《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》62話 ザカリヤは不潔(サチ視點)
ザカリヤはサチに罰を與えた。
無茶して死なれるのを怖れたのだろう。サチのを使って屋敷の周りに結界を張り、一歩も外へ出られないようにした。部屋にも鍵をかけ、ほぼ監狀態。料理はに作らせ、食事の時だけ部屋の鍵を開けさせる。
だが、わずかに與えられた自由も必要なかった。サチは部屋から出ようとしなかったのである。何も食べず、飲まず、ぼんやり天井を眺め続ける。魔人は食べなくても死なないと、ザカリヤから聞いていたとおりだった。飢はあっても耐えられる。
なるべく心を無にしようと、サチは心掛けた。しでも油斷すると恐ろしい景がまざまざと蘇り、神を蝕む。
サチはベッドに橫たわり、息をしているだけであった。黃ばんだ天井を眺めていると、既視がある。百日城で數週間意識をなくしている間の記憶かもしれない。心を失い、廃人のごとくベッドに寢かされていた時の……
永遠にこのままでもいいんじゃないかとも思った。余計なことをして、誰かの命を奪うよりはマシだ。自分はただ生かされているだけの存在。ジャンやエド……周りの人間に助けられ生きてきた。結局、一人では何もできず、誰も救えず。スヴェンにも助けられ、ザカリヤにも……
くだらない知恵が働くばっかりに驕り、傲慢にふるまっていた。無力でちっぽけな存在だというのに。
何日か過ぎ、サチの無気力は極限まで達した。十歳頃から十六までの過酷な期間。労働し、イジメにあっていたあのころですら、こんなにも自分が嫌になることはなかった。
奴隷となるはずだった無垢の命。十五人のエルフを死なせてしまった。ふたたび、負け犬となって悪魔の城から逃げてきたのである。完全なる敗北だった。このトラウマは深く心に刻まれた。潔癖な格も相まって、サチはすさまじい自己嫌悪に陥っていた。
俺なんかどーせ──そう思うことで、どんどん無気力になっていった。自罰的に食事も摂(と)らない。考えもしない。ただ、息を吸って吐く。植と同じ。
そういう意味では罰といえども楽であった。自分を卑下すればするほど心は軽くなる。ただし、甘い傷に浸るほど腐りはしなかった。自分を嫌悪しても憐れまない。誰かのせいにして逃げるのなら、なにも考えないほうがましだ。
天井に塗られた漆喰のザラザラした細かい凹凸に目をこらす。それを追い続けるだけで心は空っぽになり、起きている間の時間潰しになる。
時はあっという間に過ぎた。慌ただしく働いていたころが、現実ではなく夢だったとさえ思える。
しかし、廃人生活の終わりは唐突にやってきた。
派手な音を立ててドアが開かれたのだ。平和な世界は一瞬にして崩れ去った。
サチは音に反応して、思わず飛び起きてしまった。
「さ、著替えろ。今日から始めるぞ」
ザカリヤだ。すぐにはけぬ鈍重なサチをザカリヤは叱りつけた。腕組みし偉そうに立つザカリヤを、以前のように罵ることがサチにはできなかった。
ぼうっとしているサチを目に、ザカリヤは遠慮なく簞笥(たんす)を漁りだした。以前のサチなら大激怒する案件だ。ザカリヤは適當に服を見繕って、ベッドへ投げ放った。
「ぼんやりするな! 著替えぬのなら、そのまま部屋から引きずり出すぞ?」
空っぽだった中になみなみと注がれる。新たな目的、価値観を。考える能力をなくしたサチはおとなしく命令に従った。従順なのは自我がまだ戻ってきていないからだ。
ザカリヤは著替えが終わるまで手伝いもせず、尊大な勢のままサチを見ていた。
サチは著替えている間にし、人間らしさが戻ってきた。部屋にこもってから數日行水もせず、顔も洗わず、歯も磨いていなかったことに気づく。潔癖癥には考えられないことだ。
「ザカリヤ、を清潔にしたい」
答えはNO。
「そんなの待ってられるか。これから汚れるんだからな? そのあとで綺麗にすればいいだろう」
「せめて、洗顔歯磨きくらいは……」
「オカマかてめぇは? ケチな奴だな、まったく。さっさと済ましやがれ」
ひどい言われようにも、サチは言い返さなかった。しかし、不潔なザカリヤにはわからないのだろうとは思った。ザカリヤは自分で風呂にろうとはしない。
支度が終わって、サチは數日ぶりに外へ連れ出された。
前に見た時と同じ、厚い雲に覆われた何もない荒野だ。屋より空気が淀んでいる。外だから気持ち良いということはない。塞ぎ込んだ気持ちは晴れなかった。
荒れ地を歩くことしばし。
「ここら辺でいいか」
ザカリヤはつぶやいて抜刀した。珍しく帯剣していたようだ。羽の付けを圧迫しないよう、背負っていたのである。例の黒い剣ではなく、ただの長剣。おそらく盜品と思われる。
「もたもたするな! 剣を抜け!」
ザカリヤは言うなり、襲いかかってきた。
サチは抜刀。強度にいまいち疑問のあるチンクエディアでける。
キィイイイイイン……
金屬音。これがスタートの合図。ザカリヤは息つく間もなく、打ち込んできた。
待ってくれと伝える余裕はなし。次から次へ來る猛攻には刃で答える。早い……ついて行くのがやっとだ。手加減しているのか?──
サチは殺されるのではないかと思った。それぐらいギリギリで避け続けている。火花が頬に當たる。一歩間違えば、を真っ二つに裂かれる。魔人だからすぐには死なないとしても、放置されれば呼吸は止まるだろう。サチの思考はのスピードに追いつかなかった。ベッドに橫たわっていた狀態からまだ抜けきれていない。
何もできない自分はもう用なし。だから、ザカリヤは殺そうとしているのだと──そう思うと、なぜ自分は避けているのか、大きな疑問符がつく。本能的に剣をけているが、これは間違い?
やっとその考えに至り、サチは目をつぶり腕を弛緩させた。視界を遮ったところで気配は読める。斜め上から刃は迫ってくる。避けなければ、首の付けに打ち込まれるはず……刃は寸前でピタッと止まった。
サチは恐る恐る瞼を上げる。すぐ近くにザカリヤのしい顔があった。いつもの慈に満ちた天使顔ではない。鋭利な切っ先を思わせる獣の顔だ。
「なぜ避けない?」
「俺のことは殺してくれていい」
「泣き言を聞いてやる期間は終了した」
ザカリヤの言葉が終わるや否や、サチは地面に突っ伏した。毆られたのである。続いて腹に強烈な一撃をれられる。今度は蹴られた。
「おら、立て! 剣を教えてほしいと言ったのはおまえだろうが! 戦え!!」
痛みは恐怖を呼び覚まし、の覚を取り戻させる。サチは歯を食いしばり、立ち上がった。
その後、サチは思考を停止し、ひたすら剣をけ続けるしかなかった。なんのためにけるのか、なんのために戦うのか……答えは出ないまま。痛みから逃れたいためだけにいていたといってもいい。
どれぐらいの間、打ち合っていたのかは定かではないがザカリヤが猛攻をやめた時、サチはボロボロに疲弊していた。魔人ので汗をかき、呼吸がれるというのはよほどの運量だ。気づけば、サチたちの周り直徑一スタディオン(二百メートル)ほどが陥沒していた。まるで、隕石でも落ちたかのようだ。
「えらい! よくやった! グランディス、褒めてつかわす」
ザカリヤはクシャクシャの笑顔を見せ、サチの頭をガシガシでた。これでは地下室にいた時へ逆戻りだ。だが、激しい攻めが終わり、気が抜けてしまったサチはされるがままである。このまま、ザカリヤのペットとして生きていくような気もしていた。
「さ、褒として、風呂にらせてやろう。來るのだ!」
サチは上機嫌のザカリヤに蒸し風呂へ連れて行かれた。
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