《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》3-10 アイツが居なくとも
「言われました花を持ってきましたわ」
亞妃の後ろから、李陶花《りとうか》と明敬《めいけい》が籠いっぱいに盛られた白い花――茉莉花を持ってくる。
「百華園に茉莉花が咲いていて良かったです。すでに篩《ふるい》にかけてなどは取り除いております」
「ちょうど時期で良かったです。おかげで簡単にこれだけの量が集まりましたよ」
萬里はそこでよやく本から目を離し、ふうと息を吐いた。
ずっと腰を曲げて作業していたため凝ったのだろう。グググと腰を反らすと「ボキボキ」と彼の苦労の音が鳴っていた。
「助かります」
李陶花と明敬が差し出した籠を、萬里は禮を言ってけ取り、また別の作業臺へと置く。
「これだけあれば、きっとアイツが思っている以上のものを作れます」
籠にこんもりと詰まれた茉莉花を、満足げな顔で萬里は見下ろす。
「それにしても、なぜ花は日中ではなく夜に摘む必要があったのです? しかも花が開く直前のものだなんて」
亞妃が籠から手に取った一は、よく見る花弁を広げた姿ではなく、蕾が薄らと口先を開き始めたほおずき型をしていた。
「茉莉花は夜に花が咲くんですが、花の香気が一番強くなるのが開花直前なんですよ。花が開くと側に溜まった香気が逃げるんで、この狀態が一番香りが強いんです」
萬里の淀みない口上に、亞妃達は「おぉ」と簡単の聲をらした。
鄒鈴にいたっては指先で控えめな拍手を送っている。
「――って、この本に全部書いてあっただけなんですけど」
萬里は頬を掻いてし照れくさそうにはにかむと、臺に広げていた本を手に取った。
表紙の一部にだけ真新しい雲母紙が張られた、古びた紺の本。
それ以上ボロボロにしてしまわないようにか、萬里が本をめくる手つきは丁寧なものだった。普段の彼の態度の大きさからは考えられないくらいに、繊細な扱い。
「見たこともないような知識がこの本は詰まってて……正直、もんだった……」
瞳に尊崇にも似たを抱き、本を見つめる様子は、未知という熱に浮かされた者の表そのものだ。
「アイツは……この本一つで生きてきたんだな……」
本には花の詳細な形やが絵で図解してあったり、余白に後で付け加えたような走り書きがしてあったりと、記した者の全てが押し込められたようなものだった。
「こんなにボロボロになるまで読んで……」
一どれほど頁を捲ったのだろう。紙自がすり切れて薄くなっている。
「たった一人でどれだけの間……」
思わず、本を摑む萬里の手に力がる。
「……亞妃様……アイツのことが好きですか」
「あいつ……とは……」
そこまで言って、亞妃は萬里の言葉の意味を理解する。
瞬間、ボンッと日を吹いたかのように顔を真っ赤にする亞妃。
「ななな、なっ、ぁ……、それは、あ、あなたには関係のないことでしょう!?」
実にわかりやすい反応に、萬里は苦笑してしまう。
仮にも皇帝の妃だというのに、よくこうも気持ちをダダれにさせるなと。
そして同時に、一つの確信を得る。
月英は、あの件に関して、様々な人が関わっていると言っていた。
もしかすると、よく芙蓉宮を訪ねていたし、彼が様々なの人の一人かと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
萬里は手の中の本に視線を落とし、そして逡巡するように橫へと流す。
「もし……もし、アイツが……」
「月英様がどうかされました?」
亞妃の何も知らないといったキョトンとした顔を見て、萬里は口をつぐんだ。
自分は一何を言おうとしていたのか。
恐らく亞妃は、月英にとって初めてできたであろう同の友人というもの。
月英と亞妃とでは向ける好意の種類が違う。だがそれでも、どうかを知ることがあっても離れないでいてやってほしい――そう言いそうになった。
「いや……何でもないですよ」
手の中で、すり切れたボロボロの本の重みが増した気がした。
そんな萬里の様子を、亞妃は目に捉える。
「……何を仰りたいかは分かりませんが、もし月英様が裁かれるような事態になれば、わたくしが持てる全ての力を使い救うつもりですから。ご心配なさらず」
萬里は目に驚きをわにし、亞妃を凝視した。
あまりに目を見開いて見るおのだから、亞妃の方が「なんですの」と気まずそうに咳払いをする。
「それより、あなたは人のことを気にしている余裕がありまして? 今頃、月英様は王都を駆け回っておられますわよ」
その言葉に、萬里は止まっていた自分の手にハッとした。
悩んでいる暇などない。
自分が心配することでもない。
今は、自分がやるべきことだけをすべき時だ。
「負けてられませんわね?」
萬里の心を読んだように亞妃が発破をかけた。
その口元は、片方だけがつり上がっている。
普段月英には見せないような毒のある笑みに、萬里は一瞬面食らっていたが、つられたようにして彼も口端を片方だけ深くつり上げた。
「當然!」
萬里は駆け寄るようにして竈へと向かうと、雫がなみなみと溜まった玻璃瓶を手に取った。
「さて、今度こそ功しててくれよ」
それぞれの場所でそれぞれの戦いが始まっていた。
◆◆◆
「何だか、すっかり火が消えたみたいね」
春廷がぼそりとこぼせば、周囲にいた醫達の背が丸くなる。
醫薬房の隣にできた真新しい香療房。
先日までは、賑やかさがこちらまで響いてきていたというのに、今は噓のように靜まりかえっている。
「お前の弟の姿も見ねえし、どこに行ったんだ」
香療房を寂しそうな目で見やる春廷の元に、豪亮も香療房へと顔を向けながらやってきた。
「さあ……朝と夕にはちょっといるみたいだけど、その他はどこで何をしてるのやら……」
香療房の扉は固く閉ざされ、今は全てが空っぽになっている。
確かに、仕事道の一切がなく、使用止となればいても仕方がないだろう。
「家には?」
春廷は眉を下げて首を橫に振った。
「元々舎住まいだったし。そっちに戻ってるんなら良いんだけど……どうかしらね」
「まあ、萬里はしっかりしてるし大丈夫だろうさ。問題は……月英だよな」
二人の間に沈黙が流れた。
上手く言葉が浮かばない。
そうしていると、不意に円窓の外から何とも哀愁漂う聲が聞こえてくるではないか。
その聲は人のものではない。
「にゃぁ~ん」
「ぶみゃっ」
聲の主は太醫院裏の住人、いや、住貓のものだった。
「あらあら、貓太郎に貓」
窓から顔を覗かせれば、麓には貓がちょこんと仲良く並んで座っている。
春廷が手を差し出せば、真っ先に貓太郎が指先を小さな舌で舐めた。しかし、何の味もしないと分かると、すぐにそっぽを向いて再び腰を下ろす。
「友達がいなくなっちゃって寂しいわよね、アンタたちも」
「飼い主じゃねえんだな」
「どう考えても、この子たちの方が賢いでしょ」
豪亮が「確かに」とクツクツを鳴らして笑っていた。
「こいつらの方が、付き合ってやってるってじだったもんな」
いつも月英が裏に來ると、ヤレヤレと言った様子でどこからともなく現れる二匹。月英に頭をで回されようが、腹を吸われようが、泰然としてされるがままをけれている。
月英は自分が庇護していると思っているが、しかし、こうして月英がいなくとも、間に一人分の空間を空けて座る貓たちを見れば、どちらが面倒を見ているのか。
「貓すらこうして待ってるって言うのに……」
「どうにか助けになってやりたいがなあ」
「先に呈太醫に釘刺されちゃったものね。それに接見止令まで出てるんじゃ、とても何かをって狀況じゃないわよね」
「……悔しいな」
ほぼ息だけで呟かれた無音の聲は、皆の心を代弁するものだった。
「とりあえず、お前は弟のことを気にしてろ。月英と同じ香療師だ。何か一人でやろうとしてるのなら、史臺に目を付けられる前に止めてやれ」
豪亮は春廷の薄い肩を、対照的な分厚い肩でどついた。
「早く、あのうるせぇけど賑やかな日に戻ると良いな」
「ええ、そうね…………ところで、豪亮」
春廷は豪亮の抱えているものに目を向ける。
「その手に持った盥《たらい》と、重そうな麻袋は何かしら?」
見覚えのあるを持った豪亮に、ニヤと細めた目を向ける。
それに対し、豪亮もニヤと口端を深くつり上げた。
「ああ? だってこれは俺の仕事だろうがよ」
「あっは! そうね! ええ、確かにそうだったわね」
分かってはいたが、自分の仕事と言い切る豪亮に、思わず笑いが噴き出してしまった。
彼は毎度毎度「俺を重石にすんな」と言っていたはずだが、案外重石生活が気にっていたようだ。
「さて、それじゃあワタシも出來ることをしましょうか」
貓太郎と貓が応援するかのように鳴いた。
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