《幽霊公(プランセス・ファントム)》5. 伝承
珍しく、午前と名の付く時間に目覚めたユーディトは、朝食にコーヒーとサヴァランを平らげると、一人散歩に出た。
彼の行の原因は、あの男だ。
城の調査は、アドリアンが使っている棟がまだ殘っていたが、それを見るのは日沒後だ。
「あのバカ殿とは、出來るだけ二人きりになるな。」
昨夜、珍しく真剣な顔をしたジーヴァに念を押された。
「お前は醒めているようでいて隙だらけだからな。危なっかしくて安心できない。」
見つめる深緑の瞳に、ユーディトは頷くしか無かった。
確かに自分は、あの狡猾な子爵の掌の上を、好きに転がされている。
悔しいが、力(・)が無ければ、自分も十六の世間知らずな小娘に過ぎない。一回りも上の食わせ者に、まともに太刀打ちできるはずも無い。
というわけで、ユーディトは日が暮れるまでの時間を、城館の外で過ごすことにしたのだ。
今日は幸い雨は降っていなかったが、空はどんよりとした厚い雲に覆われている。外套だけでなく、襟巻きとマフもに付けて來たのは正解だった。
白い息を吐きながら、ユーディトは城館から西に斜面を下りる道を辿っていた。帰りが上り坂なのが億劫だったが、ゆっくり登れば、まあ、こなせるだろう。
ミンクのマフに付けられた房飾りが、彼の歩調に合わせて、ぽんぽんと跳ねる。
*******
敷地の外れのまばらな木立の中、その小さな廃墟は、忘れられたように立っていた。
もとは禮拝堂だったのだろうか。すでに屋も窓ガラスも無くなり、開いたままの戸口から覗き込むと、吹き込まれた枯れ枝や落ち葉が所々に作った山と、苔むした石の床が見えた。
「ここは、バルナバ様の庵だった所じゃよ。」
ふいに背後から聲をかけられた。驚いて振り返ると、作業著を著た老人が立っていた。
「散歩かね、お嬢さん。」
「ええ。」
ふと煙草の香りが鼻をかすめる。老人の口に咥えられたパイプからは、綿雲のような煙がほわほわと立ち上る。
「わしはここの庭師じゃよ。」
白い髭に囲まれた皺だらけの顔は、いかにも人が良さそうだった。
「バルナバ様の話が聞きたいかね、お嬢さん?」
目を細めてユーディトを見ると、老人は彼の返答を待たずに続けた。
「それならわしの小屋においでなされ。ここは寒い。溫かいワインでもご馳走しましょうぞ。」
庭師の住まいは狹かったが、居心地良くしつらえられていた。戸口をくぐっった所が、居間と臺所を兼ねた部屋になっていた。
竈の橫の壁には、鍋やフライパンと並んで、香草やら薬草らやの束がぶら下がっている。その前の床には、大きな赤い貓が丸くなって眠っていた。ユーディトが部屋にると、彼は黃い目を薄く開けたが、興味無さそうに一瞥すると、また晝寢に戻った。
形も大きさもまちまちな椅子の一つにユーディトが落ち著き、湯気の立つカップを手にすると、老人はバルナバの語を始めた。
「昔はこの辺りにも深い森があったがな、そこに好な魔が棲み著いてのう、見目の良い村娘を次々と掠っては食ってしまった。仕舞には、お館様の奧様まで餌食にされてしまった。嘆き悲しんだお館様は、魔を退治したものには、褒として何でもみを葉える、とおれを出されたのじゃ。」
果敢に魔に挑む者は続々と現れたが、誰も太刀打ちできず、失敗して食われてしまった。
そんな時、村に一人の旅の修道士が現れた。バルナバと名乗ったその僧は、自分に任せてしいと領主に願い出た。
バルナバは、武を貸そうという領主の申し出を斷り、代わりに、穢れ無き乙の髪で作られた筆を、一本所したという。そして、その筆と聖水を満たした瓶、それに一巻きの麻布を手に森に向かった。
「魔が姿を現すと、バルナバ様は聖水に浸した筆で、その似姿を麻布に描かれた。すると魔は世にも恐ろしいび聲を殘して、麻布の中に引き込まれてしもうた。バルナバ様の奇跡の力で、魔は似姿の中に封じ込められて、ただの一枚の絵になってしまったのじゃよ。」
バルナバに謝した領主は、この地に庵を建て、彼をここに終生住まわせたという。
「その話がいつ頃のものか、ご存じですの?」
城館の呪いの噂が、伝承のもとだろうか。領民の間で、面白可笑しく腳されたか。
「さあてのう。森があった頃じゃから、ずっと昔のことじゃろうて。わしも、わしの爺様から聞いた話じゃからのう。」
だが悪霊が退治されたと言う割には、領主の奧方は亡くなり続けている。
そのバルナバという男、ただの詐欺師だったのではないだろうか。
(それとも、その好きの魔、単に領主に乗り移ったのでは……。)
「ワインとお話、ありがとうございました。」
「これは引き留めてしまいましたのう。」
カップをテーブルに置いたユーディトに、老人も、どっこい、しょ、と椅子から立ち上がった。
「お嬢さんは、お館様の客人じゃろう?」
今更のように彼はたずねた。ユーディトが肯定すると、彼は悪戯っぽいを目に浮かべて言った。
「今のお館様は良いご領主じゃが、にはだらしないでのう。」
前半はどうか知らないが、後半はその通りだろう。
「お気を付けなされ、小さな夢魔のお嬢さん。」
彼が開けてくれた小屋の戸をくぐる時、そんな言葉がユーディトの耳に屆けられた。
慌てて振り返ろうとしたが、梢を渡る風のような、ひゅうひゅうという音が急に大きく鳴って、思わず目を閉じる。
目を開くとユーディトは、薄暗い林の中に一人で立っていた。老人の小屋は影も形も無い。
「…………森の男…………?」
唐突に彼は、彼の黒い瞳に、瞳孔が見えなかったことを思い出していた。
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