《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》三 旦那さんと畫家と奧さんの三角関係
――なんだか妙なことになってきている。
鍋でくつくつとじゃがいもとにんじんと玉ねぎとごぼうとしめじを煮ながら葉《よう》はうーんと腕を組む。
なんだか妙なことになってきている。
材がやわらかくなってきたのを確かめると、固形のシチュールウを割りれて溶かし、さらに牛とちょっぴりの味噌を加える。和風シチューのできあがりだ。箸休め用のピクルスは漬けておいたし、ごはんは炊飯にセットしたから大丈夫。夕飯の支度がひととおり済んだことを確認すると、葉はエプロンを取った。
きづけば、もう家を出る時間がちかづいている。
「つぐみさーん」
時間がないので、廊下から離れに向かって呼びかけた。
「俺、そろそろ出かけるね。玄関の鍵は締めていきます。日が暮れるまえには帰るから」
必要事項を伝えると、居間に出しておいたボディバッグを肩にかけ、玄関に向かう。
三和土《たたき》でスニーカーを履いているところで、ばたばたと慌ただしい足音がして、つぐみが小走りで玄関までやってきた。
「もう出かけるのっ?」
「あ、うん」
息を切らしながら勢い込んで尋ねられ、葉はぽかんとした。
最近、つぐみは制作室にこもっていることが多い。依頼品をこなすかたわら、このまえ話題に出ていたハルカゼアートアワードに出展する作品の構想を練っているらしい。こういうときのつぐみは聲をかけても、制作室から出てこないことが多いのだが、今日はちがうようだ。……やっぱり羽風《はかぜ》の存在が気になっているのか。
「き、気をつけてね……」
「電車で一回乗り継ぐだけだから大丈夫。あ、今日の夕飯シチューだよー」
今日のつぐみは絶対機嫌がわるくなる予がしたので、先に好のメニューにしてご機嫌取りをしておいた。「シチュー……」とほんのり表を明るくして、でもすぐにつぐみは俯いてしまった。
「日が暮れるまでには帰ってくるんだよね?」
「もちろん」
「……帰ってくるよね?」
「ほかに帰る家なんてないよ」
二回も訊いたのに、つぐみはまだ信じきれていないようすで葉のパーカーの裾を離さない。
今日はモデルの貸し出し初日なので、葉はこれから羽風のアトリエに行く。羽風はつぐみのような自宅ではなく、所屬している大の制作室を借りて絵を描いているらしい。ちなみに羽風は大學三年生で二十三歳、大にるのに二回浪人したそうだ。
つぐみはなんだか朝から落ち著かなかった。
的にいうと、葉が出した目玉焼きにびしゃびしゃ醤油をかけたり、お味噌をひっくり返したりしていた。心ここにあらずといったようすで、そのくせお味噌で汚れたテーブルを拭いている葉に「怒った……?」と急に不安そうに訊いてきたりする。夏に鹿名田《かなだ》家に戻って、ひばりが現れたときにちょっと似ていた。
つぐみは一度貸し出したら、そのまま返卻されないんじゃないかと憂いているらしい。パーカーの裾を握るつぐみは、いかないで、と全で訴えていて、複雑な気持ちになってしまう。
べつに葉だって、羽風のアトリエに行きたいわけじゃない。でも、相談もなしに行けと言ったのは君じゃないかと文句を言いたい。しかも行けと言ったあとに、いかないでと全で訴えてくるのはずるい。いったいどうしたらいいのか。
すこしは葉の複雑な気持ちもわかってくれ、と思うのだけど、不安そうなの子を放っておけるはずはなく、葉は基本的にはつぐみに甘々なので、パーカーを握るつぐみの手を両手で包みこんだ。
「ささっと済ませて帰ってくるから。君が捨てない限り、俺はどこにも行かないって言ったよね?」
とりあえずつぐみに関しては、くどいくらい自分の気持ちを伝えておいたほうがいいということは夏に學んだ。留守にしているあいだに勝手に落ち込まれてもこまる。
ちなみに今日は十月二十一日だ。
俯きがちのの子のまえですこしかがむと、持ち上げた手の指先にちょんとくちづけた。瞬きをして、つぐみが目を上げる。照れてしまったのか、はにかむように微笑んだ。葉もわらい返して、「いってきます」と言う。「いってらっしゃい」と返されたとき、流れる空気はさっきよりは穏やかになっていた。
電車を乗り継ぎ、三十分くらいかけて、羽風が通っている大に著いた。
葉が施設管理スタッフをしている大學とはちがって都心にあり、施設は最新だけど敷地は狹い。
ぴかぴかの構を歩くあいだも、つぐみを家に置いていったいなんで自分はこんな場所を歩いているんだろう?と解せない気持ちが膨らんでいく。葉はつぐみの専屬モデルだったはずなのに、なぜ羽風のモデルをすることになっているのだろう? しかもどちらかというと羽風は葉を気にっていないかんじだったのに。どうしていきなり葉を借りたいなんてつぐみに言ってきたのかまったくの謎だ。
……ただ、つぐみと理的に距離をおけることには、正直すこしだけほっとしている。
最近の葉はなんだかほんとうにまずいのだ。人間偽裝に下心混どころの話ではない。つぐみをまえにすると、ときどき理がポンと飛ぶ。下心を極限まで削るためにつぐみをだまくらかしてキスの日までつくったというのに、回數が減ったら減ったで、一度の破壊力が半端ない。
このあいだ、つぐみに絵をもらったとき、すごくうれしかった。
こらえていないと泣いてしまいそうなくらい、あの子の世界のほんの片隅にでも自分を置いてもらえたことがうれしかったのだ。うれしくて、すごくうれしくて、でもそうすると、それまでないものにしていた深さが顔を出す。もっと俺のこと見てほしい。絵のなかの男のほうなんか見てないで、もっとこっちを見てほしい。ほんとうは外見《そとみ》じゃなくて、心に、れてほしい。君だったら、心の襞《ひだ》のどこにれてもかまわないのに。
そんなことを思ってしまってから、ちょっと恥ずかしくなる。
つぐみはもう十分、葉に対価を払っている。お金という対価を払っているのだ。
だというのに、このうえいったいなにをつぐみに求めているんだろう。金で雇われた契約夫のくせに深すぎるし、これじゃあ不當請求で、へこむ。
とにかくこれを機にしっかり自分の立場と役割を見直し、つぐみの快適な住環境を維持する歯車の一部として、立派に機能したい。あの子には健やかにわらっていてほしいのだ。
「羽風さん、久瀬《くぜ》でーす」
あちこちにが散する階段をのぼって、指定された部屋をノックする。
てっきり制作室に呼ばれるのかと思ったら、サークル棟の一室のようだった。
羽風はここで絵を描いているのだろうか?
ステッカーがぺたぺたられたドアの向こうから返事がないので、「あけますよー」とドアノブをひねろうとすると、ばちーん!とものすごい音がして、ドアが勝手にひらいた。
「あんた、もう最低っ!!」
緩やかにウェーブした栗の髪に淡いレモンのショールを巻いたの子が、眥を赤く染めて部屋から飛び出してくる。葉とぶつかりそうになり、一瞬驚いた顔をしたが、「もう二度と來ないから!」と中に向かって捨て臺詞を吐くと、かつかつとパンプスを鳴らして階段を下りていった。
「くそ。いってー」
の子を見送ったあと、部屋の側に目を向けると、ソファにくったりもたれかかった羽風が頬を押さえていた。はたかれたらしく、頬に赤い手のひらの痕が殘っている。フラミンゴの髪は変わらず、今日はダメージジーンズに絵を飛ばしたみたいなトップスを重ねていた。耳には銀のごついピアス。
「……えーと、濡らしたタオル持ってきます?」
「あれ、あんたいたの?」
今きづいた風に瞬きをした羽風は、「いいよべつに。って」と顎でしゃくった。
狹いサークル室には、床にどんと革張りのソファが置かれ、蓄音機にレコード、古い映畫のポスターに音楽雑誌がろくに整理されずにタワーを作っている。いったいなんのサークルだろう。ドアのところをちらっと見ると、「駄菓子研究會」と書いてあった。駄菓子。どのへんだ?
「絵、描くんですか、ここで?」
「うん、べつにここじゃなくてもいいんだけど」
羽風はふわあとあくびをして、はたかれたところが痛んだらしく顔をしかめた。
確かに畫材らしいスケッチブックは置いてある。というか、床に裏返ったまま転がっている。
葉が知る畫家は鹿名田つぐみがすべてだが、彼はよくもわるくも神経質で、生活はともかく絵に関しては、ひとつのれも雑音もゆるさないようなところがあった。制作室は、休憩用の長椅子にブランケットがかけてある以外は、スケッチ用の花と紙や絵といった畫材しか置かれておらず、必要がなければ、誰も踏み込ませない。そういう神事に似た張がみなぎっている。
それに比べてこの部屋は散らかっているし、食べかけのポテチの袋は落ちているし、というかそもそも制作室じゃなくて駄菓子研究會の部室だし、このひとさっきのあれ明らかに修羅場だったよね? いったい何をやらかしたんだろう。
胡げな葉の視線にきづいたのか、「描きます、描きますって」と羽風はを起こしてスケッチブックを拾い上げた。
「あのー、訊きたいことがあって」
「タメ口でいいよ。男にかしこまられてるの、きもい」
「じゃあ、訊きたいことがあるんだけど。ほんとうに俺描いてハルカゼ展に出すの?」
「もちろん」
「なんで?」
羽風が葉にぜんぜん興味がないのは明白だし、このあいだの話の流れだとつぐみへのあてつけとか嫌がらせのためにやっているとしか思えない。葉は基本的にはつぐみが行けと言えばどこへでも行くけど、そういうのに自分を使われるのはいやだ。丁重にお斷りしたい。
「なんで、ねー。あ、俺に描かれるの嫌?」
「うん」
つぐみを苦境に立たせるかもしれない絵の片棒を擔ぐなんて、いやに決まっている。素直にうなずくと、羽風はふはっとわらって、スケッチブックをソファに放った。
「すきなんだ、俺。ツグミが」
予想していた斜め上のものすごい直球が打ち返された。
葉は完全に固まった。
「ひとめぼれだった。あんなすごい絵はじめて見た」
……絵。
あ、絵のはなしか。
「……このあいだはむちゃくちゃ言ってたのに?」
「うん、だってひどいんだもん」
あっけらかんと羽風は肩をすくめる。
「でも惹かれてる。ほかにこんなひとはいないし、俺はあのひとの視界にりたい。あの他人にぜんぜん興味ないです、作品以外はどうでもいいですってかんじの鉄壁を揺さぶりたい。振り向かせたい。……あ、もちろん畫家のくくりでだよ。俺、既婚者に興味なんかねーし」
いちおう葉がつぐみの夫だからか、そう付け加えたが、葉は背後から鉄バールで毆り倒されたくらいの衝撃をけていた。
すきなんだ。視界にりたい。振り向かせたい。
あまりに直球のの言葉だ。ただし畫家のくくりで。
……でも、つぐみだって畫家だ。振り向いて視界にってすきになっちゃったらもはやそれはし合っているとおなじなのでは。
だって、このふたりは才能あふれる畫家と畫家だ。
絵にひとめぼれしたって、畫家としての魂に惚れたとかそういうのに近いのでは……。
「だから、ツグミがあれほど惹かれるあんたを描いてみたい。俺は絵描きだから、知るなら描きたいんだ。ちょうど次の制作で行き詰まっていたし、行起こすなら今だなと思って」
どうだ、とばかりに羽風はを張る。
確かに羽風の言い分にはつぐみを貶めようとか嫌がらせをしてやろうみたいな不純な機は見當たらなくて、ほんとうはそんなのけざるを得ないけど、でもやっぱり葉はいやだった。つぐみに振り向いてほしくないし、こいつを視界にれてほしくないし、すきになってほしくもない。だってそうなったら、葉は今度こそヒモのお役目終了で捨てられてしまうから。
割り切れない気持ちを抱えて、目を伏せた。
ずるい。俺だってすきなのに。
君よりずっとまえから、あの子のこと、すきなのに。
と思ったら、近くから鉛筆のく音がして、目を上げるとスケッチブックを膝に抱えた羽風がすでに描きはじめていた。
「俺、いいですって言ってないんだけど!」
「え、でも描くよ。あたりまえだろ」
ちょっとつぐみを髣髴《ほうふつ》とさせる暴君ぶりで羽風がけろりと言った。
もう最悪だ。
感じるのは快楽だけ
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