《アナグマ姫の辺境領修復記》52.アナグマ姫
レギナルトにとって、人生とは非常に愉快なものであり、世界はいつだってり輝いていた。
遊びは楽しい。勉強は楽しい。喧嘩もスポーツもイタズラもなんでも楽しい。特に、思考が予測不能な三つ上の異母兄と、神の紋章は何より彼を魅了した。
人生をつまらないとぼやく輩が彼は信じられなかったし、そんなことをほざく者にはすかさず紋章を勧めた。それ以外にも、彼が認めた愉快な者は軒並み仲間に引きずり込んだ。
よってレギナルトの周りは常に騒がしく、忙しく、あまりひと所に留まってはいられない。
だが幸か不幸かその日はたまたま暇ができ、久しぶりに王城の談話室で紅茶を啜りたいような気分になったのだ。
すでに人している兄たちはファルコを除き、晝間からこんなところで休憩していることはない。彼のたくさんいる姉か妹でもいれば暇潰しの話し相手になってやろうと思っていたのだが、生憎、談話室にはその時、誰もいなかった。
かわりに、テーブルに分厚い本が一冊置き忘れられていた。
「《死後の追想》? なんだこれ」
獨り言ち、椅子に腰かけ試しに最初の數ページをめくってみた。
古の哲學者の死生観やら何やらが書かれているようである。
「・・・アニエス辺りのか? 小難しいモン読んでんなあ」
皆が集まる時にはいつも部屋の隅に収まり、大きな本を盾にして気配を殺しているい妹の姿が真っ先に浮かんだ。他にこんな本を読みそうな者は思い當たらない。
確かまだ九歳ほどであったと思うが、たまにタイトルを覗く限りでも、あまり年齢にそぐわぬ本ばかり選んでいる。
もっと夢あふれる語でも読めば良いのに、と十六歳のレギナルトは常々思っていた。
「・・・つまんね」
十ページまで我慢したが、だめだった。
レギナルトという人間は、ひとたび興味を失くすと、同時にそれに対する意識が一切消えてしまう。そこでいつもの癖で雑に本を放り捨て、テーブルの紅茶を倒してしまった。
「っ、やべ!」
気づいた時には手遅れだった。
まだカップに十分殘っていた茶のがページに浸し、慌てて袖で拭ったが、ありありとシミが殘ってしまった。
「あー・・・どうすっかな」
完全に己の過失で妹の持ちを汚したとあっては、普段は傍若無人の彼もさすがにバツの悪さを覚える。
「どうした?」
「うおっ」
そこへなんの前れもなく、肩の上に何者かの顔が現れ、レギナルトは飛び退いた。
幸か不幸か、それはやはり王城にいるのが珍しい、彼の尊敬してやまない兄ファルコであり、ゆえにレギナルトはすぐに舞い上がった。
「ファル兄! ちょうど良かった、聞いてくれよ! これ、アニエスの本に紅茶こぼしちまってさー」
失敗話でもつい、うきうきしてしまう。
彼の素晴らしい兄はこういう時、まどろっこしく悩みはしない。
「汚れたなら洗えばいい」
「さっすがファル兄!」
結果、彼らは兇行に及んだのである。
「すいませんでした!」
兄二人は誠心誠意、謝罪した。
一方、部屋にずたぼろになった本を屆けられた九歳の妹の、眠たげな瞳にはじわじわ涙が溜まっていく。
(お。泣くか)
そういえばこの妹の泣き聲は聞いたことがない。
赤ん坊の頃ですら、ファルコに付いて見に行った時には大抵、アニエスは寢ているかぼうっとしているかのどちらかで、今も昔も空気のように大人しい。
謝罪の気持ちもいつしかそっちのけで、の珍しい生態を見るような思いでレギナルトは妹を観察していた。
しかし、
「・・・お屆けくださり、あり、ありがとうございます」
震える聲で、妹がらしたのは泣き言ではない、謝意だった。
「本を、お、置き、忘れていた、私のせい、です。兄様方の、お手を、煩わせ、て、申し訳、ございません」
レギナルトは意味がわからなかった。
泣き喚かれて、責められて、し落ち著いたら機嫌取りに遊んでやれば良いかと思っていたのが、理不盡な謝罪をけたのだ。
およそ九歳の子供が取るべき態度ではない。
ひどい卑屈だ。健全な神にはあるまじきことだ。その衝撃が、不愉快さが、レギナルトの場合は激しい怒りに変わり一気に沸點へ達した。
「なんっっで謝るんだっ!!」
彼の辭書に我慢の文字はない。の噴き出すがまま、妹に噛みつかんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
「怒れよっ!! 泣けよっ!! お前はそんなこともできないのかっ!?」
七つ上の男の本気の怒りをぶつけられたアニエスは真っ青になり、全がくがく震え出す。
だがなおも気の済まない弟の首っこを、すかさずファルコが摑まえた。
「待て待て。お前が怒るのはちょっと違うと思うぞ?」
「いいやっ、こいつが腐ってる!」
「ん、外で頭冷やそうな」
その場はファルコに引きずられうやむやになったが、これを境にレギナルトはアニエスの言がことごとく癇に障るようになってしまったのである。
◆◇
それは學院でのある日のことだった。
ファルコが城を出て行ってからしばらくし、大好きな遊び相手を失くしたレギナルトは、さらに紋章を布教し同志を増やすべく、學院の卒業後に教員の道を選んだ。
溌剌とした好奇心に満ちる學生たちとれ合える仕事は、レギナルトのによく合っていた。年もさほど離れているわけではないため、彼の授業は師が弟子に教えを授くというより、兄が弟妹たちとじゃれ合いながら新しい遊びを教えているようなものだった。
學生の誰もがレギナルトの天を衝く怒鳴り聲を恐れつつも、実技が多くわかりやすい彼の授業はなかなかに人気を博しており、授業の外で新たな紋章開発のために起ち上げた研究クラブには數十人に及ぶ學生が所屬していた。無論ほとんどが自主的に集まった者たちであり、中には學院の外部の人間もざっており、レギナルトが強制的に引きれた者は妹のコルドゥラを含めて數えるほどしかいない。
ファルコを失っても彼の人生は充実していた。
ただ一點、視界の端に時折映る気な存在を除いては。
それが見えるたび、どうしても腸(はらわた)が疼く。
(お?)
放課後、學院の階段を駆け下りていたレギナルトは、階下に妹の姿を見つけ、思わず足を止めた。
今年學したアニエスだ。十三歳の彼は周りの學生たちよりいくらか年下であるが、大人びた見た目をしているため、さほど違和はない。
だが、一人だけ喪に服しているかのように全黒ずくめの格好をしているのが、王城でも學院でもやはり浮いている。
いつも本を抱え、ろくに自分から口を利かない気な娘に、普通ならばあえて関わろうとする者もなかろうが、王である者を周囲が捨て置くことはない。
レギナルトが見かけたその時も、アニエスは數人の貴族と思しき學生らに引き止められていた。
「これから古典學の課題を皆で取りかかろうと思っているのですが、よろしければ殿下もご一緒にいかがでしょう?」
和な子學生がいかけている。アニエスは進行方向へ足を一歩踏み出した態勢のまま、にべもなく対応していた。
「その課題は提出いたしました」
「えっ、もう?」
うっかり驚きの聲がれてしまう彼らを目に、「失禮します」とアニエスは立ち去ろうとする。それを別の男子學生が慌てて止めた。
「さ、さすがは殿下っ。でしたら我々にぜひ、ご教示願えませんか?」
「・・・申し訳ございませんが、この後は予定がありまして」
斷りながら、じりじりと半歩ずつ足を進めていく。
「この時間であれば、まだ先生もいらっしゃるのではないでしょうか。そちらに質問されるほうが、私などの考えをお聞きになるより有意義かと思われます」
取り付く島もなく彼らを振り切る後ろ姿に、レギナルトは我慢ならなかった。
「そうじゃねえだろ!?」
殘りの段差を飛び降り、學生たちを蹴散らして妹の襟首をふん捕まえる。
「何がユーイギとかそういう話はしてねえよ! こいつらは、要するにお前と仲良くなりてえって言ってんだろうが!」
耳元で怒鳴ってやれば、アニエスは肩を竦めた。
「・・・課題をお手伝いすればよろしいのですか」
「それはやめろ」
つい飛び出してしまったが、レギナルトも王家の名だけに群がる輩の相手はしない。ただアニエスの斷り方が卑屈に聞こえ、許せなかったのである。
肩越しに軽く睨んでやれば、學生らは逃げていった。それに舌打ちし、改めてレギナルトは妹への説教を始める。
「學して何か月経った? まだまともな友達もできねえのかよ。一人でいるから、ああいう下心丸出しの奴らに絡まれんだろうが」
「・・・ご心配いただかなくとも、大丈夫です」
「あぁ?」
軽く凄むだけでアニエスはこまる。泣きべそをかいていた九歳の時から、ほとんど何も変わっていない。
その態度がレギナルトは不愉快で仕方がなかった。
「――お前、俺の授業を取れ」
「え?」
唐突な指令は、単純にアニエスを困させる。
「クラブにもれてやる。行くぞ」
腕を摑み強引に連れて行こうとすると、こまるばかりだった妹が、急に両足を突っ張って抵抗した。
「む、無理ですっ」
「無理なことあるか!」
「無理、ですっ。よ、予定が、ありますっ」
「どうせ本読むくらいの予定だろうが! ちっとは外に出ろ!」
レギナルトが見かけるたび、アニエスは大抵、一人で本を読んでいる。學院でも王城でも同じだ。
読書が悪いというのではない。學びは大事だ。だが知識をれるばかりで、それを活用しないのでは意味がない。
なにより、読書ばかりでは人生つまらないではないか。
「ち、違いますっ」
だが、アニエスは予想外にしぶとく抵抗した。
痺れを切らしたレギナルトが、いっそ擔いで連れ去ろうかと考えた時、黒いローブの下の腕がすり抜け、アニエスは兎のごとく逃げていった。
「あっ、おい待て!」
殘されたローブを放り捨て、レギナルトは即座に追った。
片や二十歳にもなった青年と、十三歳のの勝負だ。紋章を使わなくとも、力と筋力が余裕で勝る。
だが校舎を飛び出し、噴水のある庭園に出たところで、レギナルトの前に年子の妹、コルドゥラが頭上から舞い降りた。
「はい止まってーっ!」
「邪魔すんな!」
「するわよ。妹追っかけ回して何やってるの?」
妨害されている間に、図書館の中へアニエスは逃げ込んでいく。
やはり用事は本か、とレギナルトはますます腹が立った。
「どけコルドゥラ! なんとしてもあいつに紋章仕込んでやる!」
「強制勧はやめなってば。アニエスはアニエスでやりたいことがあるみたいよ?」
「どうせ本に齧り付いてるだけだろ!」
「それがそうでもないみたい。フィーネ姉様から聞いたんだけど、アニエスは図書館の修復士に古書修復の仕方を習ってるんですって」
「古書修復ぅ?」
図書館を仕事場とする彼らの存在を、レギナルトも知らないわけではなかった。書庫のぐらに籠り黙々と作業をする彼らが、口さがない學生たちの間でなんと呼ばれているのかも。
「じゃあ何か? 王城じゃ部屋で本と一緒に引き籠ってるあいつは、學院じゃ書庫に引き籠ってひたすらカビ臭い本をいじってるわけか?」
「それが楽しいんでしょ」
「そんなわけあるか!」
彼には到底信じられない。
もし彼が人生に楽しみを持っているのであれば、いつ見ても寢惚けているような灰の目をし、くすりとも笑わないでいるわけがない。
故なく己を卑下し、卑屈に背を丸め、いかにも世間に申し訳なさそうに日を歩くはずがない。
よってレギナルトは図書館に突撃しようとしたのだが、その場はコルドゥラに止められ、り口で騒いだことを年嵩の司書にまでたしなめられ、引き下がらざるを得なかった。
翌日も、放課後にレギナルトはアニエスを廊下で見つけたが、今度は聲をかける前に先手を打って逃げられた。
「なっ、おいアニエス!」
大聲で呼ぼうが、振り返るのは周りの學生だけだ。
當人はを嫌う夜の獣のように駆けていく。
その姿に、ついにレギナルトの怒りは頂點に達した。
「――こんっっのアナグマがぁっ!!」
驚き立ち止まったアニエスは、この日から《アナグマ姫》となり、六番目の兄にまともに名を呼ばれなくなってしまったのだった。
◆◇
「――」
瞬きをすれば、特に思い出したくもないことまで芋づる式に思い出した。
アニエスは部屋の隅のレギナルトを窺いながら、話を続ける。
「本を汚されたことはし落ち込みましたが、そのおかげで古書修復という仕事に出會うことができました。私は、兄様を決して嫌っているわけではありません」
「嫌いじゃねえけど苦手ってか? 同じだろうが」
珍しく自嘲している。
図星のアニエスは否定せず、嘆息した。
「・・・兄様が、昔から私をどうにか楽しませようとしてくださっていたことは、わかっております」
レギナルトにアニエスは嫌われている。
だがこの兄は年の離れた妹に嫌がらせをするほど底意地悪くはない。むしろ、レギナルトは無邪気過ぎるほどの人だ。
本を汚されたアニエスに怒れと言ったのは、それが當然の権利であるから。
紋章を無理やり覚え込ませたのは、そのおもしろさを共有したかったから。
本に悪意はないのである。
「ただ、大変申し上げにくいのですが、兄様の楽しいと思われることは、私にとってはあまり、愉快なことではなかったのです」
當時の兄の心遣いは正直に言えば迷で、楽しさの押し付けが最も苦手だったアニエスは結局いつも逃げるしかなかった。
その本音をやっと兄の前で口にできる。
「兄様には、私があらゆることを我慢しているように見えたのかもしれませんが・・・確かにそういう時期もありましたが、私は私なりに、楽しく過ごしているつもりです」
「しけた面でよく言うぜ」
兄の口調にはまだ苛立ちが殘っている。
「領主なんてガラじゃねえくせに」
「はい・・・かなり、無理はしています。ですが、なんとか持ちこたえられています。レギナルト兄様のおかげです」
「あ?」
アニエスはリウをソファに置き、レギナルトの前に立つと、に手を當て頭を垂れた。
「私に力を授けてくださって、ありがとうございます。すべて、兄様のおっしゃる通りでした。一人で本を読むばかりでなく、私はもっと人に関わるべきで、もっと様々なことに、挑戦するべきでした」
もしレギナルトの強引さがなければ、アニエスが紋章を習得することはなかっただろう。
王家の子ではないかもしれぬという負い目を勝手に背負い、勝手に自重し、恐していた妹はさぞ歯かったに違いない。だが、そのことごとくを気にらないながらも、レギナルトはアニエスと関わることを諦めないでいてくれた。
それが今、確かにアニエスの救いとなっている。
レギナルトは妹の黒い頭をまじまじ眺め、やがて得意げに笑みを浮かべた。
「やっとわかったか。そうだとも、俺はいつだって正しい」
「・・・さすがにそこまでは、申せませんが」
「お? やる気かアナグマ領主」
「何もいたしません」
実を言えば、アニエスはレギナルトに初めてアナグマと呼ばれた時、心で嬉しかった。
たとえ罵倒の言葉であったとしても、尊敬する図書館の古書修復士たちと同じあだ名で呼ばれることは、彼らの一員であることを周囲に認められたかのように思えたのだ。
だからアニエスは、あだ名が広まろうともさして困りはしなかった。
そして今では、國中の者がほんのしのを込めて、そのあだ名を呼んでくれる。
レギナルトの言は不思議と良い結果を導き、確かにある意味では正しかったと言えるのかもしれない。
だが兄をつけ上がらせると後が面倒くさい。結局レギナルトは不機嫌でも上機嫌でも厄介なのだ。
「異世界人の調査が終わるまでは王都にいるんだろ? 今夜一杯付き合えよ」
「それは、遠慮させてください」
「お前やっぱ俺のこと嫌いだろ」
「・・・苦手ではあります」
今後ともほどほどの距離で、アニエスはこの兄と付き合っていきたいと思った。
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