《アナグマ姫の辺境領修復記》60.報集積

本の表紙に張る仔牛革は、一部を薄くしておく必要がある。角の重なる部分や、開閉するためのの部分の革が厚いと、読書に差支えが出てしまうのだ。

あらかじめ本の大きさに切り取っていた革を臺に広げ、アニエスはよく研いだ革すき包丁をあてがい、慎重に表面をすいていった。この時、包丁の切れ味が悪いと革が引っ張られてび、刃の角度が深すぎればがあく。修復士の見習いが一回の作業で革を何枚もだめにしてしまうのは、よくあることだ。

アニエスは王都中の店を探して三つの有能な研石を手にれて以降、この作業が苦手ではなくなった。

必要な場所を薄くできたら、糊を革に塗る。まずは本の背にあたる部分だけに塗った。

三日間重しの下に置いていた本を背が上になるよう萬力に挾み、革をそっと下ろす。布の切れ端で背を上からり、しっかり革を本文ブロックに著させたら、折り丁をかがった時にできた五つのバンドを左右からそれぞれ挾むようにして、紐を強く張る。こうすると隙間なく革を粘著させることができ、背にバンドのシルエットがはっきり浮き上がる。

ある程度糊が乾いた頃、本を萬力から外し、殘りの部分の革にも糊を塗る。この時、表側から濡らした脂綿をあて革に水分を含ませておくと、多糊が乾きにくくなり、作業がしやすい。

薄くした端を表紙の側に折り返し、また花ぎれの裏にも下手なたるみができないよう、慎重に、丁寧に折り込む。この段階の作業が特に神経を使う。糊が乾く前に革を本にらねばならないため、丁寧にと言えどのんびりではいけない。無論、短気を起こしては元も子もない。

正確に、素早く革をることができたら、水気が本文に染みるのを防ぐため表紙の側に板を挾む。また重しを乗せる前に本はらかい不織布で包む。濡れた革は非常に傷がつきやすいため、素のまま置いておくことはできない。

これが乾けば、修復はおおむね終了となる。

◆◇

「王都から速達でーす」

晝前にクルツが手紙を持って現れ、アニエスは本の洗浄作業の手をいったん止めた。

タオルで指を拭い、封を開く。差出人は六番目の兄のレギナルト。エインタートを襲う霊についてアニエスが問い合わせたことへの回答だった。

本文を見ると、學院の授業で黒板に毆り書きされていた茨の棘のような見覚えのある兄の字ではなく、ヤンという書の聞き書きとして幾帳面な文字が並んでいた。

レギナルトは人と話すことを大いに好み、學生たちの質問にいつまでも付き合えるだけの忍耐力がある一方で、大人しく座ってを書くことには耐えられない。よって論文や報告書なども書に代筆させることが多いのだと、以前コルドゥラに聞いたことをアニエスは思い出した。

それはさておき、手紙の容である。

エインタートを襲う霊は、土地を奪われた異民族の怨霊であるかということに対し、『考えうる』というのが兄の見解だった。

『――例えば火が霊を生み出したのか、霊が火を生み出したのか、未だ結論は出ていない。しかし霊と自然とに接な繋がりがあることは確実に言える。貴殿も當然に知っていようが、霊學における《自然》とはこの世に生じた萬を指す。すなわち人間をも含む。ならば《人間の霊》なるものを存在せぬとする論拠はない』

時代がかった文を使い、この後で過去の學説などを引用して考察を進めているあたり、まるで論文のようであった。基礎知識程度でほぼ門外漢のアニエスにも丁寧に説明してくれている。普段は傍若無人な兄の、意外に真面目な一面である。

(・・・まさか私の憶測が支持されることになろうとは)

あまり己の考えというものに自信を持てないアニエスは、否定されないことがかえって落ち著かなかった。

「アニエス様。こちらが乾いたようです」

「あ、はい。ありがとうございます」

アニエスが手紙を読んでいた作業臺へ、ジークが洗浄済みの本文ブロックを運んできた。

急きょ作業場としたエントランスにはルーたちが掻き集めた盥が所狹しと並べられ、地下書庫から出した本を一斉に洗浄し、複數の空き部屋にラックをこしらえて乾燥させている。

あまり時間がないため、アニエスは乾いた端から表紙を付ける前に解読を進めていた。

黙々と読み進めていると、クルツが貓の子のように覗き込んでくる。

「なんかわかりました?」

「・・・しは」

地下にあったほとんどの書は儀式に直接関係するものではなかったが、ヒントとなりそうな事柄は散見された。

「エインタートでは昔、麥酒が作られていました。それを蒸留しさせたものに《黃金の酒(カー・リル)》と名付けていたようです。それから、夏頃に儀式が行われていた記録を見つけました」

「夏? だったらちょうど良かったっすね」

「いえ、すでに遅いかもしれません。クムクムの花が散ってしまう前に儀式を行わなければ」

間もなく七月になる。花は結実し、儀式で舞う乙を飾るためのものがいよいよ見つからなくなってしまう。儀式の手順書には《咲き始めのクムクムの花》と書かれているため、適正な時期は逸しているのだろう。

にどんな意味があり、欠けるとどうなるのか、わからない以上は可能限り正確に再現する必要がある。

「――クルツさん。ルーさんたちの様子を見てきてください」

「えー?」

そろそろ洗浄作業に飽きてきたと見え、周りをうろつき始めた年をアニエスはよく追い払った。

エントランスにはルーとユカリの姿がない。二人はローレン領の避難所にて、年寄り衆に祭りの舞を習っているのである。

五十年前に乙であった者たちを集め、各自の斷片的な記憶を繋ぎ合わせて、どうにか一連の舞の型が判明したため、それを現代の乙たちに叩き込ませている。

セリムたちの気強い調査により、年寄り衆は他にも々と思い出してくれた。

舞をリードする歌、またバンカロナという楽について。後者は牛の骨と皮を使って作られた弦楽であり、領主館に保管されていたはずとの証言を得られたが、家財とともに売り払われたのか、瓦礫とともに撤去してしまったのか、館にそれらしきものは殘っていなかった。

新しく作ろうにも、領民たちの記憶にあるおぼろげな形しか手がかりがない。

(おそらく、レアーマ族の伝統楽なんだろうけど)

とアニエスが思うのも、年寄り衆の覚えていた歌がスヴァニルで使われている言語ではなかったためだ。今や失われた異民族の言葉なのだろう。儀式の構要素はすべて、この地にかつて生きていた彼らをめるためのものである。

(図書館に資料が殘っていればいいが)

わずかな希に、アニエスは王都へ出したもう一つの手紙を待った。

前職場である図書館の司書たちに宛てた、古書の解読依頼。そちらも、その日の午後には屆けられた。

古書の解読容のおおまかなところは、アニエスが読み解いたものと相違ない。肝心なのは、解釈である。

『――かつて北方地域にいた數民族の間で、あらゆる儀式における《供(ペグオフィスム)》は牛が一般的でした。《アロイス博記》にはレパス種のと皮を使ったレアーマ族のコートが載っています。よって、供には彼らの近に生息していたレパス種の牛が捧げられていた可能が高いと思われます』

手紙に綴られている筆跡は紙ごとに違う。図書館の司書たち、また、古書修復部の同僚や師匠たちが、分擔して調べてくれたようである。

師匠のフーゴ翁の流麗な文字もあった。送った古書の容について、アニエスがどうしても意味のわからなかった、儀式の最中に《土地の主がこれを唱える》と指示されている呪文の意味が、すっかり解読されていた。

(彼らの、名前?)

翁曰く、それは古代の呪文でなく、の文章でもなく、単にレアーマ族の名前が延々と書かれているに過ぎないのだという。さらに名前の意味まで丁寧に解読されていた。

(――あれらは、人なんだ)

憎悪の化となり、執拗に領民たちを襲うもの。しかしその名と意味を知った今、中に浮かぶのは憤りには程遠い、靜かな憐である。

アニエスはそれから他の手紙もすべて読み切った。

、黃金の酒、舞の振り、曲、ほとんどがわかった。だがやはり、バンカロナという楽だけが調達できそうにない。

図書館の面々もその正を引き続き探ってくれているようだが、長期戦を覚悟せねばならない様相を呈している。

(皆の記憶を頼りにだめもとで自作してみるか、それとも歌と舞だけで彼らに許してもらえないか)

アニエスに考えつくのはそのくらいである。知の粋を集めた學院でもわからないのであれば、もはやお手上げだ。

(兄様か姉様のどなたかに相談・・・楽に詳しい方は・・・あ)

ふと思いついたアニエスは部屋に戻り、クローゼットの中から大事なものをまとめてれている箱を出した。

そこに、二つ折りのメモ紙がある。

(・・・もしかしたら、もしかするかも)

困ったことがあればここに手紙を出せと、魔王をやり込めた五番目の兄は言っていた。

霊に命を狙われているなどという奇想天外な狀況は、まさに彼にふさわしいトラブルだ。

者にいつ手紙が屆くかはわからない。それでも、常に人の想定のにはいられない兄は、また意外な助けをよこしてくれるかもしれない。そんな信頼がアニエスの中には付いていた。

(うまくいきますように)

即時に手紙をしたため、紋章で空を飛べるリーンに使いを頼み、アニエスは引き続き己のできる作業を進めていった。

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