《お嬢さまと犬 契約婚のはじめかた》二 奧さんとちび姑の襲來 (4)

市街地を抜けると、なだらかな水平線が車窓いっぱいにひろがった。

緑がかった穏やかそうな海は、故郷の九十九里浜の海にも似ていて、おなじ太平洋だからだろうか、とつぐみは助手席で考える。

白い羽をひろげた海鳥が悠々と空を飛んでいる。しばらく海岸沿いに走った車は、いくつか角を曲がり、やがて「うみねこ園」と看板がかけられたクリームの建が現れた。

「園長せんせー!」

駐車スペースに車を止めると、迎えに出てきた園長らしき初老のにピリカが飛びつく。いくらかお小言をしたようだが、初老のはほっとしたようすでピリカを抱きしめ返した。

うみねこ園は十五人程度の子どもが生活している中規模の児養護施設らしい。園庭でシーツを取り込んでいた中學生くらいの子どもたちが葉《よう》にきづいて、「あ、葉ちゃんだー」と手を振った。おおきなプラムの樹が園庭の中央に立って、のびのびと枝をばしている。野菜のなまえが書かれた畑らしきものも見えた。

「葉くんも三日間、ピリカの面倒をみてくれて、ありがとうね」

葉に話しかけた園長先生が、つぐみにもきづいて軽く會釈する。

たぶん年齢は六十は過ぎていると思うけれど、襟に刺繍のったセーターを著た先生は小柄で、小首を傾げるすがたは文鳥みたいだ。でも怒るとこわいと道中に葉もピリカも言っていた。

「そちらのかたはもしかして……」

「あ、俺の奧さん。前に話したことあるでしょ?」

「絵描きさんなんでしょう。はじめまして、うみねこ園の波多《なみた》です。葉くんからお話はうかがってます」

にっこり微笑みかけられて、「は、はじめまして……」とつぐみはまごまごと挨拶をする。

話っていったいどんな話をしたんだろう。まさか三千萬円で買われた話はしていないと思うけど、つぐみはふつうの結婚なら當然あるような、夫の友人に紹介されるとか、夫の実家にご挨拶をするといったイベントを通過せずにきたので、どきどきしてしまう。

今日はどちらかというと、墓の下の葉のご両親に挨拶をするということで頭がいっぱいだったので、落ち著いたグレーの無地のワンピースを選んで、化粧も軽く済ませたのだけど、余計に暗いに見えたかもしれない。

「普段はどんな絵を描かれているんですか?」

「あの、花とか……葉くんのとかを……」

「からだ?」

園長先生はふしぎそうな顔をした。

もしかしたら、モネとかターナーみたいな風景畫を想像していたのかもしれない。

「葉くんは、す、すごくきれいなので」

とりあえず自分が考える葉のよさを伝えようと試みた。

「もちろん、顔だけじゃなくて、えと、もっと側の……」

「――つぐみちゃん、さっきからへんたいみたいだよ?」

「ええっ」

ピリカに冷靜なツッコミをれられ、つぐみは愕然とする。

今そんなにおかしなことを自分は口走っていただろうか。なんで止めてくれないんだろうととなりの葉にちょっと非難がましい視線を向けると、口を手で覆ってもじもじしていた。

「どういう反応……?」

「だって、いきなりなんのご褒タイムかと……」

「き、君にご褒をしているわけじゃないです」

「もっと側の? ね、続きは?」

「その話はもう終わったから」

「――このように葉くんとつぐみちゃんはいつも、ところかまわずいちゃいちゃしているのです」

ピリカに雑にまとめられ、つぐみはそんな、と思ったけれど、園長先生はなぜかわらいだした。

「あなたにもそんなひとができて、なによりだわ」

「せんせーさ、ここから俺が出て行くとき、関係に気をつけなさいって言ったんだよね。ほかのやつは、貯金はちゃんとしなさいとか、毎日ごはんを食べなさいとかなのに、俺だけそれ。ひどかった」

「あなたはふつうにやっているとをだめにするから、にだめにされているほうがちょうどいいのよ」

文鳥みたいならしさで結構こわいことを言っている。つぐみは葉をだめにしてはいないと思うけれど……。

あいまいに首をひねっていると、「つぐみちゃんは天然だから」とピリカが言った。

「そうだピリカ、ねえさんたちに嫁の報告しないと」

そういえば、つぐみがほんものの悪が探る命があるとピリカは言っていたのだった。もし悪だって認定されたら、どうなるんだろう。そわそわしているつぐみにきづいたのか、ピリカはにっとわらって親指を立てた。

「嫁のあくじょ認定は保留とする!」

ということは、まだだめだと決まったわけではないらしい。

「よ、よかった……」とをなでおろしたつぐみに、「今後の嫁の働きに期待する」とピリカは大儀そうに顎を引いた。

「あ、待って、ピリカさん」

園の建ると、ピリカが階段をのぼっていこうとしたので、つぐみは肩掛け鞄のなかから、絵はがきサイズのフォトフレームを取り出した。

白のフォトフレームにはきのう描いたエトピリカの水彩畫がっている。オレンジをすこし上に向け、黒い羽をひろげて、今飛び立とうとしているすがたを描いたものだ。ひろげた羽が海面を映してあおみどりにひかっている。

「これあげる。エトピリカっていうなまえの鳥なの」

「エトピリカ……」

水彩畫を見つめるピリカの目がみるみる輝きを宿す。

「すごい、きれーい!」

「うん」

「これ、もらっていいの!? ピリカのものなの!?」

にフォトフレームを引き寄せ、ピリカはその場で踴り子みたいにくるくる回った。橫からのぞきこんだ園長先生が「まあ、きれいな鳥ねえ」と息をらす。

たぶん、ピリカも園長先生も知らないけど、つぐみが葉と植以外の生きものを描くのはすごくめずらしいのだ。これはそういうめずらしい絵だった。

でも、きのうタブレットで鳥図鑑を眺めながら、鳥の羽やおなかから首にかけての曲線や、きゅっとした橙の力強い腳を描いているとき、勝手に手がきだした。心の深い部分とリズミカルに共鳴するような、ふしぎな覚。今までにはなかったことだ。

つたなくても一枚を完させたとき、つぐみはずっと閉じていた扉の向こうから、細くひかりがしているのをじた。

きらきらと地面にひかりの粒が集まっただまりが生まれている。

れてみたくなった。あそこはとてもあたたかそうだ。

――あれはいったいなんだったのだろう。

「ピリカ、ねえさんたちにエトピリカを見せてくる」

フォトフレームを抱きしめたピリカが、跳ねるような足取りで階段をのぼっていく。踴り場まで上がったところで足を止め、おずおずとつぐみを振り返った。

「……つぐみちゃん、また遊びにいってもいい?」

「うん、いつでもおいで」

しっかり顎を引いて、つぐみは微笑んだ。

ちょうどお晝どきだったので、カレーライスをご馳走してもらってから、施設を出ることにした。施設の廚房スタッフが作ったのだという甘口のカレーは、葉が作るものと野菜のごろごろした切り方や味がそっくりで、廚房のおばさんたちに料理のしかたを教わったのだという葉の言葉を思い出した。

カレーを食べたあと、葉は園長先生に頼まれて、たてつけが悪くなった窓を直しにいった。ピリカが言うように、業者さんみたいに手際がいい。

ほれぼれと眺めていると、「教えたのはわたしの旦那なんだけど、ずっとうまくなっちゃったのよねえ」と園長先生がわらいながら教えてくれた。葉の背中に向けられた眼差しが誇らしげで、つぐみもうれしくなった。

「見た目より、中はずっと不用な子だけど――」

作業をしている葉には聞こえないように、園長先生はとなりに立つつぐみにそっと耳打ちしてきた。

「どうかよろしくお願いします。あ、でもいやになったらいつでも返品してね」

冗談なのか本気なのか、片目を瞑った園長先生に、つぐみはぶんぶんと首を橫に振った。

「ピリカ、つぐみさんにすごく懐いてたねー。結構人見知りする子なのに」

ふたりきりになった車で、暖房をつけながら葉が言う。

つぐみの膝のうえには、廚房スタッフが子どもたちとつくったというおはぎがのっている。あんこがたっぷりのったおはぎは、つぐみが知っているものより大きくてふっくらしていた。

「どうだろう。わたしが頼りないから、手心を加えてくれた気がする」

「手心って。敵じゃないんだから」

最初はいつもどおりの會話をしていたものの、そのうちうみねこ園が見えなくなり、車が再び海岸線沿いを走るようになると、葉は徐々に口數が減っていった。ふたりともなんとなく黙りこくったまま、車は小高い丘のほうへとのぼっていく。丘の頂上近くに霊園の専用駐車場があり、葉はそのひとつに車を止めた。

うみねこ園にいたときはじなかったけれど、今日は風が強い。

吹きつける風に車が大きく揺れ、「風つよいね……」と葉がぽつんとつぶやいた。

「やっぱりさ……」

「うん?」

「……いや」

歯切れ悪く言葉を濁し、葉はドアをあけた。

海が見晴らせる小高い丘に、段々になって墓地がひろがっている。

葉は駐車場を出たところにある無人販売所で仏花と線香を買い、手桶のひとつに水をれた。めずらしく、ほんとうに何も言わない。「持とうか?」とつぐみが聲をかけると、「……だいじょうぶ」と消えりそうな聲が返った。何気なく見た葉の橫顔が蒼褪めていて、つぐみは不安になってきた。

やっぱりさ、のあとに葉が続けたかった言葉がつぐみにはわかる。

葉は墓參りをやめたがっているのだ。道中もずっと、やっぱりと、やっぱりやめない?と、切り出そうとしてためらっているような間が何回もあった。はじめは続いていた會話がどんどんうわのそらになっていき、葉は何かを言おうとしてはやめるのを繰り返した。

苦悩が滲むそのそぶりが痛ましくなってくる。

十三年前のこと、ちゃんと向き合おうって、なかったことにしないようにしようって、つぐみは思ったけど、葉はまだそんな気分じゃないのかもしれない。わたしは葉がまだ見たくなくてれたくないことに無理につきあわせているのかも。そもそも、おじさんが眠るお墓にお參りさせてくれなんて、図々しいと思われたっておかしくない。葉はほんとうはうんざりした気持ちでいるのかも……。

「……ごめん、無理……」

絞り出すようにつぶやき、葉は急に道の真ん中で足を止めた。そのまま、ずるずるとその場にしゃがみこんでしまう。はずみに手桶の水が揺れて、半分くらいが砂利に吸い込まれた。でも、そんなことに気を留めたようすもなく、「無理、できない」と葉は繰り返した。かがんだつぐみが腕にれると、おびえたような目を向ける。

「どうしておやじのお墓なんか行きたいの?」

「……君はいや?」

葉がほんとうにいやがっているなら、それはするべきじゃない。

一年後でもいい。五年後でも十年後でも、葉がいいよって思ってくれるまで待つことにする。そう思って尋ねると、「いやってわけじゃ」とつぶやいて、葉はうなだれた。

「君がどうして墓參りなんて言い出したのかわからないけど……。君はあのひとに手を合わせたりしないでいい……ほんとうに、いい……。もう帰ろう? おやじが君にしたこと、ひどい……ゆるされないことだよ。俺もそう思ってるから、ほんとうにそう思ってるから……もうここにも來ないから……」

一生懸命、つよい言葉を使う葉につぐみもかなしくなってくる。

「どうしてそんなことを言うの?」

「だって……」

目を見て話したかったのに、葉は下を向いてしまった。

「君はそのせいで……いまも……。ドアを……」

「わたしがドアをあけられないのは、誰のせいでもないよ」

「それは、君がやさしいひとだから……」

ああ、そうか、とようやくつぐみはきづいた。

つぐみがドアをあけられないこと、葉は奏《そう》や自分のせいだと思っているのだ。が締めつけられるように痛んだ。ずっと……そんなことを思いながら、つぐみのそばにいてくれたのか。せつない。目のまえでうなだれている男の子を抱きしめたかった。でもそれは、つぐみがやさしいひとだからじゃない。

葉が安心できるように、だいじょうぶだよ、わたしもうドアをひらけるよ、君はなんにも後ろ暗く思うことなんてないんだよって言ってあげたい。

祈るように、つぐみは道の脇にある休憩所のドアを見た。

でも、ひらける気はぜんぜんしなかった。

つぐみの指先は固く強張っていて、あのぺらぺらの木製の扉を押しひらくことを考えただけでも、手がふるえた。どうしてこんなに自分のことなのに、うまくできないんだろう。わたしがドアをあけられたら、ぜんぶ解決するのに。ぜんぶうまくいくのに。でも……葉はつぐみに一度だって、また扉をあけられるようになったらいいね、なんて言葉をかけることはなかった。

泣きそうになったけど、どうにかこらえて、代わりに葉の背中をでた。

葉はずっとがんばっていた。つぐみと一緒にいるの、葉は楽しいだけじゃなかったはずだ。毎日、家の閉まっているドアがないかをチェックして、閉まっていたらちょっとずつあけて、つぐみができること、できないこと、一生懸命知ろうとしてくれて、自分の両親の話はしないように気遣って、迎え火のときだってキュウリの馬におとうさんは乗せられない。でももういやだなんて投げ出さないで、ずっとずっと、わたしの心を守ろうとしてくれた。

それは熱烈なの言葉よりずっと、つぐみの心の奧底を強く叩いた。

なにもきづかないで、ごめんなさいと思う。くるしい。でも、あたたかい。

くるしくて、あたたかい。

「うん、わかった」

つぐみはしっかりうなずいて、葉の背中をもう一度でた。半分中がこぼれた手桶をつかむと、水道があった場所まで水をれて戻ってくる。

「いこう?」

自分から手をばすのにはいつも勇気が要る。一杯ふつうに見えるようにしたけど、指先がやっぱりふるえてしまった。葉は眼前に差し出された手をすこしのあいだ見ていたが、やがてそぅっと両手で握ってきた。

「――あの、だいじょうぶですか?」

道の真ん中に座り込んでいる葉とつぐみを心配したらしい參拝者が聲をかけてきた。

「救急車とか……」と端末を取り出したふたり組に、「だ、だいじょうぶです」とこたえて、葉が腰を上げた。涙の滲んでいた眥を拭うと、花を抱え直す。

いまのひとかっこよかったねー、でも泣いてたー、とか言い合いながら立ち去っていくおねえさんたちに居心地わるそうな視線を向けて、うう、と葉がいた。

「いきなり座りこんじゃってごめんなさい……」

「うん」

「手桶の水も……」

「汲み直したからだいじょうぶだよ」

「ごめん……えと、ありがとう」

「うん。――葉くん、君が昔よくつくってたカレー、おじさんは豚と鶏どちらがすきだったの?」

「え? あ……鶏かな。でもだいたい無しだったし」

突然投げかけたからか、葉はあまりかまえずに答えてくれた。

「君はおがあるととっても喜んでいたよね」

があるのとないのじゃ、味がぜんぜんちがうんだよ……」

「ふふっ」

手をつないで歩いていると、自然と目が合った。

「君がすきなものとか、すきなひとの話、もっと聞かせて。すこしずつでいいから。わたしは君がすきなものの話を聞くと、しあわせになるから。ほんとうだよ」

「……はい」

いつの間にか本郷《ほんごう》家のお墓についていたらしい。

葉がお墓の周りに生えた雑草を抜くのを手伝い、墓石に手桶の水をかけて清める。それから、花挿にったままの枯れた仏花を抜き、水をれて、新しい花を挿す。

線香に火をつけると、並んで手を合わせた。

――奏さん、春香《はるか》さん。

つぐみは心のなかで葉の両親に呼びかけた。

わたしのこと、恨んでいますか。

葉くんのまえに現れて、葉くんを苦しめて、でもまだ葉くんがすきで離れられないでいるわたしのこと、忌々しく思っていますか。あなたがたの息子さんは、ほんとうはわたしじゃないひとと一緒にいたほうが、こんな苦しい思いなんかせずに済むのです。でも、わたしが両手で引き留めてしまった。

おじさん、わたしはほんとうはあなたのこと、ちっとも恨んでなんかいないんです。だって、わたしの人生は葉くんに出會ったときにはじまったから。みんながそれはへんだ、おかしいって言っても、ぜんぜんかまわない。だって、わたしにとって、それがい頃からたったひとつの「ほんとう」だった。

おじさん、おばさん。

わたしは至らない人間で、すぐに葉くんを傷つけてしまいます。

葉くんはたくさんのことにきづけるのに、わたしはそれらをぼんやり見落として、葉くんが傷ついていることにもすぐにきづけないような鈍なところがあるのです。

でも、大切にしますから。

失敗したら謝って、手が離れたらつなぎなおして。

何度でも、何度でも。わたしが勇気を出すから。

だから、どうか葉くんをわたしにください。

だめなら、今ここでわたしに雷を落としてください。

おねがいします……。

おねがいします、ともう一度願ってから、そっと目をあける。

濡れた墓石の向こうには、晴れ渡った空がひろがっていた。

春のぬくみを帯びはじめた風が頬をでる。同じように目をひらいた葉がつぐみのほうを見た。せつなそうに目を細めている男の子に微かに笑んで、それからどちらともなくまた手をつないだ。

*…*…*

新調したキャリーケースに替えの服、化粧品、タオル類、それに黒柴の抱き枕をぎゅうぎゅうと詰め込む。これはキャリーケースその1で、畫材がったキャリーケースその2はすでに葉が玄関へ持っていった。

「つぐみさーん、鮫島《さめじま》さん來たよー」

聲をかけられ、「はあい」とつぐみはふたを閉じる。ごろごろとキャリーケースを引いて玄関に出ると、外に鮫島のポルシェが止まっているのが見えた。

「はい、道中のお弁當。それに水筒とおやつ」

遠足よろしく用意する葉にちょっとわらって、ふたりぶんのお弁當と水筒とおやつがったエコバッグをけ取る。

つぐみは今日から一週間ほど、鎌倉の青浦禮拝堂に赴いて、絵の制作を行う。すでに下図は終えているので、あとは彩の作業だ。

いつもなら家の離れにこもって制作をするのだけど、今回はあの波音を聴きながら完までの作業を行おうと決めた。ただ、つぐみにはドアに関する問題があるので、依頼人である牧師の橘川《きっかわ》には事前にそのことを説明してある。

そして、今回の作品のいつもとちがう點はもうひとつ。

――青浦禮拝堂の絵は、君をモデルにしない。

下図の段階のときに、葉にはきっぱりと告げていた。

橘川は「花と葉シリーズ」でもそうでなくてもいいと言っていたが、つぐみは葉とはちがうものを描こうと思った。これまでは葉以外のものを描こうとすると、モチーフがちらばって、ぜんぜんまとまらなかったのに、今は側から泉のようにあふれてくるものがあった。あれを描こうと思った。あれを描きたいと思った。

モデルにしない話をすると、葉はあからさまにショックをけた顔をしていたが、「わかった……」と最後にはうなずいた。基本的に葉がつぐみがすることに反対したり、無理にやめさせることはない。

「葉くん」

葉がひらいたガラス戸から外に出たつぐみは、キャリーケースの取っ手をつかんで葉と向き直った。梅の花の香りがどこからかする。あとすこししたら、長い冬が終わる。君と再會した春がやってくる。

「あのね、わたし、この絵を描き上げたら、君に伝えたいことがあるの」

白い息を吐き、つぐみは宣言した。

「がんばるから、聞いてくれたらうれしい」

――わたし、この絵を描き終えたら。

葉くんにもう一度、プロポーズする。

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