《アナグマ姫の辺境領修復記》55.新生活
親も友達もいない異世界に落ち、言われるがまま知らない場所へ連れて行かれ、見知らぬ人々にあれこれされること三日間。
生まれた世界のこと、個人的な報、検査や神鑑定まで行われ、すべて完了する頃には、ユカリはさすがに疲れ果てていた。
「ご協力ありがとう。無事にあなたの滯在許可が下りたわよ」
頭の半分を剃り上げたファンキーな研究者、コルドゥラにそう言われたのが王都六日目の朝。
結局、國王に謁見する機會はなかったが、かわりに滯在許可証を得られた。折り畳める革のケースの中にれられており、見た目はパスポートのようで、それがこの異世界においてユカリの分を証明するものとなる。
コルドゥラや王城の役人から、決して失くすなとよくよく言い含められた上で、首から提げられる紐までつけられた。ユカリはこの世界に來てから、己が極端に子供扱いされている気がしてならない。
この世界の人々にはユカリがよほどく見えるらしいが、それはそれとして一人前の人間として扱ってくれようとする意識はあり、滯在許可の詳細について丁寧な説明もけた。
このスヴァニル王國は分制度のある社會だ。
王、貴族、平民と生まれで分けられている社會の中で、異世界人のユカリは特別措置分とされる。これは帰還の意思を持っている異世界人が、その時が來るまでの間だけ急的に與えられるヒエラルキーから逸した特殊な分であった。
ユカリは彼の生活をサポートする保護監督者を付けられた上で、食住や仕事についてある程度の選択の自由を與えられる。王國では一般の國民と同様に法令遵守を義務付けられ、滯在中は定期的に監督者が行記録を王城へ提出する。
一方で、納稅等の一部の義務を免除される。つまり正式な國民ではないという扱いなのである。もし帰還を斷念し、國民となる場合は新たに手続きを要する。
保護監督者は王城の認める社會的に信用の置ける人であれば誰でもなることができ、ユカリの場合は本人の要通りアニエスが任命された。辺境伯であり王妹である人の圧倒的な信用度を背景に、ユカリの滯在許可は難なく下りたのだ。
なお、ユカリはこれらの説明の時にはじめて、黒ずくめの領主が王であったことを知った。ついでにファンキーな研究員やパンクロッカーのような教員も同様に王族であることを教えられ、奇天烈な世界に來たものだと思った。
このように、コルドゥラや王城の役人たちは様々説明してくれたが、ユカリは説明の序盤から容がうまく頭にってこなかった。
剣と魔法の世界の行政的な話をされたとて飲み込み切れない。ユカリの世界ではまず考えられない異世界人の來訪というトラブルへの対応が、完璧にマニュアル化されていることが改めて驚きで、終始生返事しかできなかった。
「――ま、細かいことはアニエスにその都度相談して? 良いようにしてくれるはずよ」
最後にコルドゥラにそう言われたことで、ユカリは思考をきっぱり放棄した。必要なことは必要な時に覚えるほうが合理的というのが、彼が十六年ばかりの人生で得た教訓である。
國王公認で保護者となったアニエスは、ユカリが研究院でぼうっとしている間に、あちこちに出歩き諸々の事務手続きや己の用事を済ませていた。
いまだ混迷中の領地の主にぼんやりしている暇はない。ユカリの滯在許可が下りると、早々にエインタートへ帰還することとなった。
「すみません。ゆっくり観していただく時間を取れれば良かったのですが」
帰りの馬車の中ではアニエスに謝られたが、ユカリは不満など持っていない。
「別に大丈夫です。あの、レギナルトさん?って人が、學校の中をあちこち案してくれましたから。頼んでなかったけど」
「兄が本當にすみません」
アニエスは重ねて謝罪した。自分が楽しいことは萬人もそうであると信じて疑わない人間に好き勝手引き回される苦労は、彼も十二分に経験してきていることである。
むやみに気を病ませているアニエスの心をよそに、実のところユカリはエインタートの往復路が観気分でいる。
馬車も汽車も飛行船にも初めて乗った。車窓から見る王都の街中には、石とレンガの素樸な風景もあれば、ガラス張りのブティックなど妙に近代的な雰囲気を持つ店の並ぶ通りもある。
また往來を行く人々の格好も多種多様だ。腰に剣を差し歩く傭兵、スーツを著た、アニエスのようなローブを羽織る學生、足元まで隠れるドレスを著て馬車に乗る貴婦人、工場から顔を黒くして出て來る作業服姿の勤め人、髪の短い長い、刺青のあるなし、好きに染め変えられる髪のなど、いまいち格好に國柄が見えず、その中をユカリが故郷の制服姿で歩いていても、さして浮きそうにない。
(変な世界)
アニエスの膝の上で眠り続けている、青いイタチのような生きの額を人差し指でぐりぐりしながら思う。
魔があり、魔法があり、機械があり、工場や、大學があり、人々は王や領主のもとで新聞雑誌を片手にわりあい自由に生きており、異世界人には慌てず騒がずマニュアル対応。
様々な思想文化が混ざり合っているようで混ざり切れていないような、統一のないこの國では、異世界人の自分もさほど疎外を覚えずにいられそうな気がした。
◆◇
「それで、連れ帰って來てしまったんですか」
冷ややかな會計士の眼差しの前で、辺境伯と異世界人はそろって肩をすぼめる。
晝頃エインタートに帰還したアニエスから、執務室で狀況説明をけたレーヴェはいかにも不満そうな顔をしていた。もっとも、彼の機嫌の良い時を知っている者は館のにもいない。
「その、ユカリさんには、來年まで館で働いていただくことで了解を得ています。そのように契約書の作をお願いできればと、思うのですが・・・」
おそるおそる領主が部下に伺いを立てている。
(捨て貓拾って親に飼っていいか聞いてるみたいな)
部屋の隅で大人しくしつつユカリはそんなことを思っていた。
當然ながら人事の決定権はアニエスにあり、レーヴェが否と言うことはない。ただ率直な想を述べるだけである。
「一年後にいなくなる人間を雇いれるのは疑問ですが、それ相応の役に立つのであれば。――承知いたしました。雇用契約書を作するにあたって、彼の業務容はいかがなさいますか」
「ルーさんたちの仕事を手伝っていただこうかと」
「そちらは人を増やしたばかりですが」
領主館では、嵐の際に救援に駆け付けた元エインタート領民を幾人か新たに雇いれ、ようやくルーの負擔が軽減されたところであった。
「他に適當な仕事がないので・・・」
「そうですね。字が読めないのでは事務仕事もさせられませんし、工事や害獣駆除ができるようには見えませんからね」
(・・・ええっと?)
雲行きが怪しくなってきた。ユカリは針の筵に座らされている心地で、冷や汗をかき始める。
この世界にいることを許されたのは間違いない。なのに今になって猛烈な疎外が襲い來る。なくとも、レーヴェには確実に厄介者と思われている。
コルドゥラたちがあまりに歓迎勢であったので忘れていたが、本來自分は役目があって喚ばれたわけでもない、イレギュラーな存在であったのだと、そこでユカリは思い出した。
(もしかして、役に立たないと追い出されることも、ある?)
冗談を知らなそうなレーヴェの目を見ていると、あり得ないことではないように思えてくる。彼の前では、保護者を引きけてくれた時にあんなに頼もしくじたアニエスもなんだか頼りないのだ。
そもそも館での労働は、おそらくそれまでの何もしない客人扱いでは毒舌會計士を納得させられないという理由でアニエスに提案されたものだった。
だが、もしうまく仕事をこなせず、レーヴェにユカリを追い出すのに十分な口実を與えてしまえばどうなるか。
ユカリはバイトはおろか家の手伝いすらまともにしたことがない。かわりに勉強や部活に打ち込んでいたということでもなく、隙あらば怠惰を貪ってきたのだ。
最悪の想像は現実味を伴い頭の中を駆け巡った。
「――ではそういうことで、ユカリさん。明日からルーさんたちと一緒に・・・あの、ユカリさん? 大丈夫ですか?」
どうやら異世界での生活基盤はまだ盤石なものになっていない。そのことに気づき戦慄していたユカリはさっそく雇用主の呼びかけを無視し、會計係に小さく舌打ちされたことに、気づかなかった。
◆◇
翌朝、ユカリは紺のワンピースにエプロンを付け、先輩メイドに外へ連れ出された。
エインタートの春はまだ冷える。ユカリは鼻をすするついでにあくびを噛み殺していたが、彼の教育係をまかされたルーは今朝も大きな水の瞳を見開いて張り切っていた。
「これからお洗濯をします! 改めてよろしくお願いしますね!」
「う、はい」
のむやみな大聲が寢起きの頭に響く。朝からなぜこんなに元気なのか不思議だった。
しかしユカリも寢惚けてばかりではいられない。軽く説明されたハウスメイドの仕事は要するに家事雑事。誰にでもできる仕事とは思わないが、自分より一つか二つ年下であるらしいが働けているのだから、まったく何もできないということはないだろう。
(がんばろう)
眠気を振り払い、ユカリはユカリなりに気合をれた。
連れて來られた館の裏側には井戸があり、目の前に大きなたらいが置かれている。傍には棒の間にロープを張った干し場もある。
「わたしは皆さんのお部屋からシーツを集めて來るので、ユカリさんはたらいに水を溜めておいてください。お願いできますか?」
「水って、井戸から汲むの?」
「そうですよ。絶対落ちないように気をつけてくださいね?」
「う、うん」
「では行ってきます!」
短い説明を終え、ルーは一瞬で走り去った。足の裏にバネでも付いているような機敏さに驚きつつ、ユカリもさっそく仕事に取りかかった。
井戸は車が付いており、桶を底に降ろして汲み上げれば良いようだ。さすがに元の世界で使った経験はないが、見れば大わかる仕組みで助かった。
「深ぁ。え、深すぎない? やばっ」
呟いた聲が薄く反響した。水面は見えづらかったが、ロープを摑みながら慎重に桶を降ろしていく。そのうち、わずかなの揺らぎが見えた気がした。
「汲めた、のか? とりあえず引き上げよう」
慣れない作業の不安から獨り言が止まらなくなっていた。
両手でロープを持ち直し、引っ張ってみる。
「ちょっ!? 重い! 思ったより重い!」
小柄なユカリは全を使わねば、水のった桶を持ち上げることができなかった。スクワットをするようにロープを引っ張ってゆくが、領主館の井戸は極めて深い。
「あ」
ロープが手汗でった。派手な水音が底から響き渡る。
「がんばったのにっ!」
手をばす頃には遅い。すでに息切れし、ユカリは呆然と井戸の底を覗き込む。
そうこうするうちにルーが素早くシーツを集め戻って來た。
「あれ!? まだ水汲めてないです?」
「あ・・・ご、ごめん。重くて、上がらなくて・・・」
しどろもどろに言い訳するユカリに代わり、ルーはロープを取ると、腕の力だけで易々と桶を引き上げ始めた。
「あれ!?」
「これ車付いてるので、そこまで力なくても上がるんですけど・・・あ、じゃあわたしが水れるので、ユカリさんは洗剤をれて掻き回してください」
「ぅああごめん! 非力でごめん!」
「大丈夫ですよー」
申し訳なさでいっぱいになりながら、ユカリはルーが持って來た石けんを指示通りスプーンで三杯れ、手で掻き回す。井戸水は凍えるように冷たかった。
「ぃー・・・」
浸しているのは指先なのに、肘や肩まで冷たさに軋む。
しばらく痺れていると、あっという間にたらいに水を溜めたルーが躊躇なく素手で掻き回してしまった。
シーツを沈め、今度は素足でそれを踏む。ユカリも同じように靴下をいで水に浸かったが、やはりルーのように元気に足踏みはできなかった。井戸の水も朝の空気も彼には冷た過ぎる。
「慣れです、慣れ」
ルーは明るく勵ましてくれたが、慣れるより先に湯を沸かしてれてほしいと思った。
シーツはきれいに洗い、どうにか干すまでできた。その工程でユカリが役立ったところと言えば、シーツの端をそれぞれに持って絞った時くらいのもので、ひょっとするとルーは一人でも軽く終えられたのかもしれない。
(次はっ、次はがんばるっ)
いきなりヒビのり始めた心を保ち、続いて言い渡された仕事は、掃除だった。
「エントランスのモップがけをお願いしていいですか?」
白と黒のタイルが規則正しく並んだ、領主館を象徴する玄関口にモップと水を汲んだ桶を持ってやって來る。水はもちろんルーが汲んでくれた。
これなら力仕事ではなく、だだ広いエントランスにはぶつけて壊すようなも特にないため、できるだろうとの判斷が下されたのだ。
「ここは人の出りが多いので、しょっちゅう掃除しないといけないんです。工事の人たちがどろどろの靴でって來ようとしたら、怒っていいですからね。ちゃんと外で泥を落としてからってもらってください」
「了解です。ここ全部拭けばいいわけね?」
「はい、隅々までお願いします。わたしは二階のお掃除をしてますから、何かあったら呼んでくださいね」
ルーもモップを肩に擔ぎ、階段を上っていった。
井戸の使用はうまくいかなかったが、掃除であればユカリも元の世界の學校でやらされたことがある。
何も難しいことはない。そう思って桶にざぶんとモップを本まで付けてから、はたと思った。
「これ・・・このまま拭いたら床びちょびちょになるよね? モップって、手で絞るんだっけ?」
たまたまユカリはこのタイプの掃除用を使ったことがなかった。さらに悪いことに、不安が支配している頭はおかしな思考回路によく嵌まる。
「いや、雑巾と違ってこれを手で絞ったところで絞り切れない、はず・・・わかった。一回水で濡らして、後から乾いたモップで拭くんだこれ」
特に悪い考えではないように思えた。今はモップを一本しか持っていなくとも、館にはもっと何本もあるはずだ。
結論に至ったユカリは自信を持って、滝のように水の滴るモップを床に置き、端から幾帳面に拭いていった。
ルーの言っていた通り、乾いた泥の足跡がそこかしこにあり、たっぷり水を含ませたモップで拭うと分散した。窓から差し込むが床にできた水面に反し、とてもきれいに見えた。それにやりがいをじ、ますます水をたっぷり浸して掃除していると、背後で鈍い音と短い斷末魔が突如響いた。
「セリム!?」
開いたドアの前で、赤の長のが仰向けに倒れている男の傍にいた。は銃を背負っている。倒れている男は後頭部を押さえて丸まった。
「頭割れたか!?」
「割れてない~・・・」
返答できる余裕はあったが、すぐには起き上がれない。
「うっわ。床びちょびちょじゃん」
続く別の聲は、モップを握り締めて固まっているユカリの斜め上から降って來た。
見上げれば、金茶の髪の年が窓枠に上半を引っ掛け中を覗いていた。目ざとい彼はすぐさま原因たるものを見つけ、同時に狀況も把握してしまう。
「ルー! おいルー! 監督不行き屆きだぜー!」
大聲で二階のを呼び出す。なぜか妙に嬉しそうに、にやにやとしていた。
即座に階上に現れたルーは、まばゆい水溜まりに絶句する。
鈍い音を聞いた時點ですでにわかりきっていたことではあったが、ユカリは再びの失敗を確信した。
「ふ、拭こうと! あとで乾いたやつで拭こうと思って!」
「ここは人の出りが多いんだ。水撒いて掃除するなら表に張り紙とかさ、なんかしとかないと、ああなるじゃん?」
クルツがやっと起き上がり始めたセリムを指す。一杯の弁解は簡単に一蹴されてしまった。
「階段下にはアニエス様の地下書庫があるから水は撒かないほうがいいぜ。軽く拭くくらいにしとけよ」
「そ、それは聞いてない!」
「まあ、普通エントランスでこんな派手に水ぶちまけるとは思わねーもんな」
ケラケラ笑い続ける年の言葉の一つ一つが致命傷となる。
(普通なんてわかんないもん・・・)
だがそう言い返すこともできず、にモップの柄を強く押し付けていた。
「クルツ! 笑ってないでモップ取って來て!」
ルーが怒鳴りつけるも、クルツは屁でもない。
「あんた異世界じゃ貴族かなんかだったの? 別の仕事させてもらったほうがいんじゃね?」
「クルツ!」
「はいはーい!」
ルーにこれ以上がなられる前に、クルツは館の外から回って掃除用を取りに向かった。
「セリムさん大丈夫ですか!?」
ルーは階上から聲をかけ、転ばないように扉のほうへ向かう。それでユカリも気が付き、モップは置いて慌てて謝りに行った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「う、うん。大丈夫、だよ。平気平気」
セリムは笑みを浮かべてとりなす。々の怪我や痛みは彼には慣れたものだった。
だが當人が気にせずとも、失敗した者と失敗させてしまった者は落ち込んだ。
「ユカリさんは異世界から來たんですから、ちゃんと説明しなきゃでしたよね。アニエス様から言われてたのに、わたし・・・」
「ぅああ違うよっ、ルーさん悪くないよ! ほんとっ、ごめんなさいぃっ!」
一度疑問を持ったのに、なぜそこでやめるなり確認するなりができなかったのか。責められないことがかえって居たたまれず、ユカリはなんだか泣きたくなってきた。
「二人ともそんな、気にしなくても」
たちの様子を見ていたセリムは焦って、やや早口に勵ましの言葉をかける。
「俺なんて普段からもっと失敗してるよ」
「セリムは傭兵向いてないからなっ」
背後から無邪気にファニが言い、セリムの笑みは強張った。
「・・・お、俺だって、これでも毎日がんばって」
「向いてないくせにがんばるから失敗するんだぞ」
「うぐぅっ」
セリムはを押さえてうつむき、ユカリのほうへもなからず飛び火した。
ファニはまるで悪気なく、セリムの頭を犬のようになで回す。
「でもセリムは他に向いてることないから傭兵がんばるでいいっ。他の奴はできること探すがいいとファニは思うっ。々やってみればいいんだぞっ」
「々って言っても、ユカリさんの仕事はアニエス様が」
「絞り手伝いほしい言われた。今、アニエスサマ言おう思ってた。お前やってみるか?」
ルーの話を遮り、ファニはユカリに問いかける。
絞りと言われて、ユカリは小さい頃、牧場で牛の絞り験をした思い出が蘇った。その時は大人よりもうまく絞ることができ、牧場の飼育員に手放しで褒められたことも思い出した。
それだけと言えばそれだけのことだが、これ以上ルーに迷をかけるよりは、良いのかもしれない。
「や、ってみようか、な?」
「え!?」
驚くルーを置いて、ファニはさっそくユカリを外へ連れ出す。
「あ、も、もう? 今すぐ行くじ?」
「セリム、ファニはちょっと抜けるぞ」
「えー・・・いいけど、いいのか?」
セリムは首を捻るだけで、新しい仕事容を本當に異世界のが理解しているのか、確認してくれる者は誰もいなかった。
◆◇
白い、小さな花を頭に咲かせた背高草が、一斉に風にそよいでいた。
その白波の中に、ぬるりと長い化けの首が生えている。緑がかった鱗の隙間から羽がちらちら覗き、さらに丸い頭の側面から派手なの特別大きな羽を二枚ほど生やした、見たこともない不気味な生きだ。
「あの魔のを搾るんだぞ」
「聞いてないっ!」
館から遠く離れ、魔が放牧されている森の近くまで連れて來られたユカリは絶した。
リウとは違って人間よりゆうに大きな魔を見ると、この世界で最初に森に落ちた時の恐怖がぶり返す。
「なんで魔!? 牛とかじゃないの!?」
「教えてやらなかったのかよ?」
突如ファニに呼ばれ、ここまでユカリたちを紋章で運ばされたリーンが呆れ顔で仲間をつつく。
「ファニはちゃんと絞りの仕事言ったぞっ」
「それだけの説明で連れて來たら詐欺だろ」
「だーいじょうぶ、むしろ牛より怖いことないよー」
のほほんと言うのは、ファニを通して人手を要請した領民のマリクという青年だった。
化粧品としてエリノアの會社から発売されたニュクレのは、販促モデルを擔當してくれたシャルロッテによる公告や、その他メディアの宣伝効果もあり、それなりに売れ行きをばしている。
よって搾と配送が大急ぎで行われているところであり、現場の人手はいくらでもいればありがたかった。
「あいつらは草食ってるだけで、なーんもしてこない」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
確かに魔の腹の下へ、躊躇なく手をばし瓶の中にを集めている人の姿が草の合間に見える。魔はそれをまったく気にも留めていない。草を食みながら、どこを見ているでもなくぼうっとしている。
「怖がりさえしなけりゃ、簡単にできるよ。最初は俺と一緒にやろー」
「うぇ~・・・本気で?」
獨特なテンポのマリクにわされ、ユカリはいつの間にか空き瓶を持たされていた。
「じゃ、ファニたちは戻るなっ」
「いやもうし見ててやろうぜ」
心配そうなリーンらに見守られ、ユカリはおそるおそる一頭のニュクレの傍に膝を突く。
腹からぶら下がっている突起は四つあり、その手前と奧の一つずつに、黃い塗料で斜線が描かれていた。
「確かー、は印の付いてるやつからしか出ないんだ。印のないやつは偽のなんだって」
「偽の?」
その意味はよくわからなかったが、やるべきことはわかった。ユカリはニュクレの様子を窺いながら、手前の印の付いたに手をばす。生暖かく、や大きさは昔にった牛のにそっくりだった。
「ちょっと待って」
意を決して搾ろうとしたところで、不意にマリクが止めた。
草を食んでいたニュクレの頭を両手で持ち、まっすぐ前を向かせたところで固定する。ニュクレはされるがままだった。
「いいよ。搾ってー」
「? はい」
ぎゅっとを握る。
その途端、ニュクレの口から熱線が放たれた。
「――」
の焼けるような熱風が顔に吹きつけ、ユカリはもちをついた。
「まちがえたー」
地に伏せ、線を避けたマリクはなぜか笑っていた。
教えられた通りにして、教えられていない事態を目の當たりにしたユカリは言葉も出ない。
かわりに、ニュクレの絞りをしていた他の領民たちがマリクを怒鳴りつけた。
「何やってんだ馬鹿野郎っ!」
「ごめんごめんー。印付いてるやつ搾るのか、付いてないやつ搾るのか、久しぶりで忘れたー。ややこしいから搾るほうに印付けてくれたらいいのに」
「るなって意味の印がってんだろうが! 忘れるなら忘れるで毎回確認しろっ! わかったか!?」
「わかったー」
暢気に応じるマリクはまったく堪えた様子がない。
いまだ地面にもちをついたまま、驚愕の表で見上げてくるユカリに笑顔を向けた。
「びっくりした? 顔の前にいなきゃ大丈夫だよ。ほら、印付いてないほうのを搾るんだってさ。やってみよー」
遠くどこまでも続きそうな焼け跡を背景にのんびり喋るマリクと、何事もなかったかのように再び草を食べ始めたニュクレの姿が重なる。
なんにせよ、これを見てしまった後で魔にれることはユカリには無理だった。こんな怖い思いをするならばメイドの仕事のほうが良い。
泣いて謝り、懇願し、案の定な結末に苦笑するリーンによって、早々に館へ帰してもらった。
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