《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》一 旦那さんと両想いの効能 (1)

葉《よう》がつぐみと結婚してから、二度目の年が明けた。

葉が毎日手れをしている庭には、たくさんの水仙が花を咲かせている。水仙の澄んだ香りが葉はすきだ。一月のぴりっとした朝の空気によく似合うと思う。

漂う香りに目を細めて、鉢植えの花に水をやっていると、縁側のほうから軽い足音がしてきた。きっとつぐみだ。振り返ると、なぜかいると思った場所につぐみはおらず、半分閉じた障子戸にを隠していた。でも、影が映っているせいで、まるみえだ。

「つーぐちゃん」

如雨を置くと、葉はかくれんぼしている奧さんの名を呼んだ。

「かくれんぼ?」

「……そうじゃないけど」

障子からすこし顔をのぞかせたつぐみは、グレージュのドレスを著ていた。清楚なのあるレーススリーブが肩から腕を覆い、シフォン地のプリーツスカートがふんわり畳にひろがっている。和室にはあまりそぐってなかったが、めいた容貌のつぐみには似合っていて、妖みたいにかわいい。

「その、へんじゃない?」

「うん。妖みたいにかわいいよ」

思ったことをそのまま口にすると、つぐみは瞬きをし、頬を林檎のように染めた。

「な、なにを言ってるの!?」

「え? だから、妖みたいに――」

「もういいから。君の目がへんなのはよくわかったから」

耳まで赤くして、ぷいっと視線をそらすつぐみに軽くわらい、こめかみにくちづけた。躾がされた犬らしくちゃんと「待て」をしていると、あれ、もう終わりなのかな? というふうに、つぐみがそわっとする。目が合うと、頬をゆるませているのがばれて、むっと顔をしかめられた。

「き、キスはもうおしまい」

「えー」

「ほら、はやく君も著替えて。家を出る時間になっちゃう」

「俺はスーツ著るだけだもん。あ、水やり終わったら、つぐみさんの髪やるね」

もうすこしつぐみといちゃいちゃしたかったけれど、今日はつぐみにとって大切な日なのでしかたない。鉢植えの水やりを終え、外に干していた布団を取り込むと、そのあいだに化粧を終えていたつぐみの髪をちゃきちゃきと結う。

今日の髪型は前々からふたりで決めていた。參考にするヘアスタイルをスマホで確認しつつ、サイドから編み込んだ髪をアップにして真珠の髪留めをつける。すこし殘した髪はヘアアイロンでくるんと巻いて肩に流した。

つぐみが慣れない手つきで髪留めとひとそろえのイヤリングをつけようとしたので、「貸して?」と代わりに手に取って耳につける。

ちゃぶ臺に置いた鏡越しに見たつぐみはとてもかわいくて、きっとシンデレラをかぼちゃの馬車に乗せた魔法使いってこんな気持ちだったんだろうな、と葉は思った。もちろん、つぐみは灰はかぶってないし、もとからとってもすてきな葉のお姫さまだ。

お姫さまの支度は終えたので、自分のほうも例によって例のごとく著られているが強いスーツに腕を通す。丈は自分に合っているわけだし、姿勢とか気概の問題かな、と思って、とりあえずびしっとしてみたのだけど、もともとびしっとした格じゃないので、だれ?ってかんじがした。もはや葉という人間とスーツの相が絶的にわるいとしか思えない。

とはいえ、今日の主役は自分じゃないので、浮いていなければべつによい。

今日は十二月に行われていたハルカゼアートアワードの祝賀會だった。

年明けに選考の結果が出たので、その表彰と參加者や関係者の流會が行われるそうだ。つぐみは參加者枠で、葉はいちおう関係者枠で招待されている。つぐみはともかく、葉はほんとうに厚意で呼んでもらったかんじだ。

大勢が集まるパーティーがつぐみは得意ではないようで、昨晩から憂鬱そうにしていた。會場であるホテルに著いてからも、五分おきくらいに「へんじゃない?」「おかしくない?」と真剣な顔で訊いてくる。そのたびに「かわいい」「妖みたい」「お姫さまみたい」と葉は言葉を盡くした。葉にとっては素直な気持ちを伝えているだけだし、言っても言っても足りないくらいなので、苦でもなんでもない。

「き、君も……」

「うん?」

「とてもすてきです。今日はスーツ似合ってるね」

付でなまえを書いたあと、つぐみは葉に向けてほんのりわらった。

思わぬ笑顔に葉がときめきの銀河のかなたに飛ばされていると、つぐみはそれまでぎゅーっと握りしめていた葉から手を離し、決然と顔を上げた。背筋をまっすぐばして、まばゆいばかりの照明が輝く會場へ一歩を踏み出す。

つぐみは姿勢がきれいだ。歩きかたもきれいだ。

だから、顔を上げてまっすぐ歩いていれば、それだけでひとの目を惹く。

「あ、『ツグミ』……」

きづいた関係者のひとりが、つぐみに聲をかける。

つぐみはちっとも怖じなんてしていないふうに、相手の目を見つめて挨拶する。ふわりと水仙の花みたいな微笑が咲いた。さっきまで自分だけのものだった笑顔が向けられたことに、ちょっぴりのさみしさと、誇らしさのようなものがり混じる。

こんなにすてきなお姫さまをみんなにも好きになってほしいし、反面、木造平屋の奧の誰も知らない場所にずっとずっと隠しておいてしまいたくもなる。つぐみの背中を見送る葉はなんだか複雑だ。

ハルカゼアートアワードで、つぐみは最優秀賞を逃した。

會場にとくべつに展示された參加者たちの絵のなかに、暗い調の背景に蝋燭がひとつ燈された絵を見つけ、葉はそのまえで足を止めた。

よく見ると、暗い畫にはつぐみの得意技である刺繍のような超絶技巧の植たちが金や銀の筆で表現されている。だが、主役はそこではない。燭臺に向けて、火を傾けた男の手。今、火をれるその瞬間を描いた絵のようだ。

タイトルは「祝福」。

いままでのつぐみの絵とどこかちがっているのは葉もじた。

いつもの完璧に磨きあげられた世界とちがって、隙があって、ほころびがあって、代わりにゆるしと匂い立つようなぬくもりがある。

絵の評価は選考委員だけでなく、鑑賞者のあいだでもまっぷたつに割れたようだ。

――こんなのはツグミじゃない。テーマが陳腐になった。退化している。そんなことない、わたしはすきだ。ツグミの作品で、いちばん、すきだ。

選考委員のひとりが推したこともあり、つぐみは特別賞を賞した。

最優秀賞の特典である個展をひらく夢は逃したが、代わりに葉でもなまえを知っている児文學の作家がつぐみの絵をいたく気にり、出版社を通じて今度出す絵本の裝畫を頼めないかと依頼をしてきたらしい。さほど悩むことなく、つぐみはそれを引きけた。すこしまえに作家とつぐみの対談記事が寫真つきで配信されたこともあり、つぐみは今、一躍時のひとになっている。

なにしろ、それまでずっと年齢も別も出もすべて不詳だった「ツグミ」が、まだ二十歳になったばかりの若い畫家だったと皆が知ったのだ。表に出るのをずっといやがっていた彼が、どうして急に決然ときらびやかな場所に踏み出すようになったのか、理由は知らない。

最近のつぐみは側から輝くかのようで、ほんのすこしまえまで、をぎゅっとこごめて屋敷のうちに引きこもっていたのがうそみたいだ。葉のうぬぼれじゃなければ、つぐみは葉の叔母の一件から、なんだか変わった。意志を持って、はっきりと世界に対して対峙するようになった。正面からまっすぐ貫いてくる彼の眸は、抗いがたい引力を持ち、周囲の人間を魅了してやまない。

「最近のツグミって、もてもてだよなー」

つぐみがたくさんの人間に取り囲まれているのを、離れた壁際から見守っていると、となりにやってきた羽風《はかぜ》が肩を叩いて言った。パッションピンクの髪にかなり著崩したスーツを著ている。まさしくいま考えていたことを言い當てられて、葉は顔をしかめた。

「あいつさ、今売り出し中の畫家」

つぐみの左に立つ同年代の青年を指さし、羽風が耳打ちをした。

「あと、あっちはハルカゼアートアワードの選考委員。ツグミを推したやつだな。で、となりが『新風』のライター。ツグミの対談記事を書いたやつ。あとあっちはなんだっけな、確かどっかの畫廊のオーナー。販路開拓かな? それとあいつはハルカゼ展のスポンサー企業の若社長。最近、ツグミの絵を高値つけて買ったらしいぜ。いやー群がるなあ、ツグミもってもてー」

「ううううう……」

ほんとうは、左のあいつちょっとつぐみさんに近いとか、あいつさっきからつぐみさんを見すぎとか、いろいろツッコミたいことが多い。

とはいえ、つぐみは仕事としてあの場に立っているのだ。契約夫なんかがしゃしゃり出て、うちのつぐみさんにちかづかないでもらえますか、などと言えるわけがない。それはある程度貫祿があって財力もありそうな夫がやるからキマるのであって、葉がやると通整理のバイトにしか見えない。

「ツグミってあんたみたいな目を惹く容姿じゃないけど、よく見るとかわいい顔立ちしてるし、あとなんか獨特の雰囲気あるよな。対談記事で、ツグミにときめいたやつ、男問わず多いぜー」

「で、でも、つぐみさんは既婚者なので! 仮でも俺という夫がいるので!」

契約だろうがなんだろうが夫は夫だ。

わざと葉がいやがることを言ってくる羽風をしっしと追い払っていると、

「あれ、もしかして君……」

つぐみの取り巻きの端っこにいた男が、葉にきづいて聲をかけてきた。

「やっぱりそうだ。君ってほら……『嫉妬』くんでしょ?」

不名譽なあだ名に、となりにいた羽風がぶーっと噴き出した。

「嫉妬」というのは今回、ハルカゼアートアワードで最優秀賞を取った羽風の作品のタイトルだ。

題名のとおり、不細工な顔をして斜め橫をむすっと見ている葉が描かれている。

自分で言うのもなんだけど、顔だけはいいってよく言われるのに、そのよさはかたなしの不細工な表だ。

でも、これが選考委員たちには絶賛だった。なんでも、普遍的でありながらどこまでも一個人の深部に迫る一瞬の表の切り取りが神業とか、あえて人の大アップで挑戦する潔さに將來じるとか、うんぬんかんぬん。

葉が関係者として祝賀會に招待されたのは、最優秀賞作品である「嫉妬」のモデルだったからである。つぐみが描いた「祝福」に出てくる「葉」だからじゃない。

羽風が描いた「嫉妬」はぶさかわの表がいいと鑑賞者たちにも評判で、販のステッカーやTシャツはすでに完売したらしい。ちなみに葉はタイトルにちなんで「嫉妬くん」というあだ名で呼ばれている。不本意極まりない。

「選考委員のあいだでも話題になってたんだけど、あれって何に対する『嫉妬』なの?」

「ちがいますから。あれは羽風くんが勝手に描いただけで」

つぐみにだけは嫉妬深い男だなんて思われたくない。

しかも現在進行形でわりと嫉妬している。罪深い。

「羽風くんの同級生?」

「そーです、そんなもんです。こいつ、こんな顔してめちゃくちゃ嫉妬深い男なんですよ。おもしろいでしょ?」

「もう黙ってってば」

羽風の口を手でばこっと押さえていると、周囲からは「仲良しだなあ」と微笑ましげな笑い聲が上がる。唯一、つぐみはなんとなく機嫌がわるそうにそっぽを向いた。つぐみは羽風をやたらライバル視しているので、機嫌を損ねたらしい。ほんとうに邪魔しかしない鳥類だな!

やがてはじまった祝賀會は、主催者の挨拶のあと、各部門の表彰とスピーチが続いた。

最優秀賞の羽風は持ち前のふてぶてしさで會場を沸かせたし、優秀賞のひとたちもそれぞれ卒がなかったり、笑いをえたりしてスピーチを終える。

最後に壇上にあがったつぐみは、背筋をばして堂々としていた。會場にはいるまえ、あんなに何度も「へんじゃない?」と不安そうに訊いていたのに、それが噓みたいに落ち著いた口ぶりで話す。來賓や関係者はつぐみの聲に聞きっていて、彼がきれいな姿勢でお辭儀をすると、拍手喝采になった。

「……あ、いた。葉くん」

歓談がはじまってしばらく経った頃、飾られた絵を見ていた葉のそばにつぐみが近寄ってきた。

つぐみの周囲に集まっていたひとたちは佩けたらしい。つぐみは対談記事以降、人前で顔を見せるようになったが、葉のことは公言していない。知っているひとは知っているけれど、つぐみ自からそれを発信する気はないようだ。それがつぐみの心配りだとわかっているけれど、ほんのすこしさみしい。――俺は鳥類じゃなくて、君のモデルなんだよ。

「葉くん、料理たべれた?」

「うん。ズワイガニのパスタと、ラザニアおいしかったなー。ソースがちょっと変わってて」

「お酒はのんでないよね?」

「えと、はい」

駄菓子研究部の打ち上げでの酔っぱらいかたがよっぽどひどかったのか、あれ以來つぐみは葉にお酒をのませようとしない。

絵が飾られているのは、立食式のパーティー會場とは別のブースだ。このあたりにはひとがあまりいない。

つぐみが肩にかけていたショールがすこしずれているのにきづいて、葉はそれをつぐみの肩にふんわりかけ直した。肩から腕にかかるレーススリーブから、微かにつぐみのけている。もっと肩や背を出したドレスを著ているも多いので、つぐみはかなりつつましやかな服を著ているといえるけれど、なんだか葉は落ち著かない。こういうところも「嫉妬くん」っぽくて自分で自分がいやになる。

振り切るように、絵のほうに目を戻した。

つぐみの「祝福」は抑えたライトの下で、ひっそりと側から輝くかのようだ。

「絵、さっきも見てたね」

「うん。すきだなって」

つぐみに対してはまだ言えない「すき」が絵に対しては簡単に口にできる。

「子どもの頃の……」

ぽろりと続けてしまった言葉に途中でしまったと思った。

慣れない會場の熱にあてられたのか、普段なら言わないことを口にしてしまった。

「ごめん、なんでも――」

「子どもの頃の?」

靜かに続けられて、しかたなく続きを口にする。

「……かあさんの膝のうえで寢てた頃とか思い出す。あったかくて……夕ごはんの香りとかして、ほっとしたなあって」

「葉くんのおかあさんって――」

「ええと、うん、小學一年生のとき病気で……。もともと弱いひとだったから」

口早に話を終える。言ったあと、やっぱり無神経だったかもしれないと思った。父親の話じゃないけど、母親のことも、葉の家族の話なんてつぐみにとっては、拐のときのいやな記憶としか結びついていない。あまり聞きたくなかったかも……。

「聞かせてくれて、ありがとう」

葉の心を読んだようなタイミングで、つぐみがはっきりと言った。

となりのの子の目は「祝福」に向けられている。

その橫顔を見ていると、がきゅうっと切なくなった。

変わっていくの子の、でも変わらないもの。つぐみの他者を寄せつけない芯の強さが葉には今も昔もまばゆい。お姫さまのきらびやかな舞臺での功を願いつつも、つぐみのこんな眼差しや言葉は誰にもあげたくないし、自分だけのものであってほしいと願ってしまう。この先もずっと……ずっと。

なんだかだいそれたことを願っているみたいで、心臓の裏のあたりがひやっとしてくる。周囲にひとがいないことを確かめてから、そっとつぐみの手を握った。

――俺の話を聞いてくれてありがとう。

口にしたいけれど、うまく言えない。

でも伝えたかった。かあさんの話を聞いてくれてありがとう……。

ちいさく指をふるわせたあと、つぐみは何も言わずに葉の手を握り返してきた。

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