《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》一 旦那さんと両想いの効能 (2)
鹿名田《かなだ》家に帰宅する頃には、夜がどっぷり更けていた。
郵便けにっていた手紙類を取り出して、ドアをあける。葉《よう》とちがってつぐみは數杯カクテルをのんでいるようだったけれど、足取りはしっかりしている。ただすこし眠そうだった。
「あ、如月《きさらぎ》から二次會の招待狀きてる」
「いつ?」
「再來月末かな」
「ふうん。葉くんも行く?」
そのくちぶりをちょっと意外に思った。「葉くんも」ということは、つぐみのなかでは彼自は行くことを確定させているらしい。
こういうひとが集まる場所は苦手そうなのに。でもそういえば、すこしまえにデパートで如月に會ったって言っていたから、如月に対して何か心境の変化があったのだろうか。いや、つぐみはもとから如月がすきすぎだけど。
「君が行くなら行こうかな」
「ふうん……」
自分から行くか聞いておいて、つぐみはなんだか不満そうだ。単純に眠いからかもしれないが。
洗面臺でもたつきながらイヤリングを外しているつぐみにきづくと、髪からバレッタやピンを外すのを手伝い、背中からおなかに手を回す。つぐみと葉は結構長差があるので、ふんわり腕を回しただけで、つぐみを囲ってしまえる。くっつくと、いつもとちがう甘い香りがほのかに香った。華やかな場なので、きっと香水をつけていったのだろう。
「お風呂一緒にはいる?」
頭に顎をのせて尋ねると、薄い肩がぴゃっと跳ね上がった。
「無理、無理!」
「えー」
「かわいく言っても無理だから」
もぞもぞと葉の腕から抜け出し、洗濯機と洗面臺のあいだに逃げられる。
かわいすぎだけど、べつにこわがらせたいわけではないので、つぐみにあわせて葉はしゃがんだ。つぐみも協議の席につく気はあるようで、それ以上は逃げずにちょっと呆れたふうに息をつく。
「君は意外とひととくっつくのがすきだよね……」
「ひととくっつくのじゃなくて、つぐちゃんにくっつくのがすきなんだよ」
誰彼かまわずくっつくのがすきみたいに言われるのは心外である。だって、羽風《はかぜ》なんかべつに近寄りたくもない。
「つぐちゃんはいや?」
「……い、いやじゃない、けど」
「そっかー」
「どうしてうれしそうなの?」
「君もいやじゃないって言ってくれたから、よかったーって思って」
適切な距離を守って「待て」を続けていると、つぐみはそろそろと洗濯機の側面から出てきた。しばらくこちらをうかがったあと、自分から首に腕を回してくる。つぐみはなんだか人慣れしない貓っぽくて、じわじわとちかづかせるのが楽しい。うれしくなって、葉はつぐみを抱きしめ返した。いつもより溫が高い気がするのは、酔いのせいだろうか、眠たいからだろうか。
「い、一緒にるのは無理だから」
「うん、うん」
「お風呂上がったら、わたしの部屋に來て。い、一緒に寢よう?」
「はーい」
「でも、今日はとなりで眠るだけだからね」
「うん、疲れちゃったもんね」
つぐみはいつも「無理」と言ったあとにも代替案を考えるからえらいなあと思う。ちょうどお風呂ができあがったことを告げるメロディが流れたので、葉はつぐみに一番湯を譲って洗面所から出た。
肩が凝るスーツをいで、パーカーにスウェットの部屋著に著替えると、さっき取ってきた郵便を仕分ける。つぐみの仕事関係の書類に、ガス料金票、近所のスーパーのチラシ、児養護施設からの手紙はあとで読むためによけておく。本郷《ほんごう》家の霊園管理料納付のお知らせ。こんなものをつぐみに見られたらたいへんだと、ひやっとしつつ、児養護施設の手紙の下へ。
それから、如月からの二次會の招待狀。
日にちや會場の確認をしつつ、ふと自分とつぐみは結婚式だって當然していないし、婚約指はおろか結婚指だってつくっていないのだと今さらきづいた。
結婚にあたって、葉とつぐみがしたことといえば、婚姻屆を書くことくらいで、それだって葉がひとりで役所に提出しにいった。あとは免許証とか保険証の氏名の変更屆。そっちは葉がひとりでやった。
冬のあいだはちゃぶ臺に裝備されるこたつに足をれると、充電中のスマホをオンにして、試しに結婚指の相場を調べてみる。
結構高い。葉の雀の涙のような貯金でぎりぎりだろうか。もちろん、押しれのなかの三千萬円を使えば、どんな指だって買えるけれど、あれはもうこの先も使わないと決めている。
自分でも手が屆きそうな価格帯の結婚指をいくつか見繕ってから、いやなんかちがうな……と思い直して畫面を落とした。スマホをもとの位置に戻すと、畳のうえにごろりと橫になる。
べつに結婚指がほしいというわけではないのだ。
だって、所詮ただの指だ。葉の薬指には、つぐみがずっとだいすき、という見えない指がはまっているから、あらためてかたちにしなくたっていい。でも……。
――一秒も忘れたことはない。
つぐみは……勘違いじゃなければ、つぐみは……。
葉をゆるして、葉を想ってくれている。
つぐみの誕生日の夜にそれを知ったとき、葉はこめかみが痺れて、中がふわふわになってしまうくらいうれしかった。つぐみになまえを呼ばれると、蜂みたいに甘くて、しあわせで、なんだかそのあとのことをあんまり覚えてない。いや覚えているけど、理がふにゃふにゃになっていたので、ぼーっとしか覚えていない。
あんまり自分に都合がよすぎたので、もしかしたら夢を見ているのかも、と何度か思った。実は現実の自分はもうつぐみに捨てられていて、これは自分の未練が見せている夢とか……。
でも朝、目が覚めるたび、つぐみはちゃんととなりで寢ていて、起きると「葉くん」となまえを呼んでくれる。そのたびにびっくりして、ちょっと泣きたくなってくる。しあわせすぎて、緒不安定なのかもしれない。
結婚してから一年以上、ずっと別々だった寢室は、あの夜からつぐみのシングルベッドにふたりでぎゅうぎゅうくっつきあって眠るか、葉のひとりぶんの布団で腕や足をすこしはみ出させながら眠るかに変わった。何もしなくても、ひとりぶんの寢にくっつきあって眠っている。まるで子どもの頃みたいに。
つぐみの心はたぶん今までででいちばん近い場所にある。くっついて眠っていると、手でれて、溫度も確かめられるんじゃないかと思うほど。
でも、たとえばふたりで並んで寢てもだいじょうぶな、ダブルサイズのベッドを買おうかとか、これからはふたつ布団を並べて寢ようよ、みたいなことは言えないのだった。
どうしてだろう。よくわからない。ほんとうの夫婦みたいなことになるのが、なんだかこわいのかもしれない。だって、ダブルサイズのベッドなんか買ってしまったら、あしたで契約期間終了ね、なんてなったときにお互いこまる。
そしてそれは葉がつぐみに――、かわいいって、妖みたいだって、君の絵がすきだって、たくさん「すき」を言えるのに、でもどうしても、君がすきなんだって、俺は君がいとおしいんだって、肝心なことを言えないのに似ている。
ほんとうは言いたい。
でも、すきという言葉は劇薬で、たくさんのことが変わってしまう気がする。勝手に変えていいのかわからない。でも、俺は君がすき。君が引く手あまたの畫家になっても、スポットライトの下で凜とスピーチをするのが似合うひとになっても、周りにひとがたくさん集まるようになっても、いつかドアをひとりでひらけるようになっても。ならなくても、なっても、俺は君がすき。
でも、つぐみはどうなんだろう。つぐみの世界には今やたくさんの選択肢があるのに、きっとこれから発的に増えていくのに、それでも葉のこと、選んでくれるだろうか。
そんなことを考えるとき、葉はダブルサイズのベッドなんて言い出すこと自に躊躇してしまう。べつにかなしいことじゃないので、忘れる。でもときどき思い出す。
――俺とあの子はずっとこのままでいいんだろうか……。
考えていると、お風呂から上がったらしいつぐみが「葉くん?」とドライヤーを片手に聲をかけてきた。つぐみの髪を乾かすのは、葉がだいすきな仕事のひとつだ。
ほっと笑みを浮かべて腰を上げると、「貸して」とつぐみのドライヤーに手をばした。
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