《アナグマ姫の辺境領修復記》53.調査結果
ユカリの調査は晝に一度休憩となり、別室からコルドゥラらと共に戻って來た。
晝食は研究室で手配していたサンドイッチが食堂から運び込まれ、アニエスも相伴にあずかり、現時點で判明したことを聞く。
「たぶん、ユカリは第三世界の十五軸あたりから來たんだと思う」
アニエスの対面のソファに腰かけ、ハムサンドを齧るコルドゥラはもう大の見當をつけてしまっていた。
「これまで第三世界からやって來た異世界人は二人。ユカリの話から察するに、前の二人の中間の時代から來たんじゃないかしら」
異世界研究者は、これまで把握できている各異界を番號で整理している。また同じ番號の世界から來た者でも、國や時代が変わればほとんど異世界レベルで文化が異なることから、彼らの時代區分や地域をもとに実際はコルドゥラが口にしたよりもさらに長々しい數字を後に続けて、異世界人たちの故郷を座標軸のように表す。そうして、研究者たちは目に見えない世界のことをどうにか把握しようと努めていた。
門外漢のアニエスや異世界人のユカリにとっては、そんな分類方法などさして重要ではない。一番に気にすべき問題は、かつて同じ世界から來た者が帰ることができたのか否か、に盡きる。
「事実だけを言えば、第三世界の人間が元の世界に帰った記録はない」
コルドゥラは隠さず告げた。
咄嗟にアニエスが隣を見やれば、の端にパン屑を付けている異界のが固まっていた。
喚きも騒ぎもしない。ただまっすぐコルドゥラを見つめ、どういう反応もできずにいる。
「だからって、絶対に帰れないとは言えない」
アニエスがかける言葉に迷っていると、コルドゥラは明るく続けた。
あからさまに安堵する者たちに、彼は茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。
「先に言ったでしょ? レギー兄が世界を繋げられる紋章を作ってくれたって」
「あぁ・・・」
件の兄は、一度授業のため席を外したものの、わざわざ戻ってきて晝食を共にしており、今はユカリに関する走り書きの調査レポートを読んでいる。
「最近わかってきたんだけど、世界の境界線っていうのは、こういうふうに波打ってるものなのね?」
コルドゥラは両腕を顔の前に平行に掲げ、うねうねと蛇のようにかしてみせる。
下にある左腕が山型にしなり、上にある右腕が谷型にうねると、境界線を模した左右の一部が接した。
「境界線が重なり合った時に生じるのが《異界の門》という現象。ぴったり重ならないと出ないから、これは數年から數十年に一度のペースでしか起きない。でも異界の門が出るまでいかなくとも、世界の境界線は定期的に近づく瞬間があるの。要はその時を狙って、人為的に門をこじ開けようって話なのよ」
「それが紋章でできると?」
「功例もあるのよ。紋章の祖である異界の大賢者様がその方法で帰ったんだから。ぃやー、二百年かかってやっと彼に追いついてきたってじよね。レギー兄の執念に謝だわ」
「全力で崇め稱えろ」
レポートを読み終えたらしい兄がここで口を開いた。
「異界の門をこじ開けるには紋章だけじゃ足りねえ。聖槍が必要だ」
「聖槍? ・・・というと、デュオニス兄様に授けられた、あの?」
もとはこの世界に紋章を伝えた大賢者の持ちで、霊の力が宿っているとされているその槍は、戦時中にスヴァニル王國を幾度も救ってくれた。
代々、武功一等の戦士に褒賞としてけ継がれ、平和な世の現在では先代王ニコラスの言により軍部責任者のデュオニスが所有者となっている。
アニエスも紋章の祖たる大賢者の伝記は読んだことがあるが、聖槍が異界の門を開く鍵となっていたことは、初めて聞いた。
「世界を繋ぐ方法の詳細について、大賢者が殘した手記ってのを俺の仲間が見つけてな、お前のお師匠様方に修復を頼んだわけだ」
「えっ」
文字通り、アニエスは目を剝いた。
大賢者がいたのは二百年以上の昔。さらにスヴァニル史上一位二位を爭うほどに有名な人の手記となれば、その貴重さは計り知れない。
「どっ・・・い、今、それはどこにっ」
腰を浮かせ、思いきり食いつくアニエスをレギナルトはにやにやしながら眺めている。
「先月、カイ兄に持ってかれた。國寶級のもんだから王城で管理するってよ」
「・・・いつ見つかったのですか」
「グレーテの結婚式の時には手元にあったなあ。古書が大好きなお前にもぜひらせてやりたかったんだが、あーあ、あの時俺を避けてなきゃなあ?」
「っ・・・ぅ」
アニエスは死ぬほど後悔した。あるいは辺境伯就任を決めた時よりも、深く深く悔いていた。
「だ、大丈夫? アニエスさん」
「カイザー兄様にお願いすればきっと読ませてもらえるわよ」
ショックで丸まる背をユカリは思わずさすってしまい、コルドゥラは気に勵ました。
しかし、それだけ貴重な文書であれば、ただ読みたいだけでは済まない。
(・・・許されるなら私が修復したかった)
書をじっくり鑑賞し、たっぷりれ、修復後の最初の読者になるという至上の特権を、たとえ何を犠牲にしても味わいたかった。だがそれはもう永久に葉わぬみなのだ。
絶に墮ちた底では、兄の非な嗤い聲だけが虛しく響いていた。
「悪いけどアニエス、話を続けていいかしら?」
「・・・はい。どうぞ」
すぐに頭を切り替えることは難しかったが、ともかくも暗い顔を上げる。
「ユカリを帰すのに必要なものは、紋章と聖槍。道はそろってる。そこで最も重要になるのが、座標よ。彼が出て來たのと同じ門を開かなければ、元の場所には帰せない」
事は元の世界にとにかく帰してやれば良いというだけでは済まない。
異世界人はあらゆる時代のあらゆる地域からやって來る。そこを無視して帰すのは、この世界で荒野に放り捨てることとなんら変わりはないのだ。
「門が現れたのは、例の魔王が寢ていたところの上空なのよね? もっと正確な地點は、現地で世界の境界線の波長を測定すれば、ほぼ完璧に割り出せるはず。ただし人為的でも異界の門を開くには、境界線がある程度近づいている時でなければならないわ」
「境界線が近づく時というのは?」
「境界線の揺らぎには周期があるの。世界によって周期はまばらだけど、第三世界の場合、々な論文結果を統合すると、同じ座標が近づく時はおおよそ一年と見るのが妥當ね。もちろんあらためて測定は必要だけど」
「つまり、ユカリさんが帰れるのは早くとも一年後、ということですか?」
「そういうことになるわ」
アニエスは隣を見た。ユカリが今の話を理解できたか確認するため覗き込むと、彼は途方に暮れたような顔をしていた。
もしかすると、もっと早くに帰れると思っていたのかもしれない。
「一年って・・・そんな長く、わたし、どうしてれば・・・?」
一週間ならば鈍になり耐えられた。だが家族も友人もいない、寄る辺のない場所でさらに季節が巡るまで耐えろと言われれば、いくら帰れると言われても揺せずにいられない。
「もうし早くはできないのですか?」
ユカリのかわりにアニエスは希を申し出てみたが、コルドゥラには難しい顔をされた。
「境界線が離れている時にこじ開けると、誤差が大きくなる可能が高いわ。それでも元の世界に帰れるならまだ良いほう。最悪の場合、どこでもない世界の狹間に落ちてしまうかも」
「そんなことがあるのですか?」
「あり得ないことなんてないのよ。――ううんと、調子良く喋った後で今さらあるけど、きちんと説明するとね? 異界の門をこじ開けるのは確立された技ではないの。だってまだ見つけたばかりなんだもの。理論上は可能、だけど実証データはほぼないに等しい。一年っていうのはほんとのほんとに最短。安全を取るなら、もっと何十年も検証を重ねなければならないことよ」
コルドゥラはを乗り出し、ユカリをまっすぐ見つめた。
「あのね。私たちは研究者だから、あなたと協力して実証試験をしたい。それでもあなたのの安全を考えると、どんなに急いでも一年が最低限のラインなの。しかもそれだけ待ったって危険のほうがまだまだ余裕で大きいわ」
「・・・」
「ユカリ、あなたには選択の権利がある。スヴァニルでは異世界人でもめば國民になれるの。あなたと同じ世界から來た二人は、そうして生涯を終えたわ。一番のみを諦めて、危険に挑まない生き方を選ぶこともできる」
コルドゥラの言葉は酷なようで思いやりに溢れている。ユカリを子供とは侮らず、厳しい現実を突きつけた上で選択させる誠実さもあった。
しかし、急である。
アニエスには、ユカリのますます混してゆく心が手に取るようにわかった。何も知らなかったところに報を詰め込まれ、いきなり人生を大きく変える選択を迫られるきつさは経験したばかりのことだ。
「今、すべてを決めろということではありません」
肩に指先でれ、混線しているユカリの注意を自分のほうへいったん向けさせる。
「狀況を整理しましょう。まず、元の世界に帰る方法はある。ただし、早くとも一年後。それまでに、あなたは危険を冒して元の世界に帰るか、安全を取りここに殘るかを選べる、ということです」
「・・・は、はい」
こくこくとユカリは頷く。
「これからゆっくり、よく考えて決めてください。どちらを選んだとしても、私たちはあなたを必ず助けます」
方便ではなく、心からアニエスは言い切った。領主として、との枕詞がなくともそれが當然の道であると信じていた。
言い聞かせると、しユカリの混は落ちついたようである。
息を深く吐き出した後、彼はもう一度無言で頷いた。
「ま、帰るかどうかは後で決めてもいいが、それまでどうやって暮らすかは早く決めておけよ」
の頭の整理がなされたところで、レギナルトが年長面で話の続きを促した。
「なんなら學院にるか? カイ兄に頼めば特待枠でれてくれるかもしれねえし、ここなら寮もあるぜ。ついでに紋章教えてやるよっ」
「え? う、あ?」
突然の勧をけ、ユカリは咄嗟にアニエスの影に隠れた。派手な教師に詰め寄られるのはやはり怖いようである。
しかし提案自はさほど悪くはないため、すかさずコルドゥラも賛同した。
「いいんじゃない? 一年くらいなら學院も面倒見てくれそう。もし帰らないことになったとしても、ここで勉強しておけば就職に有利だしね」
「・・・そうですね。ただ、字が読めないのでは苦労するでしょうが」
おそらく兄姉が忘れている部分を指摘すると、年子の二人は「あ」と口を同じ形に開く。
「いいやっ、紋章なら教本が読めなくても使い方は教えられるっ」
「でも資格取るには筆記試験あるからねー」
「問題文だけ読めるようになりゃいいじゃねえか。ちっと言い回しが違うだけで出題される容は毎回決まってんだしよ。そんくらい覚えられるよな? な?」
なぜかユカリが紋章に興味がある前提で話を進めるレギナルトだが、彼はアニエスを盾に取ったまま、ぼそりと返す。
「・・・異世界に來てまで勉強したくねー、です」
「あぁ? なんだって?」
単純に聞き取れずさらに詰め寄る兄へ、アニエスは穏便にユカリの意向を伝えた。
「んー、學院が嫌なんだと勤め先が必要になるけど」
やや苦笑気味に、コルドゥラが話を続ける。
「基本的には異世界人にも自活してもらわなきゃいけないから・・・まあ、一年くらいなら私が面倒見たっていいんだけど。ユカリ、あなたは何かしたいことある?」
ようやくまともに意見を求められたユカリは、おずおずと顔を出した。
「もしかして、アニエスさんのところにいるのは、なし、なじですか?」
「え?」
いちばん驚いたのはアニエス本人だ。ユカリの中で、自分が選択肢に殘っていたとはまさか考えてもいなかった。
「私のところ、ですか?」
「だ、だって、同じ場所からじゃなきゃ帰れないんでしょ? だったらしでも近くにいたほうがって思うし・・・あんまり、知らない人ばっかりなとこ、嫌だし・・・」
かなり消極的な理由だが、言われてみれば自然な考え方でもある。たった一週間の違いであるが、今日訪れたばかりの王都よりもエインタートのほうがユカリには馴染みのある場所ということになるのだろう。
しかし、手放しで迎えられるような場所でもない。
「先にお話ししたとおり、私の治めるエインタート領は復興途中で、何かと不便な土地です。つい最近も災害が起きたばかりですし、魔や獣もたくさんいる危険なところです。王都のほうがよほど住み良いと思いますが・・・」
「それは、そうなのかもだけど」
ユカリはなかなか納得したそぶりを見せない。
すると、レギナルトが深々と溜め息を吐いた。
「アナグマぁ。お前は対人がほんとに長しねえなあ」
「・・・なんでしょうか」
「つまり、そいつはいちばん信用できるお前のところにいたいって言ってんだろ」
「・・・単に、最初に會ったのが私だったというだけでは」
「お、言い逃れか? 見捨てんのかあ? だったら俺が面倒見てもいいのかあ?」
「そんな無慈悲なことは――いえ、おまかせする方はあの、考したいと思いますが」
「ちょっとずつ口がるようになってんな?」
いささか困が過ぎ、アニエスも焦ってしまった。
咳払いをして気を持ち直そうとしたが、そこで再び袖を引かれる。
「だ、だめですか?」
「・・・だめという、わけでは」
を一人けれることが難しいのではない。
やめたほうがいいとは何度も言った。いくらでも汚點をあげつらった。それでも彼がエインタートにいたがる理由はなんなのか。
帰り道の近くだからということや、自の人などよりも、アニエスはどうしても土地の宿命のようなものをじてしまう。
(エインタートは他に帰る場所のない人をよく吸い寄せる)
偶然なのか、それとも人知の及ばぬ力が働いている必然なのか。
いずれにせよ、結局自分はそんな人々を拒むことができないのだ。
(・・・《人生とは風に踴らされる落葉のようなもの》。私なんかは、特にそうだろう)
本の一節が頭をよぎった時點でアニエスは白旗を上げた。
これから調査結果をコルドゥラが王城へ上げ、最終的な判斷を下されるだろうが、おそらく重要人とは見なされないユカリはすぐに解放され、できる限りそのみを葉えられることとなるだろう。
アニエスはユカリをどう生活させていくか、手厳しい會計係をなんと言って説得するか、すでに悩み始めていた。
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