《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》《Interval》 彼を想う彼の十二年間 (2)
つぐみは幸いにも葉《よう》の正にきづかなかったようで、淡々とスケッチをこなすと、きっかり一時間で切り上げ、「お疲れさま」と言った。
「これ、今日の謝禮」
服を著終えた葉におもむろに封筒を差し出す。
白無地の封筒の表には、端正な字で「禮」と書いてあった。たぶんはじめから用意をしていてくれたのだろう。こんなささいなところにも、きちんとしようとがんばっていたの子の面影を見つけてしまい、葉は目を細めた。
「ありがとう。……あの、鹿名田《かなだ》さんは絵を描いてるんですか」
なんとなく帰るのが惜しくて訊いたあと、しまった、と思った。あたりまえすぎる質問だ。
下手を打った葉をつぐみはわらわなかった。
「はい、絵を描いてます」
「そ、そうですか」
「……はい」
つぐみはずっと俯いていて顔を上げない。
ほかの人間相手なら多はつなげられる會話が、なぜか彼をまえにすると、空転する車みたいにむなしく回って続かない。葉は殘念に思った。もっと聲を聞きたかったのに。
「あの、じゃあ……」
長椅子に置いていたボディバッグを取って、部屋の外に出ようとすると、「待って!」とつぐみがあわてたようすで顔を上げる。
「また……、また呼んでもいいですか。……その、久瀬《くぜ》くんが、いやじゃなければ」
「もちろん」
応えてしまってから、何を言っているんだと自分に困する。
一度だけ、ひと目だけって決めただろう。早く訂正しないと。
でも……。
葉は、必死に聲が震えないよう気を張っているようすのの子に目を向ける。隠そうとしていても不安でいっぱいの目をしたつぐみは、どうしても葉に応えてあげたいと思わせてしまう。
(あと一度だけ。一度だけなら)
――そうしてはじめてしまったモデルのバイトは、今日でもう四度目になる。
一度だけ。次が最後。別れるときはそう固く誓うのに、次に會うときにはまた一度限りの次の約束を取りつけてしまっている。今回ばかりは自分の流されやすさに辟易した。なにをやっているんだろう。こんなこと長く続けても、いいことなんてひとつもないのに。
ただ、何度顔を合わせても、つぐみが葉にひとつも心をひらいていないこともわかった。
はじめはただ張しているのかと思っていた。けれど、二度目、三度目と重ねても、つぐみはすこしもわらわず、雑談のひとつもせず、だだっぴろい和室で黙々と葉を描き、一時間きっかりでスケッチを終え、「今日の謝禮」と封をしっかり閉じた白無地の封筒を渡した。中にっている一萬円札は、いつだって折れも皺もない新札だった。
(君はいま、しあわせなんだろうか)
スケッチブック越しにそっとつぐみを盜み見ながら葉は考える。
いまは平日の午前中だ。つまり十七歳のつぐみは高校に通っていない。
ひとりで暮らすには広すぎるように見える木造平屋に、ほかに家族は住んでおらず、ただひとり、志津音《しづね》というお手伝いさんがときどき掃除をするすがたを見かけるくらいだ。
……べつに學校に通ってなくても、家族と暮らしてなくても、住む家がだだっぴろい木造平屋でも、つぐみがそれらを選んで、毎日を楽しんでいるならいいのだ。いいのだけど……。
(どうして君はそんなに張り詰めた顔をしているんだろう)
つぐみと目が合いそうになったので、葉はあわてて視線をそらした。
を知らないような蒼白い。折れそうな細い手足。暗い眸。
なんだかこの子はいまにも壊れそうなガラス細工みたいだ。
葉は目を伏せて、つぐみの鉛筆の音に耳を傾けた。
この子のようすに勝手にを痛ませて、かといって赤の他人に何ができるわけでもなく、じゃあもう行かなければいいと自分でも思うのに、規則的な鉛筆の音と微かないきづかいに耳を澄ませるとき、葉はふんわりとまどろむようなしあわせをじてしまう。できれば、この子の鉛筆の音といきづかいをずっと聴いていたい。言葉はなにもわせなくていいから。それはやっぱり、してはいけないこと?
「――久瀬くん、おつかれさま」
きっかり一時間が経ったのか、いつものようにつぐみが告げた。
「あ。えと、おつかれさま」
我に返り、葉は長椅子の背にかけていた服をに著けていく。
スケッチを置いたつぐみは、半分ひらいたままになっていた襖から別の部屋に引っ込んでしまった。著替えたものの、どうしようと思っていると、「來て」と隣室からつぐみに呼ばれる。
薄明かりの部屋には、一幅の巨大な絵が置かれていた。
白い雪片にも似た桜の花が、畫面の大半を覆っている。葉には絵のことはよくわからないけれど、一枚一枚の花びらが驚くほど緻で、絵そのものが側からほのかにひかりを放つかのようだ。
絵の中央には、花に半ば隠れるように、男の痩せた背中がのぞいていた。きれいだな、と思ってから、あれもしかして俺か、と瞬きをする。雰囲気がぜんぜんちがうけど、たたずまいとか手足のかたちとかに見覚えがある。
「『花がすみ』といいます」
つぐみが口にしたのはどうやら絵のタイトルのようだった。
「一週間後の販売會に置いてもらう。……売れるかはわからないけど」
いちおう君には見せておこうと思って、とつぐみが話しているさなかに、「すごい!」と葉は大きな聲を出した。びっくりした風につぐみが言葉を止める。
「これ、君が描いたの? あのスケッチから? よくわかんないけど、すごい!」
「……よくわかんないのに?」
「うん。でも、がぎゅってなったよ」
興して思わずまくし立ててしまう。
つぐみは一瞬驚いたように葉を見て、なぜか切なそうに目を細めた。
「それ、まえにも……」
「え?」
「ううん、なんでもない」
ゆるりと首を振って、つぐみは半分ひらいたままの障子戸の外を見た。
庭に面した廊下にはガラス戸がれられていたが、水滴がつきはじめている。
「雨、降ってきたね」
「あ、ほんとだ。……あっ」
「どうしたの?」
「傘……いや、なんでもないです」
「傘がないの?」
めざとく言葉を拾ったつぐみが尋ねてくる。
さすがに噓はつけないのでうなずいた。
「傘くらい貸すよ」
「……いや、でも」
傘を貸してもらうというのは、またここへ返しに來るということだ。
はやくやめないといけないのに……。
なんて言ったらよいかわからなくなり目を伏せると、つぐみはおもむろにまた部屋を出ていった。
「志津音さん」
キッチンで夕飯の支度をしていたらしい志津音に聲をかける。
「わたし、駅まで久瀬くんを送ってくる」
「お、お嬢さまが?」
志津音はぎょっとしてつぐみを見た。雇い主が雨のなか出かけることを憂うのとはちがう、重い響きがそこにはひそんでいる。まるで人生ではじめてその言葉を聞いたみたいな。
志津音の反応の異様さに気を取られて、葉は肝心なほうの反応を遅らせた。
「あ、でも、つぐみさん、俺――」
「帰ったらインターホンを鳴らすから、あけてほしいの」
「……かしこまりました」
志津音は微かに不安を殘した表をしていたが、それ以上引き留めようとはしなかった。玄関に出たつぐみは、靴箱をあけて中を探るようなそぶりをし、ヒールがついた履きづらそうな靴を出した。選んだというより、それしかないかんじだった。
「久瀬くん、引き戸あけてくれる?」
傘を二本持ったつぐみが言ってきたので、「あ、うん」とうなずき、ガラス戸を引く。
さっき廊下で見たときは小雨程度だった雨は、やや雨腳が強くなりはじめている。葉があけたドアから外に出たつぐみは、腕にかけた傘の一本を葉に差し出す。
「何駅?」
「えと、つばめ臺」
「わかった」
ビニール傘をひらいたつぐみは、葉に先んじて歩き出した。
素足でヒールがついた黒いエナメルのパンプスを履いていて、転んでしまうんじゃないかと、葉のほうが無駄にはらはらとしてしまう。でも、そんな葉の心配をよそに、つぐみはまっすぐばした背筋ですこしのれもなく歩いた。つぐみの纏う空気は凜と張り詰めていて、この子は葉とちがって歩き方ひとつをとってもきちんと矯正して生きてきたのだときづかされた。
つぐみの半歩後ろを歩きながら、ざあざあ降りの雨音に耳を傾ける。
駅前の下町からひろがる閑靜な住宅街は、青や白の紫花がところどころに咲いている。黃いレインコートを著た子どもと傘を差して手をつなぐ母親とすれちがう。あかるいわらい聲がはじけて、また遠ざかった。
前を歩くつぐみは靜かだ。
彼の周りだけ時間の流れ方がちがうんじゃないかと思うくらい。
葉は傘越しにつぐみを見つめた。ビニール傘の影が落ちた白い頬や、傘の柄を持つ細い手首や、伏せがちの眸やなんかを。ふと長い睫がふるえて、「あ……」と雨音にまぎれそうなくらいのちいさな聲が聞こえた。つぐみの目はじっと、頭上の傘に向けられている。
「何かあった?」
思わず訊いていた。
「雨粒が……」
「うん?」
「……な、なんでもない」
「雨粒がどうかした?」
葉が言葉を継ぐと、つぐみは観念したようすで「ここ」と傘を持っていないほうの手で明なビニール傘の一か所を示した。
「北斗七星とかたちがおなじだなって」
「ああ……」
葉は星座には詳しくないけれど、さすがに北斗七星くらいなら、かたちもわかった。ふたりで見上げたとたん、傘がすこしいて、星と星がくっつき、ぽろんと下に流れた。
「あ……」
「すごい、流れ星になった」
楽しくなって、こそっと耳打ちすると、つぐみは大きく目をみはらせる。
「ほんとうだ……」
はにかむような微笑がほんのりこぼれる。
わらいかた、かわいいな、と思った。思ってしまってから、なんだかまずい場所に踏み込んでしまった気持ちになって、揺する。
つぐみと再會したとき、はじめは確かに、十一年前の「つぐみちゃん」の面影をこの子に探していた。それを見つけて、満足するつもりだった。なのに、いつのまにか俺はこの子のことを見ている。
こんなにも、この子を目で追ってしまっている。
早く引き返さなくちゃいけないのに、戻り方がわからなくて途方に暮れた。
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