがとうございます」

思えば、蕓家どうしの結婚式が地味に済まされるはずがない。それに気づいてアニエスはし気が楽になった。

「あちらの花も披宴の演出か何かですか?」

ついで、最初から気になっていた、部屋の隅にこんもりと盛られた紙の花山のことにれる。花をかたどるらかな紙は、珍しい品であるようで、金箔でも漉き込まれているのか、窓からのを虹に照り返していた。

「あれは今朝、どこかの困った兄様が部屋の前に置いていったのよ」

よねえ、とグレーテは嬉しそうにを揺すっていた。

一緒に置いてあったというカードを見せてもらうと、いつかどこかで見たような暴な字で、祝いの言葉が記されていた。

(ファルコ兄様・・・城に忍び込んだのか)

どのように警備の目を盜んだのか見當もつかない。それでなおさら、カイザーが頭を抱えていたのだろう。

(父様のお墓參りも兼ねていたのかな)

者は放者なりに、家族を大事にしている。できればアニエスも直接會いたかったが、それはまた兄の気が向く時を待つしかない。

祝いの品はからだけではなく、臣下や地方貴族たちからも屆いており、その一部が部屋に積み上げられていた。いずれも劣らぬ一品ばかりだ。

その中で、グレーテは「あ、そうそう」と思い出したように、繊細なネックレスの収められた小箱を手に取った。

「ローレン公爵からのお祝いに、『贈りはアニエス様とともに選びました。次は私たちの結婚式に貴様をご招待します』って書いてあったんだけど、あなた公爵と結婚するの?」

アニエスの顔から急激にの気が失われる。老母は、あらまあと楽しそうに丸い頬に両手を當てた。

「・・・もしや噂の出どころはこちらでしょうか」

確認後、アニエスは公爵の悪い冗談を懇切丁寧に一つの取りこぼしもなく訂正した。

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