アドリアンは、駆け付けた使用人たちの手を借りて、暴れるバベットをシーツでぐるぐる巻きにして、なんとか拘束した。彼の監視と介抱はロベールと中頭に任せて、彼はユーディトたちの行方を追った。

ごうごうと吹き荒れる風の音で、彼らの居場所はすぐに判明した。二階のジュヌヴィエーヴの部屋だ。

「公(プランセス)！」

手燭を手に駆け込んだアドリアンは、目の前の現実離れした景に、凍り付いたように立ちすくんでしまった。

真っ二つに切られた絵の前に、霧をまとったようなが仁王立ちになっている。闇の中、赤く煌々とるのは彼の両目。

（灰の婦人(マダム・グリ)！）

突如吹き起こった風に厚地のカーテンが舞い上がり、公の闇の髪も自らの意思を持つようにうねうねと踴った。華奢なは、灰の婦人と対峙している。

『ユーディト、彼を甘く見るんじゃない！』

し離れた所でジーヴァがんだ。

『大丈夫よ』

言い置いて、すたすたとユーディトは灰の婦人に近付いた。

そのまま手をのばしてれようとする。

「そなたの餌食にはなりませぬ！」

かっと見開かれた彼の目がまた赤くった、と思うとユーディトは數歩分、吹き飛ばされていた。

『言わんこっちゃ無い。食い意地を張るから……』

『食い意地？』

彼をけ止めたジーヴァのあきれ混じりの臺詞に、アドリアンは眉を寄せた。何ともこの場にそぐわない単語が、耳にってきた気がする。そろそろ、自分のドイツ語力に自信が無くなってきた。

『私にやらせろ、ユーディト』

肩を抱くジーヴァを、ユーディトは振り返った。

『いやよ！　わたくし、お腹が空いているの！』

彼の手を振り払うと、再度灰の婦人に近付く。

『リールゥ、お前なら出來るか？』

『こんなの、あなたじゃなきゃ無理よ……』

ジーヴァの問いに、リールゥは強ばった顔で首を振った。ジーヴァはもどかしそうに歯噛みする。

カツン、とユーディトが靴音を響かせて立ち止まった。

「大人しく食べられなさい」

そう言ってのばされた彼の手が、薄青くっているように思えて、アドリアンは目をしばたいた。

「させぬと言うておろう！」

一喝すると、灰の婦人の目が再び赤くった。だが今度は、ユーディトは吹き飛ばされず、彼を巻き込むように吹き起こった旋風(つむじかぜ)に、その場にい止められた。

「そなたを食らえば、妾の枷も外れよう」

けない彼に灰の婦人が近付く。

『馬鹿っ、ユーディト、命(・)じ(・)ろ(・)！』

ジーヴァの妙に人間くさい聲が響く。

すると、それまで黙ってうつむいていたユーディトが、靜かに顔を上げた。伏せられていた薄紫の瞼がゆるゆると上げられると、深紅の瞳が輝いた。

「死霊の分際で、の程知らずな。とっととお逝き！」

ざあっ、と涼やかな風が吹き抜けると、灰の婦人の姿はどこにも無かった。深い森の夜気を思わせる芳香が、一瞬アドリアンの鼻腔を満たした。

「ユーディト！」

ジーヴァの聲に我に返ると、気を失った彼が倒れる所だった。慌てて駆け寄って支えようとしたが、ジーヴァの方が早かった。

「さっさと寢室を用意しろ、バカ殿！」

ユーディトを抱き上げた魔の聲に、アドリアンは使用人がいる方へと走った。